第3話 足の届かない椅子
夜になっても、アッタは留め具のことを話さなかった。寝台の上で背を向けたまま、衣擦れの音だけがする。
受渡口が閉まり、見張りの靴音が傾いた廊下を上っていってから、私は掌を開いた。青い硝子が汗でにじみ、灯の火を小さく返す。昼に裂けたアッタの袖口だけが、暗がりで白く浮いていた。
急かさなければ、朝までにはアッタの方から話すだろう。分かっている。それでも娘の品を握っていると、3度までは問いをこらえて、4度目には口を開いていた。
「どこで拾ったの」
「王妃さまの旅衣箱です」
思いがけず、答えは早かった。寝藁を鳴らして、身を乗り出す。
「エンマは、そこにいたの?」
「いませんでした」
「誰が箱を持っていたの。子どもの外套もあったでしょう。近くで泣き声は――」
「聞いていません」
アッタは裂け目を膝に押しつけた。ここへ連れてこられた日、廊下で男たちが旅衣箱を改めた。仕立て直すつもりで入れていた幼い外套が引き出され、この留め具が床に落ちた。男が別の箱のことで怒鳴っている間に、アッタは靴の下に隠した。踏んだ拍子に曲がった裏針が足の裏に食い込み、血が出たが、痛がれば見つかるので、そのまま歩いたという。
「なぜ隠したの」
「あの人たちが持つより、ましだと思いました」
「外套は、誰が持っていったの」
「分かりません」
「顔は覚えている?」
「王妃さま」
押し殺した声に、止められた。アッタは逃げずにこちらを見ている。膝の上の両手が、震えていた。
「では、いたことにいたしましょうか。お嬢さまは廊下の端にいて、お怪我もなく、明日にはここへ来ると」
立ち上がりかけて、寝台に膝を打った。肩をつかんで揺さぶりたかった。揺さぶる資格が、こちらにない。嘘を言わせようとしたのは、問いを重ねた私の方だ。昼に落ちた黒いパンの屑が、寝台の下にまだ残っている。伸びかけた手を、自分の衣に押しつけた。
「……もういい」
「よくはないでしょう」
「ええ。よくないわ」
留め具を、二人の間に置いた。手を離すまでに、曲がった針が指の腹を引っかいた。
アッタは長く黙った。灯の油が弾けてから、ようやく言った。
「これを、お嬢さまの外套に留めるところなら見たことがあります。じっとしてくださらなくて、王妃さまが三度もやり直していました」
留め具には触れなかった。三度ではない。あの朝は四度だった。エンマは首をすくめて逃げ、捕まるたびに笑った。数え違いを正せば、この人が覚えていない一度まで嘘に変わる気がした。
二人の間で、灯芯が傾いた。アッタは留め具を取り返そうとせず、私も、礼を言わなかった。
*
翌朝、格子の外に立ったのは、昨日と同じ男だった。手袋を外し、唇を一度湿らせて、口を開く。
「王妃陛下」
昨日までの「未亡人」が、一晩で戻ってきた。舟も来ないのに、呼び名だけが替わる。急いでいる誰かが、この人の後ろにいる。
「返還する王領を申し上げます。マレンゴ、コラーナ、オローナ」
三つの地名が、石の部屋を消した。
6歳の冬、私の足は椅子から床に届かなかった。
父が死に、兄が王になった。母は山の向こうの王のもとへ嫁ぐという。その王の息子と、私も婚約するのだと聞かされた。
息子の名は、ロターリオといった。
黒い袖のかげで、誰かが低く言った。母娘で、父子に嫁ぐのか。それでは兄と妹ではないか。笑う声もあった。6歳の耳は、意味より先に、笑いの方を覚えた。
大人たちは皆、喪の黒を着て、死んだ人の話より、これから結ばれる二組の婚姻の話をしていた。母ベルタは書記の正面に立っていた。夫を失ったばかりなのに、座ろうともしなかった。
書記が、娘に与えられる土地を読み上げた。マレンゴ。コラーナ。オローナ。その後にも知らない地名が続き、途中で修道院が一つ混じり、数は4,580マンススになった。一つが、一家族の食べていく畑ひとつぶん。そう知るのは、ずっと後だ。6歳の耳には、ただ長かった。ただ、書記は何度も唇を湿らせ、読み終える前に灯芯が一度短くなった。
