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王妃の値段  作者: megu
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第9話 穴の先に水がある

「人がいます」マルティンが穴から顔を離した。声が高い。


 三人で寝藁を押し込み、灯を吹き消した。私は穴の口の前に座り、膝を抱えて、石の向こうの音を待つ。


 靴音は、穴からではなく扉の前に来た。


「今の音は何だ」


 格子に灯が上がる。マルティンが寝藁の上へ身体を横たえ、アッタは灰掻きを背骨に押しつけた。湿った崩土は、まだ布の上にある。隠す時間はない。


 私は水差しを倒した。


 朝まで三人で飲むはずだった水が、石床を走る。アッタの顔が強張ったが、鉄を抱えたまま動かなかった。


「水を落としたわ」


「なぜ起きている」


「あなたの咳で目が覚めたの。水も足りない。持ってきて」


「朝まで来ない」見張りは格子の隙間から灯を差し入れた。光が濡れた床をたどり、アッタの裾で止まる。「その布は何だ」


「吐きました」マルティンが答え、そのまま激しくえずいた。


 見張りの顔が歪んだ。病を恐れたか、臭いを確かめたくなかったか。どちらでも結構。鍵に触れない理由なら、何でもいい。


「朝までに片づけろ。残っていれば、人を入れる」


 マルティンがもう一度えずくと、見張りは2歩退いた。靴音が消えても、水滴を5つ聞くまで、誰も動かなかった。


「全部、こぼしましたね」アッタは声を殺した。


「ええ」


「謝らないのですか」


「謝っても水は戻らないと言うでしょう」


「よく覚えていらっしゃいます」アッタは怒ったまま、こぼれた水へ湿土を少しずつ落とした。


 三人で裸足になり、泥を古い汚れに薄く延ばす。吐いたふりに使った布には乾いた粉を包み、寝藁の下へ押し込んだ。濡れた床は古い泥に戻り、崩土の半分が消える。空の水差しだけが、真ん中に残った。


「次に何か倒す時は、先に言ってください」アッタがそれを置き直した。「鉄を落とすところでした」


「言えば、止めたでしょう」


「止められるのが嫌で黙ったのですか」


 私は答えなかった。相談していれば、その間に扉が開いていた。そこまでは言い切れる。アッタの問いから逃げたことまで必要だったとは、言い切れない。


 その夜、私たちは掘らなかった。石の向こうに人がいるなら、鉄の音を返すわけにいかない。三人で壁に背を預け、穴の口を見張ったまま朝を待った。眠った者は隣の者が起こす。アッタの頭が落ちれば肩を叩き、私が眠ればマルティンの祈祷書で膝を打たれた。


 夜半、マルティンが床へ手をついた。濡れた石を指でなぞり、その指を口へ運ぼうとする。


「泥です」アッタが手首を押さえた。「明日、腹を下したら、穴の中で困ります」


 マルティンは指を膝で拭った。「あなたが司祭で、私が囚人なら、話が早い」


「私が司祭なら、水は倒させません」最後の一言だけ、こちらへ向いていた。私は言い返さず、穴の口へ耳を戻した。


 誰も来なかった。咳も、二度と返らなかった。



 翌朝、水は半分しか来なかった。三人で一口ずつ含んだ後も、喉の奥は貼りついたままだった。


「二度眠った後の朝に、あの方がいらっしゃるわ」私は空の桶を指した。「渇いた王妃を見せるつもり」


「その話は、昨夜の当番から聞いた」男は桶を下げ、鼻から息を出した。「使者が来るまで、あんたは死なん」


 同じ札は、二度目は通らない。番の男たちは、私が何を言ったかを互いに伝えている。


 見張りは泥の跡を見て鼻を鳴らし、寝台の脚に靴を当てた。木が指1本分動く。下で小石が擦れ、身体が勝手に立ちかけた。


 アッタが私の袖を踏んだ。


 廊下から呼ぶ声があり、見張りは舌打ちして出ていく。閉じた扉を見た途端、唇から笑いが漏れた。安堵とは違う。次は終わる、と身体が先に知った時の、乾いた笑いだった。


 昼、マルティンがまた穴の口へ耳を寄せ、離した。


「今日は、何も聞こえません」


「あの咳を、もう一度してみて」私は言った。「二度目を途中で噛み殺す、あれを」


 マルティンが真似た。乾いて、途中で潰れる音になる。アッタが眉を寄せた。


「夜番です」


「ええ。石の向こうに、同じ癖の人が2人いてたまるものか」


「では、あの咳はどこから来たのです」


「廊下からよ。細い隙が、廊下とこの穴をつないでいるの」


 アッタは、私が言い終わるのを待たなかった。


「音が来るなら、音は行きます」


「ええ」一晩、無駄に張り込んだ。それより悪いのは、二晩ぶんの鉄の音が、どこかの廊下へ届いていたことだ。誰かの耳には入っている。まだ、それを昨夜の音と結びつけていないだけだ。


