第3話 婚約はなくなりましたが、取引は残りました
あの夜会から三日後、婚約解消の書面が届いた。両家で確認した内容を記した、余計な言い訳のない文面だった。
父が署名を済ませた控えを、私はもう一度読んだ。
「正式に終わりましたね」
「そうね」
私が差し出すと、マリアは書面を受け取って折りたたんだ。
思っていたより、胸は静かだった。寂しくないわけではない。長く婚約者として付き合ってきた相手だ。けれど、あの夜会で見たものを、なかったことにはできなかった。
「お父様は、まだ怒っていらした?」
「大変に。ただし、お怒りを口にされるより、融資保証の見直しに時間を使っておられました」
「お父様らしいわ」
ベルナール家では、怒っている時ほど先に帳簿が開かれる。決めるべきことを後回しにすると、困る人が増えるからだ。
今期の融資や保証は、契約どおりに履行する。次回以降、婚姻を前提とした優遇条件では引き受けない。一方で、すでに注文した毛織物は、約束した価格と期日に買い付ける。
父は取引先へ送る書状を確かめ、最後にそれだけ私へ言った。
「品物に罪はない」
翌週、ハルフォード侯爵家から客が来た。ヴィクトル様ではなく、弟のジュリアン様だった。
応接室へ通すと、彼は分厚い帳簿を三冊抱えていた。後ろに従者がいるのに、自分で持っている。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「ずいぶん重そうですね」
「重いです。兄が見なかった分まで、僕が見ることになりまして」
「それは……」
「遠慮なく笑ってください」
少し迷ってから、私は笑った。ジュリアン様も困ったように笑う。
夜会では軽い調子に見えたが、今日は目の下に薄く疲れがあった。
「侯爵夫人はお元気ですか」
「元気です。元気に僕へ仕事を振っています」
「それは何よりです」
「何よりかどうかは、まだ判断がつきません」
彼は帳簿を机へ置き、印を挟んだ一冊を開いた。
「毛織物の件で参りました。今のご注文をそのまま進めていただけると伺って、職人たちも安心しています」
「こちらも、届くのを楽しみにしています」
「今日は、その次の品についてご相談したくて」
ジュリアン様は、領地で織っている布の見本を従者から受け取った。
婚約を理由に余った品まで買ってほしいとは言わない。保証の継続を取引の条件にすることもなかった。私たちは見本を広げ、織る費用と輸送費を確かめながら、どこで、いくらなら売れるかを話し合った。
「南部で動いているのは、厚手の冬物より、薄手の外套用です」
「この布では、少し重いですね」
「ええ。軽くできれば、試してみたいのですが」
「織り方で変えられるか、職人に確認します。糸から変えるとなると、費用も調べ直さないと」
「見積もりをいただけますか。こちらでも売り場に相談します」
「承知しました」
分からないことがあると、ジュリアン様は手帳に書き留めた。分かったふりをせず、こちらにも質問する。
私は説明の途中で言葉を選び直すことが、次第に少なくなった。値段の話を始めても、相手の機嫌をうかがわなくていい。
「兄は、こういう話を嫌っていたでしょう」
「ええ」
「僕も前は、少し苦手でした」
「今は?」
「嫌っている余裕がありません」
その言い方がおかしくて、私はまた笑った。
「でも、数字を見れば、悪いところが分かります」
「はい」
「良くなったところも」
「ええ。前と比べられますから」
ジュリアン様は、帳簿の一行を指でたどった。
「兄は、悪いところを見たくなかったんだと思います」
責める声ではなかった。かといって、庇ってもいない。彼は開いた頁から目をそらさなかった。
「ヴィクトル様は、今どちらに?」
「西の領地です。母が、倉庫の仕事から始めさせました」
「倉庫ですか」
「帳簿を見ないなら、まず荷物の数から覚えなさい、と」
「ご本人は?」
「初めは怒っていました。昨日届いた報告では、夕食のあと、文句を言う前に寝てしまったそうです」
背後で、マリアが小さく息を吐いた。振り返ると、何事もなかった顔で茶を用意している。
「嫡男の扱いとしては、厳しいですね」
「母は、これまでが甘かったと言っています。僕も他人事ではないので」
ジュリアン様は、まだ開いていない残り二冊を見た。私は口元を押さえ、次の見本を手に取った。
打ち合わせは二時間続いた。決められなかった箇所に印をつけ終えると、ジュリアン様が深く息を吐いた。
「兄は、あなたからも、こういう説明を聞く機会があったんですね」
「父に支援を相談するには、事情を確かめる必要がありましたから」
「聞いておけばよかったのに」
今になって、もう一度説明に行くつもりはなかった。机の上に残った確認事項へ、私は目を戻した。
「婚約は終わりました」
「はい。ですので、今後は取引相手として、よろしくお願いします」
ジュリアン様は、まっすぐこちらを見た。
将来の侯爵夫人になるのだから、と言われることはもうない。品物を見て、条件を確かめ、買えるかどうかを答える。その返事を待ってくれる相手が、目の前にいた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
握手を交わした。貴族同士の挨拶としては、少し商人的だった。でも、今の私たちにはそれが合っていた。
帰り際、ジュリアン様はマリアへ視線を向けた。
「額は、もう大丈夫ですか」
「問題ございません」
「兄の鼻は、まだ腫れています」
「それは何よりです」
「マリア」
「早いご快復をお祈りしております」
すぐに言い直したマリアを見て、ジュリアン様は肩を震わせた。
「兄には、最初の方だけ伝えておきます」
「全部お伝えくださいませ」
「やめなさい」
客を見送ったあと、私はマリアの額を見た。もう赤みはない。
「本当に跡は残らなかったのね」
「はい」
「よかった」
マリアは一度まばたきをしてから、私へ向き直った。
「お嬢様。先ほど、少し楽しそうでございました」
「商談が?」
「ジュリアン様との」
「話が早かったからよ」
「左様でございますか」
「何、その言い方」
「確認しただけでございます」
マリアは無表情だった。だが、昔から知っている顔でもある。
「言っておくけれど、次の婚約者にするつもりはないわよ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出ているわ」
「出しておりません」
「では、考えていたのね」
マリアは少し黙った。
「取引相手としては、優秀かと」
「そうね」
「お嬢様との相性も悪くございません」
「そこまで」
応接室に戻ると、机には開いた布の見本が残っていた。私は端をそろえて畳み、来週までに確かめることを手帳へ写した。
一か月後、薄手の毛織物の試作品が届いた。私は窓辺で布を持ち上げ、光に透かしてから肩へ掛けた。今までの見本より軽い。外套に仕立てた時の形も、想像しやすかった。
父は手触りと見積もりを確かめ、まずは南部の店で扱う分の買い付けを決めた。ジュリアン様からは、織り手たちへ次の注文を伝えられたという返事が来た。
私はその手紙を、婚約の書面とは別の、商談用の綴りへ挟んだ。
「お嬢様」
「何かしら」
「次回の打ち合わせは、来週でございます」
「分かったわ」
「ジュリアン様がお見えになります」
「それも分かっているわ」
「左様でございますか」
綴りを閉じて顔を上げても、マリアはまだそこにいた。
「マリア。余計なことはしないで」
「頭突きはいたしません」
「誰もそんな話はしていないわ」
マリアは静かに一礼した。その額は、今日も無事だった。




