表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃の値段  作者: megu
PR
9/11

第8話 侍女が盗んだ鉄

 受渡口の板が上がる音で、私は膝をついた。四角い口の高さは床から膝ほどしかない。そこから見えるのは前室の床と、人の脛から下だけだ。


 アッタが器を抱えて出ていく。裸足の踵が、いつもより静かだった。


 見張りの靴が二足。片方は動かない。もう片方は、二歩ごとに止まる。


「椀が3つ。木皿が1つ。水差し」今夜の当番は、いちいち口へ出す男だ。数え終えるまで、灰入れの前は空かない。


「水差しはどこだ」


「こちらに」アッタの声がした。


「置け。……いや、そっちだ。灰の方じゃない」男は同じことを二度言う。言われた方が迷う言い方だった。


 アッタの裾が、灰入れの脇へ寄った。


 灰の擦れる、乾いた音がする。器の音より小さい。私は呼吸を止めた。止めても、聞こえるのは自分の心臓だけだった。


 鉄の柄が灰入れから抜ける音は、しなかった。代わりに、アッタの衣が一度ふくらんだ。


「おい」


 男の靴が、床を半分回った。「灰入れに何をしていた」


「手が汚れましたので」


「手」


「灰は脂を落とします」


「そんな話は聞いていない。俺は聞いていないぞ。手を出せ」


 太い指が、アッタの手首をつかんだ。四角い口の高さでは、そこまでしか見えない。腕が上がる。衣の内側で、硬い物が肋を押した音がした。


 立ち上がりかけて、膝が言うことを聞かなかった。ここで扉に飛びついても、鍵はこちら側にない。


 アッタのもう一方の手が、灰の中へ入った。


 悲鳴は、男の方から出た。


 握った灰に、火の残った木片が混じっていたのだ。男は手を振り、灰を撒き散らし、アッタを突き放した。壁に当たる音。器が転がる音。


 私は受渡口へ顔を寄せ、できるだけ低い声を出した。


「灰を頼んだのは私よ」


 靴が二足とも、こちらを向いた。


「何だと」


「手の傷を洗うのに要ると、その者へ言いつけたの。灰を水で溶いて洗うと膿まない。あなたも早く冷やしなさい」


「言いつけた、だと」


「二度眠った後の朝に、あの方がいらっしゃるわ。王妃の右手が膿んでいたら、誰の落ち度になるの」


 男は黙った。それから、痛みの方に負けた。


「……水だ。水を持ってこい」もう一足の靴が走った。焼けた手を庇う男の息が、板の向こうで浅くなっている。


「その者を戻して。器はもう数え終えたでしょう」


「数えた。……いや、椀が」


「3つよ。あなたが自分で言ったわ」板が下ろされる直前、アッタの裸足が受渡口の前を通った。踵に灰の白がついていた。


 錠が開き、アッタが押し込まれる。膝から落ちた。私は錠がまた閉まるのを待って、その背に手を置いた。


 アッタが衣の内側から布包みを抜くと、鉄は床へ滑り落ちた。鈍い音に、2人とも扉を見た。


 手から肘までの長さもない。幅の狭い先が曲がり、柄には灰の黒がこびりついている。鍬にも武器にもならない、炉の底を擦るためだけの小さな鉄だ。この部屋では、王笏より頼りになる。


「見せて」


「洗ってからにします」アッタは右の掌を握った。開かせると、皮が赤黒く縮れていた。手首には指の跡が5本残っている。


「灰で洗えとおっしゃったのは、王妃さまです」


「あれは嘘よ」


「嘘を本当にする手順は、王妃さまに教わりました」今朝の言葉の意趣返しかと思い、顔を上げる。アッタは笑っていなかった。


 私は自分の衣の裾を裂いた。謝罪も礼も口にせず、布だけを赤い手のそばへ置く。「先に巻かせて」


「巻いたら、指が曲がりません」


「その手で使うつもり」


「王妃さまの右手よりは」アッタが包帯を見た。「きっと、ましです」


 仕切りの木栓を浅く抜くと、板の隙間からマルティンの声が来た。灰の匂いに気づいていた。


「礼拝所の銀を手放せと説いた次は、炉の道具を盗んで逃げるのですか」


「銀より安いのでしょう」アッタが返した。


「神の怒りも、少しで済むとよいのですが」彼は笑い、すぐ咳になった。外の見張りが格子へ顔を寄せ、三人は祈りの声を大きくした。


 見張りが離れると、アッタは鉄を板の隙間へ滑らせた。


 外礼拝へ連れられた時、廊下の奥に新しい石粉が寄せてあったとマルティンは言った。外壁を繕った跡なら、掘っている方向は間違っていない。もっとも、その粉がどこの修繕で出たかは彼も知らない。


