表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃の値段  作者: megu
PR
2/6

第1話 動詞ばかりの紙

 牢にいる私に、最低な縁談が届いた。花婿は、夫の王位を奪った家の息子だった。


 朝から雨だ。格子から2歩先で、知らない男が婚姻状を広げる。外套の肩は黒く濡れているのに、羊皮紙には染み1つない。ずいぶん大切に運ばれてきたらしい。


 濡れた裾に、丈を直した折り目が見える。エンマの外套は、袖を解いたままだ。


 男は婚姻状に触れる前に、手袋を外した。それから唇を一度湿らせて、読み始める。


「ロターリオ王の未亡人、アーデルハイト殿」


 未亡人と呼ばれ、思わず顔を上げた。王妃と呼べば、いまも私に位があると認めることになる。反応したことを悔やんでも遅い。次は顔に出さない。


「あなたの名前は」


「日のあるうちに発ちます。お返事は、それまでに」


 名乗らない。期限だけ切る。牢から逃げられない私を急がせるなら、困っているのは向こうだ。こちらが急ぐ理由はない。


 朗読が始まった。新しい王家はロターリオ王の未亡人を保護する。共同王アダルベルトとの婚姻に同意すれば、身分にふさわしい住まいと衣食を与え、取り上げた財産の一部を返す――。


 アダルベルト。花婿の名として聞くと、胃の奥が強く縮んだ。けれど、考えるのを止めるわけにはいかない。


 保護とはよく言う。住む場所も、残せる従者も向こうが決めるなら、いまの牢と何が違う。だが、男はいま、命令ではなく同意と読んだ。


 同意。


 殺すのは簡単だ。財産を奪うのも、もう済んでいる。指輪も帯も、湖のほとりで私の手から離れた。館の鍵も、王庫の帳面も、とうにあの家の中にある。取れる物は、全部取った後だ。


 それでも私を生かして、雨の日に、染み一つない紙を運ばせる。


 王冠は奪える。都も、兵も、税も奪える。奪えないものが一つだけある。前の王の妃が、自分の口で「はい」と言った、という事実だ。それは剣でも金でも作れない。私の中にしかない。だから彼らは、私を生かしている。


 生かすことと、鍵を三度かけることは、別だ。「はい」が欲しいだけなら、鍵は一度で足りる。私は夫の隣で4年、金の流れを見てきた。あの家は、私の口より、私の頭を怖がっている。


 夫に息子がいれば、こんな紙は要らなかった。旗を立てる子がいれば、あの家は剣で片をつければよかったし、私は湖のほとりで指輪を外す必要もなかった。娘が一人。だから、玉座の埋め方が私になった。


 昨夜、寝藁の上で探していた答えが、向こうから届いた。


 なら、値段はこちらで決める。


「その紙を、こちらへ」


 格子越しに手を差し出す。部屋の奥で、侍女が水差しを抱え直した。陶器が衣に触れる。目が合うと、彼女は小さく首を振った。名はまだ聞いていない。ここへ来てから、互いに一言も交わしていなかった。


