第7話 二度眠った後の朝
扉の外で靴音が4つ止まり、3つが遠ざかった。残った1人は、中の音が絶えるまで鍵に触れない。聞いているのだ。なら、聞かせる音はこちらで選ぶ。
寝台の下には、昨夜外れた小石が灰に埋めてある。黒い隙間は寝藁で隠した。脚を一度蹴られれば、それで終わる。
私は寝台の縁に座り、包帯を巻いた右手を膝に置いた。アッタは水差しを抱え、いつもより一歩遠くに立つ。器が鳴らない距離を、この人はもう知っている。
鍵が、ゆっくり回った。
入ってきたのは、雨の日に婚姻状を読んだ男だった。今日は外套が乾いている。髭まで整えてあった。身支度そのものが口上らしい。
従者が低い椅子を格子の外に置き、男が腰を下ろす。膝の書面から、鮮やかな赤い蝋印が下がっていた。夫の印は褐色で、縁が欠けていた。この赤は、昨日固めたばかりの艶をしている。新しい家は、蝋まで若い。
「お心は決まりましたか」男は書面を膝の上でそろえた。爪が短く切ってある。
「あなたの名前を、まだ聞いていないわ」
「代わりに、お持ちしたものがございます」男の指が袖の中へ入った。取り出すまでに、少し間があった。
男は手袋を外し、唇を一度湿らせてから、細長い切れ端を格子の隙間に差し入れた。指2本の幅もない。日付と名前が並んでいる。
「読み上げて」
「お読みになれる字です」男はそれをこちらへ寄せた。渡しはしない。端を押さえた指が、そのまま止まっている。
「読み上げなさい。私に仕えた者たちの名です」
男の親指が、その縁で止まった。それから、読んだ。
「厩のランド、4月18日。針のベルタ、4月19日。ほかに9人。いずれも暇を出されております」
4月18日は、婚姻状の全文を読ませろと言った日だ。4月19日は、返す土地の名を訊いた日。
「私が問いを増やした日ね」
「私は日付を読み上げております」
「あの者たちは、どこへ」
「行き先までは、書いてございません」男は言い、それきり黙った。書いていないのか、書けなかったのか。この人が持ってきたのは、紙に載っている分の答えだけだ。
二度読んで、返した。指が離れる時、切れ端が少し震えた。私の指の方だった。
「覚えました」
「お覚えになっても、戻りません」
「数えておきたいの」11人。
男は切れ端を袖に落とし、それきり名前の話をしなかった。
石段を42段上った日から、月は3度満ちて欠けた。私が数えてきたのは舟の音と、渡した物。向こうは、人だった。
「返答の期限を延ばします」男は紐の先を持ち上げた。「二度眠った後の朝、私はここを発ちます」
二度眠った後の朝。
「櫂の音がそろう朝ね」
「何のお話でしょう」男は書面を膝で押さえ直した。押さえる必要のない書面だった。
「重い櫂が一斉に水を叩いて、そのあと荷下ろしの怒鳴り声が続くの。間はきまって、眠りが二つ。今朝も、あの音で目が覚めたわ」
男の親指が、また止まった。
「二夜は、私に下さった猶予ではありません。あなたが舟を待つ時間です」
「文言の遊びはやめましょう」男の声から、丁寧さの上澄みが消えた。奥歯を噛んだのが頬に出ている。
「婚姻を口にしたくないのは、どちら」
「共同王アダルベルトとの婚姻です。私の口から聞けば、ご満足ですか」
「少し」私は膝の上で指を組み、声を半分落とした。男が椅子の上で少し前へ出る。
背後で、アッタが息を呑んだ。男の目に、初めて怒りに似た光が浮く。
「ご返答がなければ、エンマ様の預け先も、今のままとは参りません」
「どこへ移すの」
声より先に右手が握られ、乾きかけた傷が裂けた。男の口元から、怒りは消えている。彼が待っていたのは、この声だ。
「ご心配なら、良いお返事を」
エンマは眠くなると、掛布の端を親指に巻きつけた。朝には指が白くなっていて、ほどくのは私の仕事だった。移された先で同じことをしたら、あの子の指を、誰がほどく。
婚姻すれば娘に会わせると、書いて。その一文が喉まで来た。書かせれば、署名するのは私だ。
背後で陶器が石に当たった。アッタが水差しを落としかけ、両手で抱え直している。取っ手を握る指が白い。
