第2話 お嬢様の前から、退く理由がございません
お嬢様は、数字の話をなさる。
どの品がいくらで売れ、どの契約がいつ終わり、どこで損が出ているのか。それを口にするだけで、社交界には眉をひそめる者がいる。
令嬢が金の話など。商家上がりの家らしい。気品がない。
お嬢様はたいてい、笑って受け流される。けれど、帰りの馬車でまで笑っておられるわけではない。
窓の外へ顔を向け、誰も見ていないと思って、小さく息を吐くことがある。
私は、そういう時の横顔も知っている。
倉庫の在庫が足りなければ、冬を越せない村がある。輸送に余分な費用がかかれば、働く者へ回せる金が減る。売れない布が積み上がれば、次の仕事を待つ織り手が困る。
お嬢様が帳簿を閉じないのは、金を数えていたいからではない。その数字を確かめずに約束をすれば、困る人がいるからだ。
それを優雅さが足りないと言うのなら、優雅な方々にも一度、倉庫の荷を数えていただきたい。
夜会へ向かう馬車の中で、お嬢様は膝の上の手袋を整えていた。
「今日、ヴィクトル様から大事なお話があるそうよ」
「伺っております」
「何だと思う?」
「婚約についてではないかと」
お嬢様の指が止まった。
「良いお話ではなさそうね」
私は、見たことだけを申し上げた。先週、侯爵家を訪れた際、ヴィクトル様の従僕が、モートン伯爵家宛ての贈り物を積ませていたこと。お嬢様への返事より、その手配を優先していたこと。
それだけで婚約解消と決めることはできない。けれど、何も知らずに夜会へお連れすることもできなかった。
「そう。教えてくれてありがとう」
お嬢様は手袋の指先を一つずつ伸ばした。やがて、その手を膝の上へ重ねる。
何をお考えかは、分からなかった。ただ、今夜はいつもより近くにいようと決めた。
ヴィクトル様は、広間の中央で婚約解消を宣言した。
隣にいるエヴァンジェリン嬢の顔には、勝ち誇った色がない。話が始まるにつれ、こちらとヴィクトル様を見比べる回数が増えていった。
あの方も、詳しい事情を聞かされていないらしい。
「君は金額だの契約だの、商売の話ばかりだ。侯爵夫人となる女性には、もっと優雅さが求められる」
お嬢様は、手袋をした指を揃えておられた。
馬車の中で整えた指先だった。私はそれを見て、ヴィクトル様との距離を測った。
一歩前へ出れば、届く。
「お嬢様。転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」
「却下します」
「まだ転んでおりません」
「転ぶ前に止めています」
袖を引かれた。飲み物の卓からも、銀盆を持つ給仕からも離れる方向へ。
ご自分が婚約を解消されている最中なのに、私が巻き込むかもしれない相手まで気にしておられる。
そのような主人の前で、本当に転ぶわけにはいかなくなった。
ヴィクトル様は、まだ商家の娘を見下していた。助けを受けている家に対して、金で血統は買えないと仰る。
お嬢様は婚約解消を受け入れ、来期の融資保証を更新しないと告げた。今期の契約は守り、以後は通常の取引へ戻す、と。
ヴィクトル様の声が大きくなるほど、お嬢様の返事は短くなった。何度説明しても、あの方は婚約と支援を別々に持っていたいらしい。
「待て。支援を続けると約束しろ」
「その条件では、父に勧めることができません」
袖から手が離れ、お嬢様が一礼した。
その顔が上がるのと、ヴィクトル様が大きく踏み出すのが、ほとんど同時だった。
「この成り上がりの娘が!」
右の拳が引かれた。
お嬢様は動けずにいた。私は横から前へ入り、伸びてくる腕の内側へ身を寄せた。
腕を外へ押す。拳がお嬢様から逸れる。
だが、ヴィクトル様は大きく踏み込んだ勢いで、まだ前へ来ていた。腕をそらされ、顔がこちらへ下がってくる。
私は顎を引いた。
お嬢様の前を空けるつもりはなかった。
ごつん。
額に鈍い痛みが走った。
ヴィクトル様が鼻を押さえてしゃがみ込む。私は立っている。背後のお嬢様にも、拳は届いていない。
