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王妃の値段  作者: megu
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第2話 真珠の欠けた留め具

 昼を過ぎても、あの男は砦を出なかった。


 日のあるうちに発つと言った人が、格子の外に椅子を置かせて座っている。膝の上には帳面。足元に敷いた布を、私の指輪が転がって、赤い留め具に当たって止まった。手を伸ばしても届かない距離に、わざわざ。


 返しに来たのではない。見せに来たのだ。男は品を一つずつ持ち上げては、読み上げていく。持ち上げるたび、膝の布で指を拭った。朝、婚姻状に触れる前に手袋を外したのと同じ手つきだ。


「赤石の留め具、一。金糸の帯、一。女物の指輪、一」


「女物?」


 薬指が、掌の中で勝手に動いた。輪の消えた跡は、まだ白い。男は顔を上げない。


「亡王の庫から移す品です」


「どこへ移すの」


「王の庫へ」


「亡くなった王の?」


 筆が止まった。見張りが鼻を鳴らす。


「今の王の、です」


 王の庫から、王の庫へ。名札を掛け替えるだけなら、盗みとは呼ばれずに済む。便利な言い方があったものだ。


 帳面は膝の上にあり、端が格子の近くまで出ていた。逆さの文字でも、自分の名前は読める。男は小さな刃でその一行を削り、毛羽立った白い跡に、別の持ち主の名を書き入れた。刃が紙を引っかく音だけが続く。


 その面は三つに割れていた。品の名。数。そして右端に、行き先らしい短い語。私の指輪の行には、その短い語が二度書き直された跡がある。持ち出す先が、まだ決まっていないのだ。決まっていない物は、誰かが今も言い合っている物でもある。


「書記はいないの。あなたが自分で書くのね」


「私の帳面ですので」


「では、その帳面を書く人の名を教えて」


「書いてあるのは、私の名ではありません」


 朝と同じだ。訊けば、答えの形をした別のものが返ってくる。名前を一つ消すのに、剣も砦も要らない。小さな刃が一本と、日暮れを待っている男が一人いれば足りる。日のあるうちに発つと言った人が、日の高いうちから椅子を離れない。発てないのだ。この砦から出る道は水しかなく、水の上を歩ける人は、ここにはいない。この人の期限は、櫂の都合でできている。


「その帯を、こちらへ」


「なぜです」


「端に、織り手の印があります」


 男が帯を裏返した。息を詰めて待つ。


「見当たりません」


「格子まで持ってくれば、私が見ます」


「見る必要はありません」


 見張りが帯を奪い、木箱に放った。指輪も留め具も続けて入る。蓋が閉じ、小さな鍵が一度回った。ささやかな音だ。私の名を削った刃より、はっきり聞こえた。この格子は、こちらの物を外へ出す。内へ入るのは、向こうが入れると決めた物だけ。覚えておく。


 部屋の奥で、アッタが顔を背けた。木箱を見ないふりをして、袖口のほつれを押し込んでいる。その袖口は、朝から同じ場所ばかり触られていた。見張りが受渡口を開け、黒いパンと椀を押し入れる。椀の底で、薄い汁が揺れた。


