第4話 死んだ王の印章
死んだ夫の印章が、朝、牢の前に運ばれてきた。
茶褐色の蝋は縁が欠け、細い紐で古い羊皮紙から吊られている。蝋の面には、玉座に座る男の輪郭がかろうじて残っていた。抱えてきたのは、昨日「確かめてまいります」と言って去った、あの男だ。
「修道院の写しは、まだ確かめられません」男は羊皮紙を卓に置き、折り目を指で伸ばした。「代わりに、これを」
同じ印影なら、パヴィアの広間で何度も見た。あの顔が紙の下に付けば、遠い館の管理人が替わり、葡萄酒や穀物の行き先が変わった。夫本人より長く、人前に出ていた顔だ。私の指では、一度も触れたことがない。
格子の内側では、男が二人、私の寝台を動かしていた。古い藁を運び出し、床に灰を撒き、壁の油煙まで拭う。囚人を清めているのではない。客に見せる部屋を作っている。寝藁に残った髪を靴が踏み、アッタが一歩出かけて、止まった。
「ロターリオ王が、妃の権利を確認した文書です。新しい王家は、ここに記されたものから、相応の分をお返しになる」
「相応の分」では、どこまで減らされるか分からない。しかも、夫の王位を奪った家が、奪った財産を選び直すために、夫の紙を持ち出している。
「今、全部読んでください」
「私の役目は、お目にかけるところまでです」
格子へ寄った。古い羊皮紙には、昨日の口上より多くの行がある。ところどころ墨が薄れ、右下に、別の手で短い一行が足されていた。そこだけ墨が黒い。行の頭に、数字がある。文字までは読めない。
「その右下は、後から書かれたものですね」
「古い紙には、よくあることです」
「では、頭の数だけ教えて」
男は答えず、文書を巻いた。蝋の印が卓の角に当たり、鈍い音を立てる。肩が跳ねた。夫の身体が傷ついた気がして、そう思った自分に腹が立った。男の方は、欠けが増えていないか、すぐ裏返して確かめている。
「生きている時より、大事になさるのですね」
男は、聞こえなかったふりをした。紐を短く持ち直し、印を掌で受けて、廊下へ出ていく。
*
男たちが出ると、アッタは格子から押し込まれた替え衣を寝台に置いた。
「お着替えを。髪も直します」
「櫛は?」
「ありません。指なら10本あります」
まだ怒っている。怒ったまま、アッタは背後へ回り、絡んだ髪を少しずつほどき始めた。指が耳の後ろに触れたとき、ロターリオを思い出した。
夫は、髪飾りを外すのが下手だった。一度、編み込んだ紐に指を絡ませて、二人とも動けなくなった。侍女を呼べば済むのに、もう少しだ、と言い張った。結局、笑いすぎた私が先に助けを呼んだ。王のくせに髪一つほどけないとからかうと、王だからだ、と真顔で返された。
いつも笑えたわけではない。会議の後に何日も黙り、私が部屋へ入っても窓を見たままの夜があった。なぜ怒っているのか聞けず、朝になれば、二人とも何もなかった顔をした。最後に会った日も、彼は髪に触れかけて、やめた。急いでいた。何を話したかは思い出せない。死者の言葉は、思い出すたび少しずつ都合よくなる。
「毒だったと思う?」
アッタの指が止まり、髪が一本、強く引かれた。
「厨房では毒だと聞きました。厩では熱病。礼拝所では神罰です」
「あなたは、どれを信じたの」
「病であってほしいと思いました」
予想しない答えだった。振り返ろうとすると、両肩を押さえて前へ戻された。
「毒なら、鍋に近づいた者が先に疑われます。弟は灰と馬糞を運ぶだけでも、厨房に出入りします。王を殺した毒は、あの子が見たこともない皿からでも見つかるんです」
「王が亡くなった次の朝、厨房の鍵を持つ男が替わりました。前の男がどこへ行ったか、誰も聞けなかった。泣いている暇より、次のパンを誰に渡すか覚える方が先でした」
「私は、誰かのせいであってほしい」
言ってから、胸の中が少し軽くなった。憎む相手が一人いれば、その先を考えなくて済む。
アッタは慰めなかった。手だけが、髪の中で動き続けている。
