第1話 動詞ばかりの紙
牢にいる私に、最低な縁談が届いた。花婿は、夫の王位を奪った家の息子だった。
朝から雨だ。格子から2歩先で、知らない男が婚姻状を広げる。外套の肩は黒く濡れているのに、羊皮紙には染み1つない。ずいぶん大切に運ばれてきたらしい。
濡れた裾に、丈を直した折り目が見える。エンマの外套は、袖を解いたままだ。
男は婚姻状に触れる前に、手袋を外した。それから唇を一度湿らせて、読み始める。
「ロターリオ王の未亡人、アーデルハイト殿」
未亡人と呼ばれ、思わず顔を上げた。王妃と呼べば、いまも私に位があると認めることになる。反応したことを悔やんでも遅い。次は顔に出さない。
「あなたの名前は」
「日のあるうちに発ちます。お返事は、それまでに」
名乗らない。期限だけ切る。牢から逃げられない私を急がせるなら、困っているのは向こうだ。こちらが急ぐ理由はない。
朗読が始まった。新しい王家はロターリオ王の未亡人を保護する。共同王アダルベルトとの婚姻に同意すれば、身分にふさわしい住まいと衣食を与え、取り上げた財産の一部を返す――。
アダルベルト。花婿の名として聞くと、胃の奥が強く縮んだ。けれど、考えるのを止めるわけにはいかない。
保護とはよく言う。住む場所も、残せる従者も向こうが決めるなら、いまの牢と何が違う。だが、男はいま、命令ではなく同意と読んだ。
同意。
殺すのは簡単だ。財産を奪うのも、もう済んでいる。指輪も帯も、湖のほとりで私の手から離れた。館の鍵も、王庫の帳面も、とうにあの家の中にある。取れる物は、全部取った後だ。
それでも私を生かして、雨の日に、染み一つない紙を運ばせる。
王冠は奪える。都も、兵も、税も奪える。奪えないものが一つだけある。前の王の妃が、自分の口で「はい」と言った、という事実だ。それは剣でも金でも作れない。私の中にしかない。だから彼らは、私を生かしている。
生かすことと、鍵を三度かけることは、別だ。「はい」が欲しいだけなら、鍵は一度で足りる。私は夫の隣で4年、金の流れを見てきた。あの家は、私の口より、私の頭を怖がっている。
夫に息子がいれば、こんな紙は要らなかった。旗を立てる子がいれば、あの家は剣で片をつければよかったし、私は湖のほとりで指輪を外す必要もなかった。娘が一人。だから、玉座の埋め方が私になった。
昨夜、寝藁の上で探していた答えが、向こうから届いた。
なら、値段はこちらで決める。
「その紙を、こちらへ」
格子越しに手を差し出す。部屋の奥で、侍女が水差しを抱え直した。陶器が衣に触れる。目が合うと、彼女は小さく首を振った。名はまだ聞いていない。ここへ来てから、互いに一言も交わしていなかった。
「お読みします」
男は羊皮紙を胸元へ引き、格子から1歩離れた。
「私に宛てた文書でしょう」
「お聞きになれば足ります」
「渡すなと、命じられているのね」
男は答えない。なら、文書に何が書かれていないか確かめる。
「返す土地の名は」
「婚姻の後に定められます」
「従者は何人残せるの」
「それも、後に」
男は、紙の同じ場所を見ている。読んでいるのではない。目を置く場所を決めているだけだ。
「どこまで動けるの。私が死んだら、返した土地は誰に渡るの」
「私には、そこまで決める権限がありません」
「では、決められる者をここへ」
「私の役目は、婚姻のお返事を持ち帰ることです」
役目。その一語で、声がわずかに軽くなる。自分で決めていないと言えるうちは、まだ楽なのだろう。
雨が強くなった。中庭の水音が、格子の向こうで一段低くなる。日暮れまでに発つなら、この雨の中を行くことになる。
「返す土地も、残せる従者も分からないままでは答えません。全文を読ませて」
「ここで読み上げました」