息を一つ入れて、頭を戻す。男は移送を「参りません」としか言わなかった。日も、行き先も、預かる者の名も口にしていない。
「最後にあの子の顔を見たのは、いつ」
「私の役目は、ご返答を預かることです」
「あの子の年も知らないのね」私は待った。男は書面の同じ場所を見ている。
瞬きが、一度だけ遅れた。この男はエンマの今を、自分の言葉で語れない。脅しは主人から借りてきたものだ。
「返事は、アダルベルト殿本人に渡すの」
「王家に。それ以上は、私の役目ではありません」男は印を布に包み、手早くまた開いた。落ち着かない指。この人も、王の前へ自由に出入りできる身ではないのだろう。
役目。その一語で声が軽くなるのは、雨の日と同じだ。違うのは、軽くしたあとで唇を湿らせること。前は、それで足りていた。
「次に来るときは、書面を全部読ませて。司祭も証人に立たせて」
「司祭を呼べば、ご決心に」
男が身を乗り出した。都合のいい誤解をしている。訂正はしない。
「前室に椅子を3つ。証人を床に座らせて、署名を見せるつもり」
「……手配いたします」
男は従者へ短く命じ、立ち上がった。書面の赤い印が一度回って、裏へ隠れる。
「今度は、お待たせしません」
「ええ。待つのは、私たちも嫌いになったの」
男の目が細くなった。何を聞き取ったのかは知らない。鍵束の影が寝台の脚をかすめ、アッタの抱く水が小さく揺れた。
扉が閉まると、私は寝台に背を折った。包帯の下で、傷がまた開いている。
「あと一文で、婚姻すると言っていたわ」
そう口にすると、あの場で止めた言葉を、いまも続けてしまいそうだった。
「私も、水差しを落とすところでした」アッタが床に座り込む。指がまだ取っ手から離れない。
「あなたには、子どもがいないもの」
言ってから、取り消したくなった。アッタが顔を上げる。
「いません。弟はいます」
「弟なら、置いて逃げられる?」
「置いてきたから、帰りたいんです」
アッタの弟は、眠ると必ず裸足を寝藁から出すのだという。冬の朝に踵が裂けても癖は直らず、母が死んでからは、アッタが何度も押し戻した。パヴィアの厨房の裏、竈にいちばん近い寝床だ。
「最後の夜は、戻してやれませんでした。私はここへ連れてこられたので」
私は顔を伏せた。謝れなかった夜の続きを、自分からもう一度深くした。
夕刻の祈りで仕切りが開き、マルティンが2人の顔を見た。何も尋ねず、一節目を唱える。見張りの足が遠のいてから、私は朝の話をした。
「エンマが門の前に連れてこられたら、私は署名するわ」
口に出すと、怖ろしいほど楽になった。娘を抱けるのなら、王妃という名も、土地も、死んだ夫の印も手放せる。
「その子の前で、署名できますか」マルティンが聞いた。
答えられなかった。いつかエンマが、自分を連れ戻すために母が何に署名したのかを知ったら、どんな顔をするだろう。
「あの男が、王妃さまの返事より先にエンマ様を連れてくると思いますか」アッタの声は硬かった。
連れてこない。エンマは、まだ居場所さえ分からない。私がここにいる限り、2日後も、その次の舟も、同じ紙を運んでくる。
「二夜後の朝までに出る」私は言った。
「木片では、石の下まで届きません」マルティンが言った。
アッタが格子の傍へ目をやった。前室を清めた男が、灰掻きを灰入れに戻したままにしている。短い柄が、受渡口の方へ斜めに突き出ていた。椅子を3つ頼んだせいで、あの男は今日、二度も前室を掃いている。
「鉄なら、あります」アッタは祈る姿勢のまま、床に両掌をついた。
見張りがこちらを見ている。アッタは祈りの文句に戻り、灰掻きにはもう目を向けない。
「器を返す時に、一度だけ手が届きます」
「私は何をすればいい」
「受渡口から、見ていてください」
「見ているだけ?」
「見ていてくださるのが、いちばん助かります」
史実メモ:メルゼブルク死者簿は、951年4月20日の捕縛と8月20日の解放を記します。四か月が拘束の外枠です。ただし本作は話内の暦を優先しており、牢で読み上げられる日付はこの外枠と揃いません。暇を出された従者の名簿、使者の印・委任・期限、エンマへの脅し、外礼拝と伝言は創作です。




