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王妃の値段  作者: megu
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序話 署名の名人

私の夫は、王冠をかぶったまま、一度も王をやらせてもらえなかった。


 その夫が死んで半年後、私は湖のほとりで、馬を止めるように言われた。


951年春、イタリア王国。


 朝の水は静かで、対岸の山にはまだ雪が残っていた。追われる者の目にも、景色は美しい。腹立たしいことに。


 馬を止めたとき、岸の鳥が一斉に立った。騒いだのは、鳥だけだった。


 男たちは剣を抜かなかった。声も荒らげなかった。ただ数が多く、そして丁重だった。


「王妃陛下。お足元が悪うございます。お手をお貸しいたします」


 先頭の男が両手を差し出した。爪まで整っている。私はその手を見て、この家のやり方を思い出した。


 丁重さだけは、あの家の伝統だ。


「お預かりする物がございます。ご無礼を」


 男の指が、私の右手へ伸びた。


「触らないで」


 男の手が止まった。周りの数人が、剣の柄へ手をやりかける。先頭の男が首を振ると、その手が下りた。命令が届く一隊だ。そのことの方が、剣より恐ろしい。


「自分で外します」


「そこまでしていただかずとも」


 答えずに、右手の指へ手をかけた。男は止めなかった。止める言葉を、この人は持たされていない。


 一つずつ外して、男の掌へ置いていく。


 金の輪。小さな歪みがある。娘を抱き上げたとき、寝台の金具にぶつけた跡だ。あの日は痛みに笑った。エンマも、母がなぜ笑うのか分からないまま、一緒に笑った。


 置く。


 外套の留め具。祭壇の前で夫の手を握ったとき、私の手も夫の手も同じくらい冷たかった。この人も怖いのだ。そう分かって、少し安心した。まだ15歳だった。


 置く。


 金糸の帯。婚礼の冠は私の頭には大きすぎて、傾くたび、夫は真顔のまま唇だけを動かした。左。右。司教の祈りより、私はその唇ばかり見ていた。


 置く。


 それが私の夫、イタリア王ロターリオ。私が咳をひとつすれば薬師を二人呼び、大げさと笑うと、次は一人にすると真顔で頷いて、次も二人呼んだ人だ。都を歩けば香辛料の名を言い当てて商人を驚かせ、聖堂では歌の下手な助祭の癖を、小声で教えてくれた。王冠の重さの話は、一度もしなかった。しない、と決めている横顔だった。


 男の掌の上で、金糸の帯が滑りかけた。指を曲げて留め、私が見ているのに気づいて、手を下げる。


 948年に、娘が生まれた。エンマ。夫は娘を抱くとき、必ず王冠を外した。邪魔だから、と言っていたけれど、私は知っている。あの人が自分の意志だけで決められたものは、この宮廷にふたつしかなかった。娘を抱く腕の形と、娘の名前だ。


 次は男の子を、と誰もが言った。祝いの言葉の形をしていたが、中身は勘定だ。王に息子がいれば、玉座の斜め後ろに立つ人の値打ちは下がる。


 その斜め後ろに立つ人――イヴレーア辺境伯ベレンガーだけは、一度もそれを言わなかった。


 次は、来なかった。夫が死んだとき、この家に残った子どもは、幼い娘が一人。


 岸で馬が土を掻いた。誰かが手綱を引いて、また静かになる。誰も急かさない。


 狩りの朝には、あの人は馬に乗るとき自分の外套の裾を踏んで、唇をすぼめ、ふっと短く息を吹いた。誰にも聞こえないつもりの、小さな音だ。私にはいつも聞こえた。目が合うと、耳を赤くして笑った。


 あの小さな息は、外套を踏んだときにしか聞けなかった。ベレンガーの前では、一度も。


 この宮廷でいちばん丁重な言葉を使う男。


「王のご署名さえ頂戴できれば、あとはすべて、こちらで整えてございます」


 整えてある、は本当だった。夫が読み終える頃には、使者はその命令を携えて街道へ出ていた。夫は署名の名人になった。それ以外を任せてもらえなかったからだ。会議で夫が口を開くと、皆が一度、ベレンガーの顔を見た。玉座の人ではなく、その斜め後ろに立つ人の顔を。請願人たちは玉座に頭を下げ、退がるときにベレンガーの前で足を止めた。頭と足の向く先が揃うまで、長くはかからなかった。


