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【連載版】私の侍女が顔面ケーキをお届けします。  作者: 堀吉 蔵人
第四章「成り上がり」と私を殴ろうとした婚約者の鼻が、侍女の額へ届きました

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第2話 お嬢様の前から、退く理由がございません

 お嬢様は、数字の話をなさる。

 どの品がいくらで売れ、どの契約がいつ終わり、どこで損が出ているのか。それを口にするだけで、社交界には眉をひそめる者がいる。

 令嬢が金の話など。商家上がりの家らしい。気品がない。


 お嬢様はたいてい、笑って受け流される。けれど、帰りの馬車でまで笑っておられるわけではない。

 窓の外へ顔を向け、誰も見ていないと思って、小さく息を吐くことがある。

 私は、そういう時の横顔も知っている。


 倉庫の在庫が足りなければ、冬を越せない村がある。輸送に余分な費用がかかれば、働く者へ回せる金が減る。売れない布が積み上がれば、次の仕事を待つ織り手が困る。

 お嬢様が帳簿を閉じないのは、金を数えていたいからではない。その数字を確かめずに約束をすれば、困る人がいるからだ。

 それを優雅さが足りないと言うのなら、優雅な方々にも一度、倉庫の荷を数えていただきたい。


 夜会へ向かう馬車の中で、お嬢様は膝の上の手袋を整えていた。


「今日、ヴィクトル様から大事なお話があるそうよ」

「伺っております」

「何だと思う?」

「婚約についてではないかと」


 お嬢様の指が止まった。


「良いお話ではなさそうね」


 私は、見たことだけを申し上げた。先週、侯爵家を訪れた際、ヴィクトル様の従僕が、モートン伯爵家宛ての贈り物を積ませていたこと。お嬢様への返事より、その手配を優先していたこと。