給仕の盆は落ちず、卓のグラスも無事だった。何も飛ばずに済んだ。
「マリア、怪我は?」
「ございません」
振り返ると、お嬢様の顔色が白かった。額へ伸ばしかけた手が、途中で止まる。
「赤くなっているわ。痛むでしょう」
「お嬢様に当たるよりは軽微でございます」
傷が開いたわけではない。けれど、痛くないと言い張っても、お嬢様は信じてくださらないだろう。
お嬢様の指が私の袖をつかんだ。私は動かずに待った。握られたところに細かな皺が寄っていく。
「この侍女、頭突きを……!」
ヴィクトル様の声で、私は正面へ向き直った。
「しておりません」
「額を出しただろう!」
「顎を引きました。殴られないように」
頭を振りかぶったわけではない。こちらから額を突き出してもいない。
ただ、相手の顔が近づいてくるのは見えていた。その場所から、お嬢様の前を空ける方向へ退く理由がなかった。
「では、なぜ私の鼻が!」
「そちらから届きましたので」
誰かが咳き込み、銀盆のグラスが触れ合った。
お嬢様は袖をつかんだまま、ほんの少し俯いた。笑っているかどうかまでは、私の位置から見えなかった。
指の震えが収まるまで、急いで歩き出すつもりはなかった。
ハルフォード侯爵夫人が進み出た。息子の言い分を聞き終える前に、令嬢へ殴りかかったのはあなたです、と仰る。
お嬢様へ謝罪する母君に、ヴィクトル様はまた「成り上がりの男爵家」と言った。
「我が家が落ち目だからといって、品位まで失ってよい理由にはなりません」
お嬢様の指が、少し緩んだ。
夫人は家名を守ろうとしていた。けれど、そのために息子のしたことを隠そうとはしなかった。
ジュリアン様も、兄のそばで足を止めた。
「兄さん。女性に手を上げるのは、ちょっとないんじゃないかな」
ヴィクトル様は顔を背けた。
弟君はそれ以上言葉を重ねず、母君がお嬢様へ話す間、兄の横で待っていた。
「婚約解消の書面は、こちらから正式にお送りします。取引のお話は、そのあとで結構です」
支援を求めるためのお詫びではないらしい。
お嬢様は、毛織物の取引については父君へ継続を進言すると答えた。
「お気遣いには及びません」
「気遣いではございません。品物が良いので」
私は、お嬢様の背筋が伸びるのを見た。
あれほどの無礼を受けても、良い品まで悪く言うことはなさらない。織り手の仕事と、ヴィクトル様のしたことは、別だからだ。
商家の娘。その呼び方を、私は侮辱だと思わない。
医師に鼻を診せるよう命じられ、ジュリアン様が兄へ腕を差し出した。
ヴィクトル様は払いのけようとしたが、片手で鼻を押さえたままではうまく立てない。結局、弟君に引き起こされた。
「離せ。あの侍女が、私の鼻に――」
「兄さんから届いたらしいよ」
正しい理解だった。
銀盆がまた鳴り、給仕が近くの卓へそれを下ろした。空いた両手を前で揃え、たいへん真面目な顔をしている。
私も、礼節を保つことにした。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
広間を出てから、お嬢様はようやく袖を離された。
顔色がまだ優れない。額のことより先に、お休みいただかなければと思った。
「お顔の色が優れません。お休みになりますか」
「そうね。一緒に休みましょう。まず、あなたの額を冷やしてから」
自分の額へ触れようとして、手を止めた。今押さえれば、痛い顔をしてしまうかもしれない。
「まだ痛む?」
「わずかに」
「なら、冷やしている間は大人しくしていてね」
手を取られた。
いつもは私がお嬢様の行く先を確かめる。けれど、この時ばかりは、引かれるままについていった。
「ずいぶん、ぴったり合ったわね。あなたの額と、あの方の鼻」
「相手の踏み込みが優秀でした」
お嬢様が笑った。その拍子に、つないだ手がわずかに震えた。
私はその手を握り返した。額はまだ少し痛かったが、冷やす間もそばにいてくださるらしい。
痛みが引いても、しばらくは大人しくしていようと思った。