「それでも、昨夜よりはましね」


「床の下と天国のどちらへ向かっているか、半分に絞れました」マルティンは鉄をアッタへ返した。受け取る手が、火傷のない方へ替わっている。


 夜半、廊下の当番が替わった。灰で焼けた手の男は、今夜はもう来ない。


 三人で寝台を移し、黒い隙間をふさいでいた寝藁をどける。濡れた石の匂いが上がってきた。


 アッタが腹ばいになり、柄に布を巻く。鉄の先が石の縁へ入った。


「交代して」


「まだ、何もしていません」アッタは振り返らない。


「最初の石まで、あなた一人で動かさなくていいわ」


「誰が一人でやると申しました」


 私は答えられなかった。盗んだ人間の手で最初の石を動かさなければ、アッタの中では終わらないのかもしれない。それをまた王妃が決めてやることは、できない。


 アッタが体重をかけると、鉄は石を擦り、細い悲鳴を上げた。マルティンの右手が閉じ、三人の身体が一度に止まる。


 廊下の奥で誰かが笑っている。足音は近づかない。マルティンの手が開いた。


 二度目は、木片で一晩かけたより多い石粉が、ひと息で落ちた。アッタが柄を起こす。目当ての石が浮き、その上の土まで動いた。


「離して」マルティンの声と同時に、アッタが手を開いた。灰掻きが黒い隙間へ滑り、湿った土が布の外まで崩れ落ちる。


 アッタが迷わず穴へ腕を差し入れた。私はその腰に両腕を回した。


「ここで腕を折ったら、弟の踵を戻せないわ」


 アッタの身体が強張った。


「今、その話を使うのですか」


 手を放せば、アッタはもっと奥へ入る。放さなければ、また王妃の力で彼女の選択を奪う。どちらも正しくないなら、あとで払える方を選ぶ。


「そうよ。戻ったら怒って」


「もう怒っています」アッタは腕を振りほどかず、ゆっくり前へずれた。マルティンが上の土を支え、私は腕が入りすぎないよう腰を抱え続ける。


 アッタの身体が一度跳ね、穴の中で鉄が鳴った。


「ありました」その声と同時に、足音が曲がり角を回った。


 アッタと穴には、時間が要る。時間を作れる場所は、扉のこちら側しかない。私は手を離し、寝台を半分だけ戻して、扉の前に座った。


「灯を借りたいの」


「朝まで眠れ」


「返事の最初の言葉が決まったわ」


 灯の動きが止まった。見張りも、使者の欲しがる答えは知りたいらしい。


「それで」


「共同王アダルベルト殿に――」そこで止める。


「続きは」


「灯がなければ、書けないわ」


 見張りが格子へ灯を寄せた。私の顔と包帯の右手が明るくなる。灯が近づくほど、背後の寝台は濃い影へ沈んだ。


「どう続けると、あなたは思う?」


「俺が知るか」


「結婚すると、なぜ言わないの」


「囚人が逆らう理由などない」本気の答えだった。私はうなずいた。


「あなたの名は」


「何のためだ」見張りの目が細くなった。


「ここで私が婚姻を望んでいると聞いた人を、覚えておきたいの」見張りは灯を引いた。何か言い返した唇の動きは、もう読めない。まだ格子のすぐ外にいるのに、急に遠ざかって見えた。


 靴音が消えても、すぐには振り返らない。15まで数え、念のため、もう15。


 穴の前で、アッタが灰掻きを胸に抱いていた。笑おうとして、顔が歪む。


「指が抜けなくなるかと思いました」


「私も」裂いた布を取り、赤い手首へ巻いた。


「弟のことは――」


「今は穴を見てください」アッタは結び目を自分で強く引いた。謝罪は、まだ受け取られない。私は手を離し、穴の前に伏せた。


 腕が入るほどの空隙が残っている。湿った土の奥から、冷たい空気と、水の滴る音。その後に、乾いた咳が続いた。


 二度目を途中で噛み殺す、夜番と同じ咳だった。今度は、石の向こうからだ。三人の耳元に、じかに返ってきた。


史実メモ:地下掘削は近い王朝詩にありますが、鉄の道具は約160年後のドニゾに現れる伝承です。本作はその鉄を採用し、アッタが盗む経緯、三人の作業分担、崩落を創作しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