「では、なぜ誰も来ないのです」マルティンが言った。


「鼠だと思っているうちは、来ないわ」日が傾くまで、穴には触れなかった。一度、エンマが掛布を差し出している夢を見た。ほどいてほしい親指はなく、両手が空いていた。


「何か言っていましたか」目を開けた私に、アッタが尋ねた。


「何も」


「次は、居場所を聞いてください」2人とも笑わなかった。笑えば、乾いた喉が裂けそうだった。



 夕刻、修繕の荷車が廊下を通り始めた。欠けた石に車輪が乗るたび、牢の床まで低く揺れる。


 三人で穴の前に布を張った。アッタとマルティンが両端を持ち、私は左手で灰掻きの柄を握る。包帯の右手は、柄に添えるだけでも痛んだ。


 車輪が鳴る。


 鉄を押した。土が布に落ちる。次の揺れを待つ間、自分の唾を飲む音まで大きく聞こえた。


 もう一度、車輪が鳴った。


 灰掻きを捻る。薄く残った土壁に亀裂が走り、マルティンが手を閉じるより早く、布に重みが来た。


 壁が崩れた。


 予想の倍ほどの土が落ち、アッタの腕が沈む。奥は人の肩幅ほど開いたものの、正面に手を入れると、冷たい泥が指の間から湧き出した。


 マルティンの爪が裂け、布に赤い筋がついた。三人で床に下ろしても湿土は重く、隠せる場所はもうない。今夜通れなければ、穴より先に、この土の山が三人を告げる。


「正面は嫌です」アッタが泥のついた指を嗅いだ。「水が腐っています」


 右は水が増え、左は固く狭い。どちらが出口かは、誰にも分からない。私は濡れた方へ伸ばした鉄を引き戻した。腐った水は、飲めず、泳げず、崩れる。固い方に、身体を横にすれば通れる幅だけを作る。


「私が先に入ります」


「嫌です」アッタが即座に返した。


「あなたを先にやって、後ろで待つ方が嫌なの」


「そこで動けなくなったら、どうなさるのですか」


「足を残すわ。2人で引いて」マルティンが自分の肩を穴に入れて試し、息を吐き切って戻った。


「私の足まで引く力を、残しておいてください」


 荷車が戻ってきた。揺れに合わせて鉄を押す。だが次の車輪音が来ない。荷車が途中で止まり、鉄の先が土を擦る音だけが残った。


 マルティンの祈りが一語で始まった。三人は手を止める。扉の前にも足音が止まった。


 鍵は鳴らなかった。やがて荷車が動き、足音も去った。


 廊下の男たちの声が、今度は近くで重なった。


「灰掻きが一本ない」


「朝課の後、人を集めて探せ。使節が戻る前に、寝台も床も上げる」アッタの手から土が落ちた。マルティンは祈りの続きを唱え直し、同じ句に戻った。


 私は衣の内側へ手を入れた。青い硝子の冷たさと、欠けた真珠の座が指に当たる。持って泥の穴へ入れば、失うかもしれない。置けば、エンマに触れた最後の品を、自分から手放すことになる。


「持っていくのですか」アッタが、衣の上から硝子を握る手を見た。急かすより先に、その目には恐れがあった。


「まだ分からない」答えた声は、自分でも腹が立つほど幼かった。指だけが青い硝子を離さない。


「穴へ入ってから迷わないでください」アッタは焼けた手を開いた。もう王妃の代わりに決めるつもりはないのだ。


「朝を待たない」青い硝子を握ったまま、灯を吹き消した。「今夜、出る」


史実メモ:三人が地下の掘削路を用意したことは近い史料にあります。一方、掘削日数、道の長さ、水、環境音に合わせた作業、使節が戻る朝の検査、掘土の処理は史料にない本作の再構成です。

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