 あの男は一度も声を荒らげず、一度も急がず、そして一度も、王の返事を待たなかった。


「以上でございますか」


 目の前の男が、掌の上の物を指で分けている。指輪。留め具。帯。


「ええ。全部よ」


「では、こちらで帳面に」


 男が袋の口を閉じかけた。私はその手が止まるまで待って、言った。


「よく覚えておきなさい。私は渡したの。奪われたのではなく。――返してもらう日の勘定が、しやすいように」


 男たちは目を見合わせた。誰も、その一言は書かなかった。


 声は震えなかった。少し遅れて、右手が震えた。


 何を渡したかは、すべて覚えている。王妃の椅子で金の流れを追ってきたように。誰の請願が通り、誰の土地が免税になり、誰の館の管理人が替わるのか。金の流れは正直だ。夫にそう話すと、彼は笑い、それから長く黙った。


 一度だけ、夫が言った。いつか、と。何がいつかは言わなかった。私も訊かなかった。訊けば、あの人がまだ何も持っていないことを、二人で認めることになる。


 その「いつか」は、去年の11月に終わった。トリノから馬が来て、王が急に亡くなったと使いは言った。


 急に。


 外套を踏んでも、もう、あの小さな息は聞こえない。


 泣いた記憶がない。泣く手順の途中で、必ず次の知らせが来たからだ。葬りの鐘が鳴り終わる前に、王庫の扉に新しい見張りが立った。毒だ、と囁く者がいた。誰が盛ったのかは、囁きも言わない。名指しをしないから、囁きは長生きする。私にできたのは、聞いていることだけだった。


 夫の死からひと月と経たないうちに、パヴィアで戴冠式があった。ベレンガーが、息子と並んで王になった。私は呼ばれなかった。当然だ。前の王の妃は、新しい王の祝典で、いちばん招きにくい客だから。


 それからは速かった。王庫の鍵が替わり、館の管理人が替わり、廊下の見張りが替わった。私に仕えた者は、一人、また一人と暇を出された。理由は毎回丁寧で、毎回違った。


 だから春に、都を出た。行き先には、着けなかった。


 袋の口が閉じられ、舟に乗せられた。馬と、舟と、また舟。後ろの舟に、侍女がひとりだけ乗せられているのが見えた。顔は知っていた。口の重い、手の早い侍女だ。


「あの者は」


「お世話をする者が要りましょう」


「名前を訊いています」


「存じません」


 エンマは、来なかった。


 娘がいまどこで誰の手にあるのか、誰も私に言わない。私は、一度も訊かなかった。訊けば、あの子に値札がつく。


 湖の上を、砦がひとつ近づいてきた。石の壁が水から生えている。窓は細く、鳥の出入りさえ許さない造りだった。


「あれは何という砦ですか」


「――お手をどうぞ。桟橋が濡れております」


 砦の名は、最後まで教えられなかった。


 石段を数えた。42段。数えているあいだは、上っていられた。


 廊下。格子。寝台と水差しがひとつずつ。扉が閉じて、鍵が三度回った。


 ご丁寧なこと。逃げる財産なら、もう全部そちらにあるのに。


 ……いいえ。


 全部では、ない。


 彼らは私を殺さなかった。財産も従者も奪いながら、命だけは残し、鍵を三度かけた。私が生きたままでなければ、手に入らないものがある。


 鍵の音が遠ざかるのを待って、私は寝藁の上に指で線を引いた。一本。渡した物の数だ。


 二本目を引く前に、廊下の奥で、別の足音が止まった。


史実メモ:アーデルハイトは947年にロターリオと結婚し、950年11月22日に夫と死別し、951年にベレンガー側へ拘束されたと伝わります。夫妻の子として史料に残るのは娘エンマだけで、男子は伝えません。毒殺を疑う叙述もありますが、犯人も死因も確定しません。宮廷での夫婦生活、夫の癖、署名をめぐる場面、捕縛・移送の細部と会話は本作の創作です。

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