「未亡人に渡せ」


 アッタの手が、パンの上で止まった。一度だけ、私を見る。


「聞こえなかったか」


 アッタはパンを持ち上げたが、私を呼ばなかった。呼べば、どちらかの呼び名を選ぶことになる。見張りが受渡口を叩いた。


「王妃に、と言いなさい」


 言ったのは私だ。石の部屋で、自分の声だけが大きく響いた。呼び名まで掛け替えさせるつもりはなかった。


 格子の外で、筆が動いた。品の行を離れ、今のやりとりへ移っている。


 アッタの肩が固くなった。見張りがパンの端を掴み、受渡口の外へ引く。アッタも放さない。乾いた皮が二人の手の間で割れ、半分が廊下に落ちた。


「次は水を入れない」


 受渡口が閉じた。アッタは残ったパンを握り潰し、爪の間から黒い屑を落としている。


「アッタ」


「はい、王妃さま」


 一音ずつ噛み切る呼び方だった。目は上げない。


「もう一度お呼びしましょうか。私の弟が厨房から追い出されるまで」


 胃の底が冷えた。


「弟は、この砦にはおりません。パヴィアの厨房の裏で、灰と馬糞を運んでいます。私はここへ連れてこられて、あの子は置いてきました」


「それなら、ここで何を言っても――」


「舟が帰ります。舟が帰れば、話も帰ります。今の『王妃に』も、次の舟に乗るんです」


「知らなかった」


「聞かれませんでした」


 アッタの爪の脇は割れ、右の親指には古い火傷がある。王妃の髪を結っていた頃から、同じ手だったはずだ。私は何年も金の流れを見てきた。誰の請願が通り、誰の館の管理人が替わるかを、覚えられる限り覚えてきた。その帳面に、この人の弟の寝場所を入れる欄は、作ったことがない。


「未亡人と呼べば、弟は今夜も厨房の裏で眠れます。王妃と呼べば、あの子はどこで眠るんですか」


 最後だけ、声が裏返った。


 謝ろうとして、口を開いた。息だけが出た。


 床の屑を一つ拾った。指先に黒い粉がつく。


「何をなさっているのです」

「食べます」

「汚れています」

「ええ」


 口に入れると、砂が歯に当たった。もう一つ拾ったが、今度は喉を通らなかった。


「弟の名は」


「言いません」


 アッタは扉に目をやり、声を落とした。


「ここで口にすれば、あの人たちにも聞こえます」


 頷いて、それ以上は尋ねなかった。廊下を二人分の靴音が通り過ぎ、傾いた床を上って消えていく。その間、私たちは互いの顔を見なかった。


 残った半分のパンを割ると、アッタは大きい方を自分の膝に置いた。私は交換を求めなかった。それを見て、アッタの肩が、ほんの少し下がった。


 水差しの底には、朝からの水が残っている。アッタは自分で一口飲んでから差し出した。


「毒見ではありません」


「分かっています」


「分かっていない顔です」


 口元が、一瞬、緩む。釣られて私の唇も動き、今朝噛んだところが開いた。血の味がした。


 アッタはため息をつき、袖口の内布を細く裂いた。怒りが消えた顔ではなかった。


「口を見せてください」


「平気です」


「血を寝藁につけたら、また調べられます」


 顔を寄せると、乱暴な手つきで唇を押さえられた。そのとき、裂けた内布の折り目から硬い物が落ちて、石を打った。


 指二本で隠れるほどの、円い留め具。金の縁に、青い硝子。小粒の真珠が、一つ欠けている。


 エンマの外套の。


 息が止まった。娘は着替えのたび、真珠の抜けた穴に爪を入れた。その指を払って、私が何度留め直したか。裏の針が少し曲がっているのにも、見覚えがある。あの外套は丈を出すつもりで、袖だけ先に解いてあった。解いた袖のまま、あの子はどこへ運ばれたのだろう。


 アッタも留め具を見た。拾おうと、手が動く。


 廊下で、鍵が鳴った。


 考えるより先に、掌が動いていた。留め具の上に。勢いで水差しが倒れ、水が敷居へ走る。扉の小窓が開き、見張りの目が部屋を探った。


「何をした」


「水をこぼしました」


 アッタが口を開きかける。その前に、濡れた床に膝をついた。裾が水を吸う。


「私が」


 王妃が粗相を自分で拭う。檻の外から見下ろす分には、さぞ退屈な絵だろう。見張りの目が細くなり、やがて小窓が閉じた。鍵は回らないまま、遠ざかっていく。


 掌の下で、曲がった針が皮膚に食い込んでいる。


 顔を上げた。アッタは唇を白くして、留め具ではなく扉を見ている。両手は膝の上で固く組まれていた。


「アッタ。これは、どこにあったの」


 答えはなかった。


 その代わり、廊下の向こうで鉄の輪が石を擦った。灰入れを引きずる音だ。この部屋の物で、日に一度、外へ出ていくもの。


 私は、その音の消える方を耳で追った。


史実メモ:事件に近い王朝詩は、王庫、冠、装身具、従者、王権、移動の自由を奪われたと列挙します。指輪、鍵、娘の外套用ブローチは創作で、侍女アッタは史料の無名侍女を核にした合成人物です。ブローチの金・真珠・硝子という材質と衣服留めの機能は、時期の近いオットー朝品と、より古いイタリアの少女墓研究を参考にしていますが、エンマの実在遺品ではありません。

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