第5話 仕切り越しの祈り
木の仕切りが開いて、向こう側の男は、立ち上がるのに二度失敗した。
三度目に壁へ肩をつき、見張りにせき立てられて、共同の前室へ出てくる。灰色の髪。痩せた頬。擦り切れた聖職者の衣。片方の手首には、汚れた布が巻かれている。
祈りの声から思い描いていたより、ずっと小さな人だった。板一枚を隔てて、私はこの声に賭けようとしていた。
見張りは仕切りを開けるとき、栓を二度、枠に打ちつけた。命じられて開けた者の音だ。この開き方を、私は今日の午後に買っている。値はまだ請求されていない。
男の膝が折れた。アッタが腕を取ると、男は驚いて振りほどき、すぐに頭を下げた。
「申し訳ない」
「倒れてから謝られても、重いものは重いです」
アッタがもう一度その腕を取る。今度は拒まず、男は石床に腰を下ろした。笑ったのか痛んだのか、口元がわずかに動く。
「始めろ」
外扉の格子から、見張りが命じた。三人で床に膝をつき、男が最初の句を唱える。
昨夜、仕切り越しに返した誤りは使わない。正しい言葉だけを、ゆっくり続ける。見張りは祈りの中身までは追えないようで、声が途切れる時だけ、木杖を持ち上げた。聞いているのは中身ではなく音量。番犬の耳だ。
「マルティンと呼ばれています」
応答の切れ目で、男が囁いた。
「呼ばれている?」
問い返すと、男は一度、見張りに目をやった。
「そう名乗っても、証す物がありません」
「何日、ここにいるの」
「勘定が合わなくなりました。日が入りませんので、朝は鐘で決まります。鐘は、こちらの都合を訊いてくれません」
巻かれた手首が、衣の中に隠れた。それ以上は聞かなかった。私も印章ひとつ持たず、亡夫の印は格子の外から見せられる側だ。この区画で祈っているのは、名前を証す物を持たない者ばかりだった。
見張りが格子に額を寄せ、三人の口が動いているかを確かめる。マルティンは賛歌に戻り、息を吸うふりをして声を落とした。
「外から知らせが来ました。城壁の内へ来られれば、レッジョの司教アデラルドが保護すると」
応答を、一語遅らせてしまった。外に、私が生きていると知る者がいる。息が浅くなった。開いた門と、馬の背が一度に浮かぶ。馬の背には、エンマを乗せる場所まで作りかけた。
「いつ迎えが来るの」
マルティンが目を伏せた。
「迎えが来るとは、聞いていません」
声は、見張りに届かない低さまで落ちた。
「では、どうやって城壁まで?」
「生きて出られれば、と」
膝の下の石が、急に硬くなった。思い描いた馬も、娘を乗せる場所も消える。届いたのは、逃げ切った者を門前で追い返さないという一行だ。
それでも、外に戸が一つできた。そこまで歩く足は、こちらで揃えるしかない。
誰が知らせを運び、司教の印を見たのか。問いを重ねるたび、マルティンは首を横に振った。司教本人の声も、聞いていないという。
「それで私に――」
木杖が格子を打った。マルティンは肩をすくめたが、祈りは止めない。
「祈れ」
マルティンが賛歌を高くする。アッタが続き、私は一拍遅れて二人の声に加わった。
次の応答で、マルティンは、信じてほしいのではないと言った。ならばなぜ話したのか。語尾を噛んだ私に、男は目を上げないまま答えた。
「一人で持っていると、信じたくなるからです」
膝の上の指を、一度握って開いた。
*
祈りが半ばに来た時、マルティンの咳が止まらなくなった。見張りが扉を開け、肩を木杖で押す。
「声を出せ」
「息をくだされば」
「早く終えろ」
扉が閉じた。残る時間は短い。聞きたいことなら、列が作れるほどある。門の場所。司教の兵はどこまで来るのか。娘を捜してもらえるのか。並べたところで、この人が答えを持っていないことだけは、もう知れていた。