「お読みします」


 男は羊皮紙を胸元へ引き、格子から1歩離れた。


「私に宛てた文書でしょう」


「お聞きになれば足ります」


「渡すなと、命じられているのね」


 男は答えない。なら、文書に何が書かれていないか確かめる。


「返す土地の名は」


「婚姻の後に定められます」


「従者は何人残せるの」


「それも、後に」


 男は、紙の同じ場所を見ている。読んでいるのではない。目を置く場所を決めているだけだ。


「どこまで動けるの。私が死んだら、返した土地は誰に渡るの」


「私には、そこまで決める権限がありません」


「では、決められる者をここへ」


「私の役目は、婚姻のお返事を持ち帰ることです」


 役目。その一語で、声がわずかに軽くなる。自分で決めていないと言えるうちは、まだ楽なのだろう。


 雨が強くなった。中庭の水音が、格子の向こうで一段低くなる。日暮れまでに発つなら、この雨の中を行くことになる。


「返す土地も、残せる従者も分からないままでは答えません。全文を読ませて」


「ここで読み上げました」


「あなたの声ではなく、自分の目で確かめます。見せないなら、『文書を本人に見せず、返事だけを求めた』と、そのまま持ち帰って」


 男は黙った。見張りと目を合わせたあと、羊皮紙の端を格子へ寄せた。


 端に指を掛けても、男は反対側を握ったままだった。私はそのまま文面を読んだ。


 行も字も整っている。整いすぎている。


「返す、守る、与える。動詞ばかりですね。何をどこまで、とは書いていない」


「読み上げた通りです」


「ええ。読み上げた通りだから、困っているの」


 最初の行へ戻り、今度は人の名を探した。


 ロターリオの名はある。亡き王の妃、という形で。ベレンガーの名もある。アダルベルトの名もある。証人になる者の名を入れる余白まで、きちんと空けてある。


 エンマ。娘の名が、どこにもない。


 もう一度読んだ。行を指でたどって、端から端まで。羊皮紙は薄く、指の下で簡単に折れた。


 3歳の子は、財産の欄にも人の欄にも要らないらしい。


 最後に見た日、エンマは靴を片方だけ寝台の下に隠した。私が見つけると、両腕を上げて笑った。片方だけ履いて廊下へ逃げ、乳母に捕まって、それでも笑っていた。いまは、その寝台がどこにあるのかさえ分からない。


「娘はどこ。今夜は誰の家で眠るの。生きているの?」


 答えを待つ間、噛んだ唇の内側に血の味が広がった。


 男が手元へ引き戻し、指が離れた。手の甲が格子に当たり、節の皮がむける。痛みは遅れて来た。


 男の目が私の顔に留まった。娘のことで反応すると、知られた。


「娘御の件は、預かっておりません」


「居場所も知らないのね」


 男は答えず、目を落とした。手袋をはめ直す。指を一本ずつ、丁寧に。


 目の奥が熱くなった。男から目をそらさず、格子から手を離す。掌に鉄の匂いが移っていた。


 中庭で馬がいなないた。男は日暮れまでに発たなければならない。


「明朝まで、返事はしません」


「期限は日暮れまでです」


「私は明朝もここにおります。返事が必要なら、また来てください」


「陛下。これは、あなたに選ばせるための紙ではありません」


 初めて、男が自分の言葉で喋った。


「知っています」私は言った。「だから、私が選んだ形にしたいのでしょう」


 男の手が、手袋の縁で止まった。


「あなたは問いを一つ増やすたび、自由を1日失う。それでも宜しいのですか」


「では、その1日を書いておいて。私が何日ぶん買ったか、後で数えます」


 男は小窓から差す光を見て、羊皮紙を巻き始めた。見張りが扉を開ける。敷居をまたいでから、男は一度だけ振り向いた。


「娘御は、エンマ様とおっしゃるのですね」


 その名を、私は男の前で一度も口にしていない。


 扉が閉じ、鉄板が廊下の光を切った。


 鍵の音が遠ざかっても、動けなかった。


 格子の下の石に、雨の跡が点々と続いている。男の外套から落ちた分だ。乾けば消える。それだけの間、この牢に人が来ていた。


 侍女が水差しを持って近づき、何も言わずに差し出した。受け取ろうとした手が震え、こぼれた水が2人の指を濡らした。彼女は水差しを床に置いた。


「エンマ」


 娘の名を言うと、涙より先に、喉が鳴った。


「エンマさま」


 初めて、その人の声を聞いた。


 彼女は私の傷ついた手を両手で包んだ。指も、私と同じように震えている。恐ろしいのは私だけではないのだと、その震えで分かった。何日も同じ部屋にいて、それを今まで知らなかった。


「名前を教えて」


「……申し上げてよろしいのですか」


「訊いているのは私です」


「アッタと申します」


「アッタ。覚えました」


 アッタは返事をしなかった。目を伏せて、頭だけを下げた。


史実メモ:婚姻圧力の伝承はありますが、相手を息子アダルベルトとする証言は一致しません。事件に近いヴィドゥキントは、投獄の動機を王妃の並外れた賢慮への恐れと記します。本作は両方を採用し、文書・条件・使者の会話を創作しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