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【連載版】私の侍女が顔面ケーキをお届けします。  作者: 堀吉 蔵人
第四章「成り上がり」と私を殴ろうとした婚約者の鼻が、侍女の額へ届きました

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第3話 婚約はなくなりましたが、取引は残りました

 あの夜会から三日後、婚約解消の書面が届いた。両家で確認した内容を記した、余計な言い訳のない文面だった。

 父が署名を済ませた控えを、私はもう一度読んだ。


「正式に終わりましたね」

「そうね」


 私が差し出すと、マリアは書面を受け取って折りたたんだ。

 思っていたより、胸は静かだった。寂しくないわけではない。長く婚約者として付き合ってきた相手だ。けれど、あの夜会で見たものを、なかったことにはできなかった。


「お父様は、まだ怒っていらした?」

「大変に。ただし、お怒りを口にされるより、融資保証の見直しに時間を使っておられました」

「お父様らしいわ」


 ベルナール家では、怒っている時ほど先に帳簿が開かれる。決めるべきことを後回しにすると、困る人が増えるからだ。

 今期の融資や保証は、契約どおりに履行する。次回以降、婚姻を前提とした優遇条件では引き受けない。一方で、すでに注文した毛織物は、約束した価格と期日に買い付ける。

 父は取引先へ送る書状を確かめ、最後にそれだけ私へ言った。


「品物に罪はない」


 翌週、ハルフォード侯爵家から客が来た。ヴィクトル様ではなく、弟のジュリアン様だった。

 応接室へ通すと、彼は分厚い帳簿を三冊抱えていた。後ろに従者がいるのに、自分で持っている。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「ずいぶん重そうですね」

「重いです。兄が見なかった分まで、僕が見ることになりまして」

「それは……」

「遠慮なく笑ってください」


 少し迷ってから、私は笑った。ジュリアン様も困ったように笑う。

 夜会では軽い調子に見えたが、今日は目の下に薄く疲れがあった。


「侯爵夫人はお元気ですか」

「元気です。元気に僕へ仕事を振っています」

「それは何よりです」

「何よりかどうかは、まだ判断がつきません」


 彼は帳簿を机へ置き、印を挟んだ一冊を開いた。


「毛織物の件で参りました。今のご注文をそのまま進めていただけると伺って、職人たちも安心しています」

「こちらも、届くのを楽しみにしています」

「今日は、その次の品についてご相談したくて」


 ジュリアン様は、領地で織っている布の見本を従者から受け取った。

 婚約を理由に余った品まで買ってほしいとは言わない。保証の継続を取引の条件にすることもなかった。私たちは見本を広げ、織る費用と輸送費を確かめながら、どこで、いくらなら売れるかを話し合った。