「あなたの声ではなく、自分の目で確かめます。見せないなら、『文書を本人に見せず、返事だけを求めた』と、そのまま持ち帰って」
男は黙った。見張りと目を合わせたあと、羊皮紙の端を格子へ寄せた。
端に指を掛けても、男は反対側を握ったままだった。私はそのまま文面を読んだ。
行も字も整っている。整いすぎている。
「返す、守る、与える。動詞ばかりですね。何をどこまで、とは書いていない」
「読み上げた通りです」
「ええ。読み上げた通りだから、困っているの」
最初の行へ戻り、今度は人の名を探した。
ロターリオの名はある。亡き王の妃、という形で。ベレンガーの名もある。アダルベルトの名もある。証人になる者の名を入れる余白まで、きちんと空けてある。
エンマ。娘の名が、どこにもない。
もう一度読んだ。行を指でたどって、端から端まで。羊皮紙は薄く、指の下で簡単に折れた。
3歳の子は、財産の欄にも人の欄にも要らないらしい。
最後に見た日、エンマは靴を片方だけ寝台の下に隠した。私が見つけると、両腕を上げて笑った。片方だけ履いて廊下へ逃げ、乳母に捕まって、それでも笑っていた。いまは、その寝台がどこにあるのかさえ分からない。
「娘はどこ。今夜は誰の家で眠るの。生きているの?」
答えを待つ間、噛んだ唇の内側に血の味が広がった。
男が手元へ引き戻し、指が離れた。手の甲が格子に当たり、節の皮がむける。痛みは遅れて来た。
男の目が私の顔に留まった。娘のことで反応すると、知られた。
「娘御の件は、預かっておりません」
「居場所も知らないのね」
男は答えず、目を落とした。手袋をはめ直す。指を一本ずつ、丁寧に。
目の奥が熱くなった。男から目をそらさず、格子から手を離す。掌に鉄の匂いが移っていた。
中庭で馬がいなないた。男は日暮れまでに発たなければならない。
「明朝まで、返事はしません」
「期限は日暮れまでです」
「私は明朝もここにおります。返事が必要なら、また来てください」
「陛下。これは、あなたに選ばせるための紙ではありません」
初めて、男が自分の言葉で喋った。
「知っています」私は言った。「だから、私が選んだ形にしたいのでしょう」
男の手が、手袋の縁で止まった。
「あなたは問いを一つ増やすたび、自由を1日失う。それでも宜しいのですか」
「では、その1日を書いておいて。私が何日ぶん買ったか、後で数えます」
男は小窓から差す光を見て、羊皮紙を巻き始めた。見張りが扉を開ける。敷居をまたいでから、男は一度だけ振り向いた。
「娘御は、エンマ様とおっしゃるのですね」
その名を、私は男の前で一度も口にしていない。
扉が閉じ、鉄板が廊下の光を切った。
鍵の音が遠ざかっても、動けなかった。
格子の下の石に、雨の跡が点々と続いている。男の外套から落ちた分だ。乾けば消える。それだけの間、この牢に人が来ていた。
侍女が水差しを持って近づき、何も言わずに差し出した。受け取ろうとした手が震え、こぼれた水が2人の指を濡らした。彼女は水差しを床に置いた。
「エンマ」
娘の名を言うと、涙より先に、喉が鳴った。
「エンマさま」
初めて、その人の声を聞いた。
彼女は私の傷ついた手を両手で包んだ。指も、私と同じように震えている。恐ろしいのは私だけではないのだと、その震えで分かった。何日も同じ部屋にいて、それを今まで知らなかった。
「名前を教えて」
「……申し上げてよろしいのですか」
「訊いているのは私です」
「アッタと申します」
「アッタ。覚えました」
アッタは返事をしなかった。目を伏せて、頭だけを下げた。
史実メモ:婚姻圧力の伝承はありますが、相手を息子アダルベルトとする証言は一致しません。事件に近いヴィドゥキントは、投獄の動機を王妃の並外れた賢慮への恐れと記します。本作は両方を採用し、文書・条件・使者の会話を創作しています。