明日、使節のためのミサが外の礼拝所で行われ、マルティンも連れ出される。以前と同じ女が掃除に来ていれば、知らせを返せるかもしれない。違えば祈って戻るだけだと、彼は言った。アッタが低く息を吐くと、マルティンは自分でも可笑しかったらしく、咳を一つ漏らした。
「話せても、一言です。見張りが近い」
「門の場所を聞いて」
アッタが顔を上げた。私を見ずに、マルティンへ向かって言う。
「城壁の中で守ると言っているのは、王妃さまだけかもしれません。捕まっても王妃さまは王妃、司祭さまは教会の人です。私は、逃亡を手伝った侍女で終わります」
「あなたとマルティンを残して行くつもりはないわ」
「つもりで、門は開きますか」
弟も家族も守る、と言いかけた。アッタの家がどこにあり、何人で、誰が新王家に仕えているのか、私はまだ知らない。言葉が喉で止まった。アッタはその沈黙を助けず、マルティンも、祈りの句で埋めなかった。
「私は残るかもしれません」
マルティンは、自分の腫れた指を見ていた。
「なぜ」
ここへ来る前、マルティンは、耐えることが信仰だと人に説いてきた。王が死んだ翌朝、礼拝所の銀を運び出す男たちに一人の少年がしがみつくと、争わず手を放せと命じた。少年は従い、その日のうちに別の場所へ連れて行かれた。戻ったかどうかは、知らないという。
「捕らえられたままなら、何も言えません」
私が言うと、マルティンは頷かなかった。
「ええ。だから困っています」
正しさを教える司祭の声ではなかった。自分の言葉から逃げ切れない男の声だった。
床に目を落とす。朝に寝台を動かした跡が白く残り、その一つは、壁際の目地まで伸びていた。掘れるかどうかは分からない。掘ると決めてもいない。迎えが来ないと知った後では、昨日まで気にも留めなかった線が、目に残った。
伝えられるのは一言だ。なら、いま最も必要なことを選ぶ。
門の場所は、着いてからの話だ。司教のもとへ渡った知らせに、私のほかの名が入っているとは思えない。このまま戸が開いても、通されるのは私だけ。三人で城壁の下に立てば、あとの二人は戸の外に残される。さっき私は、約束を言い損ねた。今度こそ、二人も一緒だと伝えなければならない。
「マルティン。明日は、三人と伝えてください」アッタを見たまま、私は言った。
「門は?」
「三人を知らない人に、行き先だけ聞かせても仕方がないわ」
アッタが、初めてこちらを見た。礼も笑みもなかったが、膝の上で握られていた手は、少し緩んでいた。マルティンは承知したとも行くとも言わず、祈りの続きを唱えた。
祈りの終わりを告げる鐘が鳴り、見張りが木の仕切りを押し始める。マルティンは向こうへ戻される直前、枠に指を掛けた。
「私はまだ、行くとは申しません」
「聞きました」
「王妃さまの『聞いた』も、まだ信用しておりません」
アッタが鼻で息を吐いた。今度のは、笑いだ。私も笑いかけたが、見張りが枠を押し、マルティンの指が危うく挟まれかけた。
木の板が、三人を分けた。暗い仕切りに掌を当てると、向こうから、同じ場所に手が触れる音がした。
灯のそばで、アッタが床に三本の指を立てた。それから、三本目の指先を、壁際の目地へ滑らせる。爪が石を擦り、白い粉が細く残った。
「明日の朝、ここをもう少し擦ってみます。粉が出たら、どこへ捨てるかは、王妃さまがお決めください」
史実メモ:フロツヴィタは、司教アデラルドが秘密の知らせを送り、城壁を持つ自分の都市での保護を約束したと記します。伝達方法、返答期限、三人の会話、「マルティン」という名は再構成です。