父の椅子は部屋の端に寄せられ、布を掛けられていた。私は土地の名より、布の下から覗く脚を見ていた。父が戻ればまた座るのだと思い、誰にも尋ねなかった。
「もう、おしまい?」
母は首を横に振り、最初の三つを言わせた。私は三つ目を、わざと間違えた。母は叱らず、正しく言えるまで待った。褒めもしなかった。ただ、椅子の上で冷えた娘の足を、自分の長い裾でくるんだ。
「王妃陛下」
男の声で、牢へ戻された。裸足の指を、床の上で曲げる。娘の名は、出さない。あの名で私が動くことは、もう知られている。
「今の三つで全部ですか」
「十分な王領でしょう」
「それは答えではありません。修道院は」
羊皮紙の縁で、男の指が止まった。
「修道院、と申しますと」
「私の名で受けた土地に、修道院が一つ入っていました。あなたの読んだ三つに、修道院はありません」
言ってから、自分の声が乾いているのに気づいた。6歳の冬を、私はどこまで正しく覚えているのだろう。父の椅子と母の裾と、幾つもの地名を、一つの冬に重ねているのかもしれない。
けれど、目の前の男は三つを読むだけで、息も継がなかった。全部なら、続きを惜しむ理由がない。惜しむのは、読ませたくない行を持つ者だ。
「修道院には、写しがあります」
「何の写しです」
「受けた土地の。あの人たちは石より紙を信じます。三つに減らした紙をお持ちになるなら、減らす前の紙を持った修道院と、いつか並べられますよ」
男は答えなかった。羊皮紙を巻き、紐の端を二度、指に巻きつける。昨日はしなかった動きだ。
「返還は、婚姻の後に定められます」
「その紙に何が書いてあるかは、婚姻の前に決まっているでしょう」
「私が決めたのではありません」
「では、決めた紙を持ってきて。あなたの声ではなく、私の目で読みます」
「私の役目は――」
「役目の話は、昨日うかがいました。あなたの名前は、まだうかがっていません」
男は手袋をはめ直した。指を一本ずつ、丁寧に。それから、初めて短く息を吐いた。
「……確かめて、まいります」
靴音が遠ざかると、見張りが立つ位置を変えた。さっきまで扉の正面にいた男が、こちらの壁に背をつけている。聞く向きが変わったのだ。
「三つ、覚えていらしたのですね」アッタが小声で言った。
「三つと、修道院が一つあったことだけ。あとは何も覚えていないわ」
「それで、あの人は帰りました」
*
その夜、木の仕切りの向こうから、男の祈りが聞こえた。
同じ施錠区画に、誰かがいる。低い声は時おり咳で切れ、そのたび長い沈黙が落ちる。湿気で膨らんだ板は、目を寄せても向こうを見せない。床との隙間に、別の灯の色が細く伸びていた。
味方か、罠か。声では決められない。祈りなら、名前が要らない。
アッタが首を振った。見なかったことにして、私は祈りに、わざと違う一語を混ぜた。
返事はない。外扉の前で靴音が止まり、鉄の輪が鳴った。私は正しい句へ戻す。向こうの声も途切れた。靴音が遠ざかるまで、仕切りの奥には誰もいないようだった。
耳がいい。祈りを聞き分け、見張りの足音まで聞き分けている。
「おやめください」アッタが囁いた。「味方とは限りません」
「分かっているわ」
「今日の王妃さまは、そのお顔で二度、間違えています」
言い返せなかった。二度が三度にならない保証も、出せなかった。私は木目に指を置き、同じ箇所を、もう一度だけ誤った。
仕切りの向こうから、正しい語が返った。アッタが息を呑む。私は三度目を試さず、祈りを終えた。
しばらくして、向こうの男が最初から唱え直した。終わり近くで声がかすれ、あの一語を、間違えた。
細い隙間の奥で、灯が一度揺れた。祈りの続きは来ない。
今度は、向こうが待っている。
私は木目に爪を立て、返事の代わりに、二度叩いた。
同じ間隔の二度が、板の向こうから返ってきた。
史実メモ:937年12月12日の文書は、幼いアーデルハイトへマレンゴ・コラーナ・オローナの王領や複数の修道院など、合計4,580マンススを将来の財産として設定しました。写しを盾に取る交渉、母の所作、木の仕切り越しの祈りによる接触は本作の創作です。




