第6話 土をどこへ隠す
朝食の木椀に冷えた灰を広げ、アッタが昨夜の粉を落とした。念入りに混ぜても、灰の中に白い筋が浮く。
「灰は使えません」
マルティンは夜明けに外礼拝へ連れ出され、仕切りの向こうは空だ。板一枚ぶん静かになった部屋で、アッタはそれを水で湿らせた。水が引くと、白さは前よりくっきり残る。寝藁に撒いた分は、手で握ると指の間で硬く鳴った。
「着物の裾に包めば」
「毎晩、裾が重くなる王妃さまを、見張りが気にしないと思いますか」
「では、飲めば」
アッタが木椀から顔を上げた。丸くなった目を見て、自分でも、どこまで本気で言ったのか怪しくなる。
「お腹は土捨て場じゃありません。王妃さまが一椀、私が一椀飲んだら、司祭さまにも一椀お願いしますか」
「その案は捨てましょう」
「最初から拾わないでください」
口をつぐんだ。目地を見つけた夜から、私は穴の深さと石の厚みばかり見ていた。出た土の始末は、勘定に入れていなかった。アッタは、王妃が通り過ぎた後の汚れを、ずっと片づけてきた人だ。
その勘定を、やり直す。この部屋から外へ出ていく物を、順に思い出した。空の椀。汚れた水。それから、灰入れ。
「アッタ。灰入れは、日に何度運ばれるの」
「一度です。昼の鐘の前に」
「誰が」
「いつも同じ男です。左の耳が欠けています」
「あの人は、蓋を開ける?」
アッタの手が止まった。
「……開けません。受渡口から引き出して、そのまま担いでいきます」
「ここへ来てから、私も毎日見ていたわ。一度も中を見なかった」
「灰の下へ、ということですか」
「器を返すときに落とす。この格子は、こちらの物を外へ出すの。出すのは、向こうの仕事よ」
アッタは長く黙った。それから、パンを包んでいた布を広げ、四つに折った。中央の小さな四角を、指で叩く。
「一度に、ここまで。それ以上は椀の底に乗りません」
「小石一つにも届かないわ」
「明日もこの部屋にいたければ、届かせないでください」
布を持つアッタの爪に、白い粉が入り込んでいた。誰より早く目地を擦って、王妃の思いつきを先に試していた手だ。
「それから、粉を落とすのは灰が新しい日だけにします。古い灰は乾いて、担ぐときに飛びます。器を返すのも私です。王妃さまの手は、見張りが見ますから」
「あなたが決めて」
「では、決めます」
昼の鐘の前に、受渡口が開いた。アッタは空の椀を両手で持ち、縁を下にして差し出した。椀の底には、布の四角ぶんの粉が伏せてある。私は寝台の陰から見ていた。
左耳の欠けた男が椀を受け取り、逆さのまま灰入れの上で振った。粉が灰へ落ちる音は、灰そのものの音に紛れて消える。男は椀を戻し、灰入れの取っ手を掴み、蓋に手を掛けないまま廊下を上っていった。
鉄の輪が石を擦る音が、傾いた廊下の上で消える。アッタは椀を握ったまま、しばらく動かなかった。
「戻ってきますか」
「空で戻るわ」
空で戻った。アッタは受渡口の縁を布で拭き、椀を伏せた。
「灰が入るのは2日に一度です。今夜から、その日を数えます」
扉の外が暗くなる頃、マルティンは戻った。仕切りの向こうで崩れるように座り、長い間、咳の音しかしなかった。
「言ったの」
急かしすぎた問いにも、マルティンは怒らず、木の板に後頭部を預けた。
「聖布を運んでいた女に。三人、と」
女は手を止めず、聖布を裏返したという。聞き取った印なのか、ただの手順なのか、マルティンにも判断がつかなかった。
「こちらを見た?」
「見ませんでした。見ていたら、今ごろ私もあの女も、別々の所で爪を剥がれているでしょう」
次の問いを、呑み込んだ。振り返らなかったことこそ、あの女の返事かもしれないのだ。
「見張りは」
「私が女の尻を見たと思ったようです。不敬虔な老司祭で助かりました」
アッタが鼻を鳴らした。笑いだと気づくのに、少しかかった。
当のマルティンは笑っていない。開いた外扉の先に空が見え、一歩近づいたところで首の後ろを掴まれたと、淡々と話した。疑われたのではない。あの空へ、足が勝手に動いたらしい。
「どんな空だったの」
「青かった」マルティンは少し考えて、「腹が立つほど」と足した。