「私は、誰のせいでもない方がいいです」
二人の望みは噛み合わないまま、髪をほどく指だけが、さっきよりゆっくりになった。
*
午後、同じ男が戻った。古い文書は木箱に納められ、蝋の印が布の間から覗いている。
「正式な使節が到着します。明後日の朝、王妃陛下のお返事を承ります」
廊下の奥には、低い椅子と書字板まで運び込まれていた。私の返答は他人の手で書かれ、他人の印で封じられるということだ。
「あの右下の一行には、写しの数が書いてあるのでしょう」
男の親指が、木箱の縁で止まった。爪の色が白くなるまで、そこから動かない。
「なぜ、そうお思いです」
「夫の紙には、いつも書かせたからです。何通作って、どこへ渡したか」
「私の役目は――」
「役目ではなく、数を訊いています。3通ですか。それとも、もっと」
男は答えなかった。答えないまま、木箱の蓋に手を掛ける。掛けただけで、閉めない。
私は、壁際の見張りの方へ声を向けた。
「写しを持っている人たちは、夫の署名が正しいと言い続ける人たちです。あの署名が偽りになれば、その人たちの土地も偽りになる。この砦の門を預かっているのは、どちらの側の人でしょうね」
見張りは足を組み替えたきり、動かなかった。石の上で靴底が短く鳴り、その音がやむと、廊下がひどく静かになった。門を預かる人の土地がどの紙で立っているかを、この砦の男たちは私より先に知っている。知っていて、今まで一度も口に出さずにきた。
男が、初めて早口になった。
「そういうお話は、お控えください」
声には、怒りより先に焦りが混じっていた。この人も、自分の名で受けた土地を一つも持っていないのだろう。持っていれば、写しの数まで問う女など、怖くない。
「では、控える代わりに一つ」
木箱の縁を握る指に、力が入った。蓋の合わせ目が、わずかにずれる。
「あなたは、空の手で舟に乗ることになります。私は今日も返事をしません。けれど、『王妃は正式の面会に応じる』とだけは書けるようにしてさしあげます」
「……代わりに、何を」
「夕の祈りを、木の仕切りを開けて唱えさせてください。向こうの人と、三人で」
「囚人の祈りに、仕切りが要りますか」
「要らないのなら、開けてください」
男は木箱を抱え直した。重さで片方の肩が下がる。それから、廊下の奥の低い椅子を一度見た。使節に見せるものを、頭の中で並べている目つきだった。
「――伝えます」
男が廊下を戻っていく。新王家の色を縫い取った布の下で、木箱を両腕に抱えている。蓋が揺れるたび、欠けた蝋の横顔が見え隠れした。死んだ王の印章を、その王位を奪った家の男が、落とすまいと胸に抱いて運んでいく。
夫は少年のころ、あの男の命を救ったことがある。父王がベレンガーの目を潰す支度をしていると、子どもの口が黙っていられずに報せ、逃がした。逃げた先で力を蓄え、戻ってきて王冠を取った。夫はその話を、私に一度もしなかった。知ったのは、夫が死んでからだ。
夕、中庭に馬が入った。蹄と鐙の音が重なり、短い命令が幾つも飛ぶ。窓のない部屋に、雨に濡れた革と馬の汗の匂いが流れ込んできた。数えられたのは8頭まで。そこから先は、蹄が互いを消してしまう。私の返事を一つ持ち帰るために、これだけの馬が湖を回ってきたことになる。
傾いた髪のまま、扉の前に立った。アッタが後ろから一房だけ直し、すぐ手を引く。
「開くと思われますか」
「開くわ。あの人たちは、祈っている囚人を客に見せたいもの」
「では、こちらも見せる物を決めておきましょう。祈っている顔を三つ」
鐘が鳴った。
廊下の奥で、木の栓が抜かれた。ここへ来てから、一度も動かなかった音だ。
史実メモ:ロターリオは950年11月22日に急死しました。毒殺を疑う叙述もありますが、事件に近いフロツヴィタは重病死として描きます。本作は犯人を確定せず、印章・面会準備・使者とその委任範囲を創作しています。




