第10話 王妃は泥の中を這う
掛布の胸元を、娘のブローチで留めた。
曲がった裏針が布をつまみ、詰めた寝藁が人の胸の形に盛り上がる。寝台は壁から指3本ぶんだけ引いてあった。穴の口は、その影に沈んでいる。廊下の灯が揺れるたび、欠けた真珠の座が小さく光った。
私は床へ身体を横たえ、肩を斜めにして、頭から穴へ入れた。
入れたはずの右手が、寝台へ戻ろうとする。アッタがその手首をつかんだ。
「取りますか」
今なら間に合う。明朝になれば、見知らぬ手が掛布から外して持ち去るだろう。エンマは外套を着せられるたび、真珠の抜けた穴に爪を入れ、青い硝子を横へ引いた。その針がいま、母の身代わりを抱き留めている。
見回りの灯が格子を横切った。
「お手を、穴へ」アッタが、つかんだ手を自分の方へ引く。私は寝台を見たまま、肘まで土の中に入れた。
灯の影が寝台へ伸びる。見張りは鼻を鳴らし、鍵を差し込まずに去った。眠る王妃は、確かにそこにいる。青い硝子が、そう証言している。
「今です」アッタが囁いた。
息を吐き、肘で土を押した。青い硝子が見えなくなっても、右手だけはしばらく後ろへ伸びていた。
穴の中には、身体の向きを変える余地がなかった。頬に湿土がつき、髪が細い根に絡む。
三歩ぶんも進むと、床が下がった。這うというより、頭から落ちるのを肘で止める姿勢になる。運ばれてきた日に数えた42段を、いま逆さのまま返している。
前へ出した手が固い壁に当たり、夕刻に曲げたところで左へ探り直した。
胸が土に押される。吸おうとするほど、背中が天井に当たる。後ろにアッタ、その後ろにマルティン。分かっている。分かっているのに、一人で埋められた、という一つの考えが喉を塞いだ。
戻らなければ。
腕が、動かない。
口に入った泥を吐こうとして、吸う息まで失う。耳が土に触れ、自分の鼓動が追手の靴音になる。数える。数えられない。
「止まる」
声にならなかった。けれど足首に一度、指が触れた。アッタからマルティンへ合図が渡り、後ろの土擦れも消える。
誰も押さなかった。
口から細く息を吐く。胸と地面の間に、指1本分の隙間が戻った。足首を包むアッタの手は、こちらの踵より激しく震えている。
その震えに足を預け、もう一度、肘を前に置いた。
「進む」今度は声になった。足首に二度、指が返る。
後ろで、土が一度まとまって落ちた。入ってきた側が細くなる音だ。戻る道が、いま一つ減った。
手探りで土を脇へ寄せる。右手の傷が開き、泥が入り込んだ。痛みから顔を背けた時、頬に冷たい空気が一本触れた。
前を塞いでいたのは、根と湿った土だった。両手で分けると、夜より薄い色が細く見える。
根は歯でも切れなかった。傷口に食い込み、髪を引き抜く。束ごと横へ曲げ、間に頭を押し込んだ。
「外です」
「本当ですか」アッタの声が足元から来た。
「たぶん」
「今だけは、言い切ってください」
「外よ」
次のひと押しで、両手が黒い泥に沈んだ。
地上へ出たのに、立てなかった。腹から下は穴に残り、上半身は水を含む地面に伏している。腐った草の匂い。牢の空気より、どこまでも広い。
顔を上げると、真上に砦の壁があった。石が葦の根方から立ち上がり、夜の中へ消えていく。私たちは、42段ぶん下って、この壁の足元へ出たのだ。
身体を這い出し、すぐ穴に向き直る。アッタの頭が現れ、肩まで抜けたところで止まった。
「動けません」声が高い。アッタは腕で泥を掻いたが、腰のまわりで土が締まり、余計に動かなくなった。
「戻してください。腰が動きません」
「戻れない。私を見て」
「見ています」
「息を吐いて。全部よ」
アッタの脇に両腕を入れ、自分の胸も泥につけた。引けば肩を傷める。緩めれば出口の土が腹に落ちる。