「南部で動いているのは、厚手の冬物より、薄手の外套用です」

「この布では、少し重いですね」

「ええ。軽くできれば、試してみたいのですが」

「織り方で変えられるか、職人に確認します。糸から変えるとなると、費用も調べ直さないと」

「見積もりをいただけますか。こちらでも売り場に相談します」

「承知しました」


 分からないことがあると、ジュリアン様は手帳に書き留めた。分かったふりをせず、こちらにも質問する。

 私は説明の途中で言葉を選び直すことが、次第に少なくなった。値段の話を始めても、相手の機嫌をうかがわなくていい。


「兄は、こういう話を嫌っていたでしょう」

「ええ」

「僕も前は、少し苦手でした」

「今は?」

「嫌っている余裕がありません」


 その言い方がおかしくて、私はまた笑った。


「でも、数字を見れば、悪いところが分かります」

「はい」

「良くなったところも」

「ええ。前と比べられますから」


 ジュリアン様は、帳簿の一行を指でたどった。


「兄は、悪いところを見たくなかったんだと思います」


 責める声ではなかった。かといって、庇ってもいない。彼は開いた頁から目をそらさなかった。


「ヴィクトル様は、今どちらに?」

「西の領地です。母が、倉庫の仕事から始めさせました」

「倉庫ですか」

「帳簿を見ないなら、まず荷物の数から覚えなさい、と」

「ご本人は?」

「初めは怒っていました。昨日届いた報告では、夕食のあと、文句を言う前に寝てしまったそうです」


 背後で、マリアが小さく息を吐いた。振り返ると、何事もなかった顔で茶を用意している。


「嫡男の扱いとしては、厳しいですね」

「母は、これまでが甘かったと言っています。僕も他人事ではないので」


 ジュリアン様は、まだ開いていない残り二冊を見た。私は口元を押さえ、次の見本を手に取った。

 打ち合わせは二時間続いた。決められなかった箇所に印をつけ終えると、ジュリアン様が深く息を吐いた。


「兄は、あなたからも、こういう説明を聞く機会があったんですね」

「父に支援を相談するには、事情を確かめる必要がありましたから」

「聞いておけばよかったのに」


 今になって、もう一度説明に行くつもりはなかった。机の上に残った確認事項へ、私は目を戻した。


「婚約は終わりました」

「はい。ですので、今後は取引相手として、よろしくお願いします」


 ジュリアン様は、まっすぐこちらを見た。

 将来の侯爵夫人になるのだから、と言われることはもうない。品物を見て、条件を確かめ、買えるかどうかを答える。その返事を待ってくれる相手が、目の前にいた。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 握手を交わした。貴族同士の挨拶としては、少し商人的だった。でも、今の私たちにはそれが合っていた。

 帰り際、ジュリアン様はマリアへ視線を向けた。


「額は、もう大丈夫ですか」

「問題ございません」

「兄の鼻は、まだ腫れています」

「それは何よりです」

「マリア」

「早いご快復をお祈りしております」


 すぐに言い直したマリアを見て、ジュリアン様は肩を震わせた。


「兄には、最初の方だけ伝えておきます」

「全部お伝えくださいませ」

「やめなさい」


 客を見送ったあと、私はマリアの額を見た。もう赤みはない。


「本当に跡は残らなかったのね」

「はい」

「よかった」


 マリアは一度まばたきをしてから、私へ向き直った。


「お嬢様。先ほど、少し楽しそうでございました」

「商談が?」

「ジュリアン様との」

「話が早かったからよ」

「左様でございますか」

「何、その言い方」

「確認しただけでございます」


 マリアは無表情だった。だが、昔から知っている顔でもある。


「言っておくけれど、次の婚約者にするつもりはないわよ」

「まだ何も申し上げておりません」

「顔に出ているわ」

「出しておりません」

「では、考えていたのね」


 マリアは少し黙った。


「取引相手としては、優秀かと」

「そうね」

「お嬢様との相性も悪くございません」

「そこまで」


 応接室に戻ると、机には開いた布の見本が残っていた。私は端をそろえて畳み、来週までに確かめることを手帳へ写した。


 一か月後、薄手の毛織物の試作品が届いた。私は窓辺で布を持ち上げ、光に透かしてから肩へ掛けた。今までの見本より軽い。外套に仕立てた時の形も、想像しやすかった。

 父は手触りと見積もりを確かめ、まずは南部の店で扱う分の買い付けを決めた。ジュリアン様からは、織り手たちへ次の注文を伝えられたという返事が来た。

 私はその手紙を、婚約の書面とは別の、商談用の綴りへ挟んだ。


「お嬢様」

「何かしら」

「次回の打ち合わせは、来週でございます」

「分かったわ」

「ジュリアン様がお見えになります」

「それも分かっているわ」

「左様でございますか」


 綴りを閉じて顔を上げても、マリアはまだそこにいた。


「マリア。余計なことはしないで」

「頭突きはいたしません」

「誰もそんな話はしていないわ」


 マリアは静かに一礼した。その額は、今日も無事だった。


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― 新着の感想 ―
マリア無双、相変わらず健在! でも、わざとじゃないからね。今回は、たまたま鼻がきただけ。令嬢を殴ろうとしたわけだから、それですんでありがたいと思ってもらわねば。 暴力なんて最低だわ。マリアのおかげで倉…
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