第1話 鼻が、額へ届く
※第四章の第1話は、短編版のダイジェストです。短編未読でもお楽しみいただけます。
「アデライン・ベルナール。君との婚約は、今夜をもって解消する」
ハルフォード侯爵家の夜会で、私は当の嫡男から婚約破棄を告げられた。
ヴィクトル様の腕には、エヴァンジェリン・モートン伯爵令嬢が手を添えている。つい先ほどまで頬を染めていた彼女は、今、私とヴィクトル様を交互に見ていた。
何の発表に同伴するのかは、聞いていなかったらしい。
「理由を伺っても?」
「私ほどの貴族の隣には、それに相応しい気品が必要だ」
ヴィクトル様は伯爵令嬢へ目を向けた。
「君は金額だの契約だの、商売の話ばかりだ。侯爵夫人となる女性には、もっと優雅さが求められる」
伯爵令嬢の笑みが消えた。褒められたはずなのに、腕に添えた指が落ち着かない。
背後でマリアが半歩近づいた。
「お嬢様。転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」
「却下します」
「まだ転んでおりません」
「転ぶ前に止めています」
近くには飲み物を載せた卓があり、銀盆を持った給仕もいる。私はマリアをそのどちらからも遠ざけるように、袖をそっと引いた。
ヴィクトル様が、その手元を見て鼻で笑う。
「侍女の躾まで商家流か。金で歴史も血統も買えないのだぞ」
「存じております」
ベルナール家は祖父の代まで商家だった。父が食料輸送の功績で男爵位を賜ったあとも、屋敷より倉庫の方が多い。
冬に領民へ食料を届けたことを、恥じたことはなかった。
「君を侯爵家へ迎えることは、男爵家にとって名誉だったはずだ。聞き分けよく婚約解消を受け入れたまえ」
「承知いたしました。では、婚姻を前提としていた来期の融資保証も、更新いたしません」
ヴィクトル様の笑みが消えた。伯爵令嬢も、小さく「融資保証」と繰り返す。
「それは両家の取り決めだ。婚約とは別だろう」
「父が支援したのは、私が嫁ぐ家だったからです」
「脅すつもりか」
「いいえ。今期の契約は履行いたします。来期以降は、通常の取引へ戻すだけです」
祖父も父も、取り交わした約束を破って商会を大きくしたわけではない。婚約がなくなっても、そこは変わらなかった。
伯爵令嬢が彼の腕から手を離す。
「融資が必要なほどとは、伺っておりませんでした」
「一時的な都合だ。君が気にすることではない」
彼女は一歩下がり、広間の奥にいる父君を探した。ヴィクトル様は、離れた腕より私の返事を気にしている。
「正式な書面をお待ちしております」
「待て。支援を続けると約束しろ」
「その条件では、父に勧めることができません」
私はマリアの袖から手を離し、一礼した。
顔を上げた時、ヴィクトル様が大きく踏み出してきた。
「この成り上がりの娘が!」
右の拳が引かれる。逃げなければと思ったのに、足が動かなかった。
マリアが私の横から、伸びてくる腕の内側へ滑り込んだ。その腕を外へ押すと、拳は私の頬から逸れていった。
けれど、大きく踏み込んだ上体までは止まらない。ヴィクトル様の顔が前へ出るのに合わせて、マリアが顎を引いた。
ごつん。
何も飛ばなかった。卓のグラスも、給仕の銀盆も、その場にある。
代わりにヴィクトル様が鼻を押さえ、しゃがみ込んだ。
「マリア、怪我は?」
「ございません」
振り向いた彼女の額が少し赤い。私は手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「赤くなっているわ。痛むでしょう」
「お嬢様に当たるよりは軽微でございます」
膝から力が抜けそうになり、私はまた彼女の袖をつかんだ。マリアはそれを引かず、私の前に立っていた。
「この侍女、頭突きを……!」
「しておりません」
「額を出しただろう!」
「顎を引きました。殴られないように」
静かな答えに、ヴィクトル様が鼻を押さえたまま顔を上げた。
「では、なぜ私の鼻が!」
「そちらから届きましたので」
近くで誰かが咳き込んだ。給仕の銀盆が小さく震え、グラス同士が触れ合う。
マリアは頭を振っていない。ヴィクトル様が踏み込んだ先に、ちょうど彼女の額があった。
ちょうど、あまりにも都合よく。
「おやめなさい、ヴィクトル」
ハルフォード侯爵夫人が人垣を分けて進み出た。その後ろには、弟のジュリアン様がいた。
「母上、この侍女が私に――」
「見ていました。令嬢に殴りかかったのは、あなたです」
夫人はマリアを見て、それから私へ向き直った。
「ベルナール嬢。息子が大変な無礼をいたしました。侯爵家を預かる者として、お詫び申し上げます」
「母上! 成り上がりの男爵家に、そこまで頭を下げることは――」
「我が家が落ち目だからといって、品位まで失ってよい理由にはなりません」
ヴィクトル様の口が閉じた。ジュリアン様も、しゃがみ込んだ兄を見下ろした。
「兄さん。女性に手を上げるのは、ちょっとないんじゃないかな」
弟にまで言われ、ヴィクトル様は顔を背けた。
夫人は私へ深く一礼し、姿勢を戻してから続けた。
「婚約解消の書面は、こちらから正式にお送りします。取引のお話は、そのあとで結構です」
支援を乞う言葉はなかった。困ると分かっていても、息子が言い出したことの責任を引き受けるつもりなのだ。
私はようやく、肩の力を抜いた。
「毛織物の取引については、父へ継続を進言いたします」
「お気遣いには及びません」
「気遣いではございません。品物が良いので」
夫人がわずかに目を見開いた。
「今後は、通常の取引として」
「もちろんです。こちらも、品物でお応えいたします」
その向こうで、父君のそばへ戻ったエヴァンジェリン嬢と目が合った。彼女が小さく頭を下げ、私も同じだけ返す。
侯爵夫人は次男を呼んだ。
「ジュリアン。兄を別室へ。医師に鼻を診せなさい」
「兄さん、立てる?」
差し出された腕を、ヴィクトル様は振り払おうとした。けれど鼻から手を離せず、結局、弟に引き起こされることになった。
「離せ。あの侍女が、私の鼻に――」
「兄さんから届いたらしいよ」
銀盆がまた鳴った。給仕は今度こそ、近くの卓へそっと置いた。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
広間を出ると、ようやく握っていた袖を離せた。マリアは皺になったところを直しもせず、私の顔を覗き込んだ。
「お顔の色が優れません。お休みになりますか」
「そうね。一緒に休みましょう。まず、あなたの額を冷やしてから」
彼女は額へ触れようとしたが、途中で手を下ろした。
「まだ痛む?」
「わずかに」
「なら、冷やしている間は大人しくしていてね」
私がその手を取ると、マリアは困ったように眉を下げた。先ほどは迷わず私の前へ出た侍女が、今は大人しくついてくる。
「ずいぶん、ぴったり合ったわね。あなたの額と、あの方の鼻」
「相手の踏み込みが優秀でした」
笑った拍子に、自分がまだ少し震えていることに気づいた。つないだ手へ力を込めると、マリアの指が握り返してくれた。
正式な婚約解消には、まだ書面を待たなければならない。
けれど、あの方の隣へ戻るつもりは、もうなかった。