礼拝所の屋根の下では燕が二羽飛んでいた。片方が藁を落とし、もう片方が空中で拾い直した。その話だけが、断ち切られた外の景色として、板のこちら側まで届いた。
「夜になって、穴を見たら、私は逃げないと言うかもしれません」
「その時は、言って」
板の向こうが静かになる。そこでアッタが、「その時は、自分で言うんですよ」と重ねた。マルティンの低い笑いが、ようやく板を越えてきた。
夜番が二度咳き込んだ後、アッタは仕切りの木栓を浅く戻した。外からは閉じて見える。マルティンが押すと、木は痛むような音を立てた。
「扉の音は私が聞きます。但し、右手を閉じたら、理由は後です」
「寝台は持たないのですか」アッタが尋ねた。
「この手首で落としたら、鼠のせいにはできません」
「咳が出そうになったら?」
「祈ってください」
「それで止まらなければ」
「口を塞いでください。神よりそちらの方が早い」
三人で寝台を持ち上げる。片方の脚が石に噛み、ごとりと鳴った。マルティンが右手を閉じた。寝台を抱いた姿勢のまま、息も止める。廊下を下りる靴音が近づき、鍵輪が扉に当たった。
「何の音だ」
腰が引けかけた私より早く、アッタが「鼠です」と答えた。扉の外で舌打ちがする。
「食わせるな」
靴音が消えても、マルティンは15まで指を折った。掘れる時間が、また短くなる。
寝台を下ろすなり、目地に膝をついた。アッタが袖を掴む。
「今なら、寝台を戻すだけで済みます」
「何もしないまま、朝を待てと?」
「朝まで生きていたいと言っているんです」
「手を離しなさい」
考えるより先に、古い命令の声が出た。アッタの指が開く。開いた後で、拳になった。
その顔を見られないまま、寝台の裏から折った木片を目地に差し込んだ。一なでで古い土が落ち、折った布の真ん中に粉が積もる。
「留まりませんよ」
冷えた声が痛い。それでも手を止めず、布の折り目まで掻いた。アッタは布を引き抜かなかった。
布の中央が埋まり、ようやく木片を置いた。先が潰れ、汗で湿っている。床の傷は、手をつける前と大して変わらない。
「さっきは――」
「石を戻してからにしましょう」
マルティンが寝台の脚を支え、アッタが布を持ち、私は崩した縁を戻した。元と同じに見える場所を探すうち、丸い小石が半分、顔を出した。
押し戻そうと、指を深く入れる。爪の脇が裂けた。
「終わりです」
木片を握り直した。その手首を、アッタが掴んだ。口の中に、あと一度、という言葉が浮かぶ。
「命令しますか」
声が震えていた。私は木片から、手を離した。
「今夜は、もう掘らない」
謝ることは、できなかった。アッタも返事をせず、傷に布の端を巻いた。
「きついわ」
「血が止まります」
頷いて、結び目には触れなかった。寝台を元の傷に合わせるため、マルティンが支えに使った細い木を抜いた。その瞬間、小石が傾いた。
アッタがとっさに布を広げる。石は音を立てず、白い粉の中に落ちた。
跡に残ったのは、指先より狭い、黒い隙間だった。小石を回しても、上下を変えても、もう元の角度には収まらない。
マルティンが床に耳をつけた。その顔が強張るのを見て、私も、血のついていない方の手を床につき、耳を石に寄せた。
「聞こえる」マルティンが囁いた。
滴より太く、湖の波より近い。石の下のどこかで、水が途切れずに流れている。溜まり水は、こんな音を立てない。
湖ではありえない。運ばれてきた日、桟橋から42段を上った。そのあと廊下は下っていて、踵に来たから覚えている。下ったぶんを引いても、湖の面は、この床よりずっと低い。
なら、これは砦が捨てている水だ。中庭の雨と、厨房の水。捨てる物には、出口がある。灰にも、水にも。
耳を石に当てたまま、目地に沿って場所を変えた。壁際で、音はわずかに太る。
「掘る場所を変えます」アッタが囁いた。「壁際へ」
「明日の灰は」
「新しいです」
戻らない石を囲んで、三人で息を殺した。壁際の石の下で、水は止まらない。私は、音の太る方へ木片を置き直した。
史実メモ:事件から十数年後の王朝詩は、王妃・無名の侍女・無名の司祭が共通の合意で、地下に秘密の掘り穴/脱出路を作ったと描きます。道具、掘削の時刻・日数、工法、掘土処理、水音は創作です。