 それだけで婚約解消と決めることはできない。けれど、何も知らずに夜会へお連れすることもできなかった。


「そう。教えてくれてありがとう」


 お嬢様は手袋の指先を一つずつ伸ばした。やがて、その手を膝の上へ重ねる。

 何をお考えかは、分からなかった。ただ、今夜はいつもより近くにいようと決めた。


 ヴィクトル様は、広間の中央で婚約解消を宣言した。

 隣にいるエヴァンジェリン嬢の顔には、勝ち誇った色がない。話が始まるにつれ、こちらとヴィクトル様を見比べる回数が増えていった。

 あの方も、詳しい事情を聞かされていないらしい。


「君は金額だの契約だの、商売の話ばかりだ。侯爵夫人となる女性には、もっと優雅さが求められる」


 お嬢様は、手袋をした指を揃えておられた。

 馬車の中で整えた指先だった。私はそれを見て、ヴィクトル様との距離を測った。

 一歩前へ出れば、届く。


「お嬢様。転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」

「却下します」

「まだ転んでおりません」

「転ぶ前に止めています」


 袖を引かれた。飲み物の卓からも、銀盆を持つ給仕からも離れる方向へ。

 ご自分が婚約を解消されている最中なのに、私が巻き込むかもしれない相手まで気にしておられる。

 そのような主人の前で、本当に転ぶわけにはいかなくなった。


 ヴィクトル様は、まだ商家の娘を見下していた。助けを受けている家に対して、金で血統は買えないと仰る。

 お嬢様は婚約解消を受け入れ、来期の融資保証を更新しないと告げた。今期の契約は守り、以後は通常の取引へ戻す、と。

 ヴィクトル様の声が大きくなるほど、お嬢様の返事は短くなった。何度説明しても、あの方は婚約と支援を別々に持っていたいらしい。


「待て。支援を続けると約束しろ」

「その条件では、父に勧めることができません」


 袖から手が離れ、お嬢様が一礼した。

 その顔が上がるのと、ヴィクトル様が大きく踏み出すのが、ほとんど同時だった。


「この成り上がりの娘が!」


 右の拳が引かれた。

 お嬢様は動けずにいた。私は横から前へ入り、伸びてくる腕の内側へ身を寄せた。

 腕を外へ押す。拳がお嬢様から逸れる。


 だが、ヴィクトル様は大きく踏み込んだ勢いで、まだ前へ来ていた。腕をそらされ、顔がこちらへ下がってくる。

 私は顎を引いた。

 お嬢様の前を空けるつもりはなかった。


 ごつん。


 額に鈍い痛みが走った。

 ヴィクトル様が鼻を押さえてしゃがみ込む。私は立っている。背後のお嬢様にも、拳は届いていない。

 給仕の盆は落ちず、卓のグラスも無事だった。何も飛ばずに済んだ。


「マリア、怪我は?」

「ございません」


 振り返ると、お嬢様の顔色が白かった。額へ伸ばしかけた手が、途中で止まる。


「赤くなっているわ。痛むでしょう」

「お嬢様に当たるよりは軽微でございます」


 傷が開いたわけではない。けれど、痛くないと言い張っても、お嬢様は信じてくださらないだろう。

 お嬢様の指が私の袖をつかんだ。私は動かずに待った。握られたところに細かな皺が寄っていく。


「この侍女、頭突きを……!」


 ヴィクトル様の声で、私は正面へ向き直った。


「しておりません」

「額を出しただろう!」

「顎を引きました。殴られないように」


 頭を振りかぶったわけではない。こちらから額を突き出してもいない。

 ただ、相手の顔が近づいてくるのは見えていた。その場所から、お嬢様の前を空ける方向へ退く理由がなかった。


「では、なぜ私の鼻が!」

「そちらから届きましたので」


 誰かが咳き込み、銀盆のグラスが触れ合った。

 お嬢様は袖をつかんだまま、ほんの少し俯いた。笑っているかどうかまでは、私の位置から見えなかった。

 指の震えが収まるまで、急いで歩き出すつもりはなかった。


 ハルフォード侯爵夫人が進み出た。息子の言い分を聞き終える前に、令嬢へ殴りかかったのはあなたです、と仰る。

 お嬢様へ謝罪する母君に、ヴィクトル様はまた「成り上がりの男爵家」と言った。


「我が家が落ち目だからといって、品位まで失ってよい理由にはなりません」


 お嬢様の指が、少し緩んだ。

 夫人は家名を守ろうとしていた。けれど、そのために息子のしたことを隠そうとはしなかった。

 ジュリアン様も、兄のそばで足を止めた。


「兄さん。女性に手を上げるのは、ちょっとないんじゃないかな」


 ヴィクトル様は顔を背けた。

 弟君はそれ以上言葉を重ねず、母君がお嬢様へ話す間、兄の横で待っていた。


「婚約解消の書面は、こちらから正式にお送りします。取引のお話は、そのあとで結構です」


 支援を求めるためのお詫びではないらしい。

 お嬢様は、毛織物の取引については父君へ継続を進言すると答えた。


「お気遣いには及びません」

「気遣いではございません。品物が良いので」


 私は、お嬢様の背筋が伸びるのを見た。

 あれほどの無礼を受けても、良い品まで悪く言うことはなさらない。織り手の仕事と、ヴィクトル様のしたことは、別だからだ。

 商家の娘。その呼び方を、私は侮辱だと思わない。


 医師に鼻を診せるよう命じられ、ジュリアン様が兄へ腕を差し出した。

 ヴィクトル様は払いのけようとしたが、片手で鼻を押さえたままではうまく立てない。結局、弟君に引き起こされた。


「離せ。あの侍女が、私の鼻に――」

「兄さんから届いたらしいよ」


 正しい理解だった。

 銀盆がまた鳴り、給仕が近くの卓へそれを下ろした。空いた両手を前で揃え、たいへん真面目な顔をしている。

 私も、礼節を保つことにした。


「参りましょう、マリア」

「はい、お嬢様」


 広間を出てから、お嬢様はようやく袖を離された。

 顔色がまだ優れない。額のことより先に、お休みいただかなければと思った。


「お顔の色が優れません。お休みになりますか」

「そうね。一緒に休みましょう。まず、あなたの額を冷やしてから」


 自分の額へ触れようとして、手を止めた。今押さえれば、痛い顔をしてしまうかもしれない。


「まだ痛む?」

「わずかに」

「なら、冷やしている間は大人しくしていてね」


 手を取られた。

 いつもは私がお嬢様の行く先を確かめる。けれど、この時ばかりは、引かれるままについていった。


「ずいぶん、ぴったり合ったわね。あなたの額と、あの方の鼻」

「相手の踏み込みが優秀でした」


 お嬢様が笑った。その拍子に、つないだ手がわずかに震えた。

 私はその手を握り返した。額はまだ少し痛かったが、冷やす間もそばにいてくださるらしい。

 痛みが引いても、しばらくは大人しくしていようと思った。


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