「マルティン、押せますか」
穴の奥で土が二度鳴った。アッタの腰がわずかに浮く。マルティンが灰掻きの先を腰脇へ差し込み、狭い箇所を一度だけ広げた。
「鉄を抜いて」アッタが息の間に言った。
「抜けば崩れます」
「では、置いて。手を離します」
「柄を寝かせて、上から押さえて」私は言った。「そのまま持っていて」
マルティンは柄を横に寝かせ、その上へ左の掌を重ねた。湿土の重みが、彼の手ごと下りる。私が引き、彼が押す。衣の裂ける音と一緒に、アッタの身体が泥へ滑り出た。
その音の中に、もう一つ、鈍いものが混じっていた。
2人で穴に手を入れる。マルティンは入口へ寝藁を寄せられるだけ寄せ、最後に這ってきた。出口近くで鉄の下を抜けると、支えを失った土が背後で沈んだ。
「手を」潰れた声に、2人が片腕ずつ差し出した。引くたび根が頬を擦り、低い呻きが漏れる。やがて灰色の頭が現れ、三人目の身体が泥の上に転がった。
「肩はありますか」アッタが彼の衣をめくった。
「二つとも、たぶん」マルティンは泥を吐いた。
私は彼の左手を取った。指が2本、こちらの掌の上で並ばない。薬指と小指は、根元から外へ向いていた。触れると、彼は息を吸ったまま止めた。
「痛い?」
「いいえ」しばらくして、「はい」と言い直した。
柄を寝かせて押さえていろと言ったのは私だ。あの重みの下へ、彼が自分の手を置くとは思わなかった。思わなかった。それで済むはずがない。
「元に戻りますか」アッタが尋ねた。
「杯は右手でも持てます」マルティンは左手を胸へ入れた。「祝福は、片方で足ります」
アッタが自分の裾を裂き、添え木になる物を探した。折れた葦の茎しかない。二本を当てて巻くと、マルティンは肩から先を身体へつけ、それきり動かさなかった。
誰もすぐには喜ばなかった。マルティンは顔を伏せて咳き込み、アッタは裂けた衣を押さえた。私は塞がりかけた穴から目を離せない。中へ戻れと呼ばれる気がした。
「王妃さま」アッタが呼んだ。
「何」
「やっぱり、お顔がひどいです」
泥だらけのアッタを見た。「あなたも」
アッタの口から、泣き声に似た笑いが漏れた。マルティンも咳の途中で笑い、三人は慌てて互いの口を塞ぐ。マルティンの左手だけが、胸から出てこなかった。
笑いを止めると、代わりに歯が鳴り始めた。濡れた衣が肌に張りつき、傷がいっせいに痛み出す。自由と呼ぶには、まず寒かった。
三人で出口へ泥と抜いた草を戻した。完全には隠れない。それでも、立ち止まれば夜明けの方が先に来る。
葦の間へ入ると、一歩ごとに地面の深さが変わった。アッタが折った茎を差し、底に届けば進み、届かなければ戻る。安全な道を知っている様子はなかった。それでも、泥に足を入れる前の迷いが、2人より短い。
片方の履物が泥に取られた。手を入れて探しかけた時、背後で鐘が鳴る。履物を諦め、裸足を水へ下ろした。
「私が道を知っているとは、聞かないのですか」アッタが前を向いたまま言った。
「知らないでしょう」
「はい」
「でも、私より泥を知っている」
アッタは返事をしなかった。次の一歩を葦で探り、三人が通れる場所に自分の足を置く。
鐘がもう一度鳴った。朝の合図か、空の寝台が見つかった音か。二度では、どちらとも決まらない。
空が白み、葦が一本ずつ輪郭を持つ。先頭のアッタが急に止まり、差した茎をすぐ引き戻した。
「底がありません」
その先で葦が切れていた。夜明けの水が、行く手いっぱいにひらいている。
史実メモ:フロツヴィタは三人の地下掘削と夜間脱出を、オディロは脱出後の湿地と飢えを別々に描きます。本作は二伝承を接続しているため、地下の出口が湿地へ開く順序と牢内の細部は創作です。




