第64話 会いたい。だから、連れてこないで
「門は」
「閉じたままです」
私が挨拶より先にそれを訊くようになってから、使者も挨拶を省くようになった。
サン・レーオを囲んだまま、オットーはローマへ向かった。秋の使者も、雪を肩に残した使者も、道は塞いだ、門は開かない、と繰り返す。
馬が中庭に入るたび、話の途中でも立った。ローマからだと知れば座り直し、教会からの願いだと知れば顔を作った。三度目に、アッタが水差しを置いた。
「お立ちになるたび、椅子の脚が鳴っています」
「隠していないもの」
「はい。廊下まで聞こえています」
次の者には挨拶より先に門のことを言わせて、と頼んだ。
「閉じたままでも、先にお伝えするのですか」
「閉じているなら、早くがっかりできるでしょう」
アッタは呆れた顔で、次から本当にそう取り次いだ。私もアッタも、ベレンガーの敗北を待っていた。
*
年が改まってから、泥の乾いた外套の男が来た。案内役より先に戸をくぐり、礼の途中で片足をよろめかせる。
挨拶を飛ばしたのは、今度は私だった。
「門は」
「ベレンガーは、配下の者たちとともに敗れました」
部屋の者が一斉に息を止めた。
湖のほとりで指輪を渡した春から、十三年近くたっている。
「どこから来たの」
「囲みの中からです。冬じゅう、山のふもとに」
「その目で、何を見たの」
「開いた門と、下りてくる者たちを。列が切れませんでした」
見た者が、目の前に立っている。
「城は」
「皇帝陛下の支配に服しました」
「ベレンガーとウィラは」
「2人とも生きて山を下りました。いまは護衛のもとに」
短すぎて、13年ぶんの言葉には聞こえなかった。勝報の日には美しい衣を着て、オットーが隣にいて、鐘でも鳴ると思っていた。実際には、アッタが水差しを持ち、泥まみれの男が肩で息をしているだけだった。
「もう一度」
男は息を整え、初めよりゆっくり繰り返した。ベレンガーは敗れた。城は皇帝のものになった。夫妻は生きて山を下りた。
二度目の「敗れた」で、アッタの指が触れた。どちらから握ったのか分からない。荒れた掌が合わさった途端、喉から笑いが漏れた。
止める代わりに、空いている手も重ねた。アッタも笑っている。水差しを置き損ね、卓の端にぶつけた。杯が倒れ、水が石床を走ったが、誰も拾わなかった。
「本当に?」
「本当です、陛下」
「もう、あの門を待たなくてよいの?」
「はい」
私はアッタを抱いた。勢いで彼女の古傷のある足が滑り、2人とも卓にぶつかった。牢で大きい方のパンを取った掌が、背中で震えていた。
「嬉しい」
「私もです」
部屋の隅で誰かが十字を切り、アッタの弟のミロが倒れた杯を拾った。祝いの酒を、という声が上がり、私は止めなかった。
「ミロ、台所へ伝えて。今夜は残っている者みんなに肉を。馬にも一番よい飼葉を。この人には、酒より先に食べるものを」
台所へ走る足音がした。アッタは笑ったまま、どの肉を出すかミロに言い足している。私は自分の皿も、皆と同じ大きさにしてと頼んだ。
「パンも、大きい方をお取りください」
「半分にして」
「今日くらい、全部お取りになればよいのに」
「今日は、半分にしたいの」
アッタは笑い、両手でパンを半分に割る仕草をした。
*
最初の杯が配られた頃、使者が遠慮がちに続けた。
「道中では、ベレンガーが皇帝陛下の前に跪き、冠を差し出したとも聞きました」
「どんなふうに?」
身を乗り出していた。男は空の両手を胸の前に上げ、その場に片膝をついた。骨が石に当たる音がした。
「このように、命だけはお救いくださるよう――」
「もっと顔を下げたの?」
「おそらく」
続けて、と命じた。男の膝が震えた。
手綱で裂けた指には黒い血が固まり、上げた腕も少しずつ下がっている。目の前にいるのは、眠らずに勝報を運んだ、名も知らない男だ。
「あなたは見たの」
「いいえ。山を下りた者から聞いたという者に、宿で」
私は手を差し出した。
「もういい。立って。ごめんなさい、続けろと言ったのは私よ」
男はその手を借りて立ち、片足を引いた。アッタが水を渡す。使者は一息で飲み、空の杯を両手で返した。
男が下がってから、アッタが言った。
「冠までは聞いておきたかったです」
「私も。今だって聞きたい」
「ひどい顔でしたかね」
私は火に目を戻した。
「そうであってほしいわ」
*
二人で火を見ているところへ、別の男が入ってきた。泥も乾いた土もつけていない。皇帝の印を提げ、私の名を先に呼んだ。
「皇后さまに、先にお伺いするようにと」
「何を」
「ベレンガーとウィラの身柄について、決める前に皇后へ訊けと、陛下が」
ウィラの島が落ちた年、私は次こそ牢に入れろと言って断られた。せめて決める前に呼んでほしいと、頼んだ。
「陛下は、何とおっしゃったの。そのまま言って」
「『先に妻に訊く。決めるのは私だ』と」
喉の奥が塞がって、しばらく声が出なかった。アッタが横で、火のそばの薪を意味もなく組み替えている。
夫は覚えていた。私は火の前へ腰を下ろし、使者にも座ってもらった。
「陛下は、皇后さまが牢をお望みだと思っておいででした」
「望みました。島が落ちた年に」
「今夜は」
「今夜も、少し望んでいます」
男は困った顔をした。困った顔をされてから、私はようやく座り直した。
「今から言うのは、私の願いです。決めるのは陛下だと、先に伝えて」
「はい」
「夫妻を離さないで。同じ場所に置いて」
「なぜでございましょう」
「離せば、片方が片方のことを何も知らないまま年を取ります。それは、私が知っています」
「ほかには」
すぐには言えなかった。暗い部屋を覚えているか。私が王妃だと知っていたか。私の名を、顔を見て言え。聞かせたい言葉なら、13年ぶん並んでいる。
一度は言った。北の接見の間で、四十二段の上に閉じ込めた私を覚えているかと。あの男は先に目を逸らした。その時の顔を、まだ忘れていなかった。
「会いたいわ」
アッタがこちらを見る。
「だから、連れてこないで。会えば、私は何をさせたがるか分からない」
「慈悲と伝えますか」
「いいえ。自分を試す勇気がない、と」
使者は言い換えず、そのまま覚えた。
*
幕間――サン・レーオ、門が開いた日
扉の外を歩く足が、ベレンガーの兵のものでなくなっていた。
一人が扉の前で止まり、もう一人が階段を下りていく。ベレンガーは椅子に座り、ウィラはその横に立っていた。食卓には水が半杯あるだけで、2人とも口をつけていない。
「降らなかったぞ」
ベレンガーが言った。湖の島から戻った日、妻が命じた言葉への、ひどく遅い返事だった。
「ええ」
「それでも、こうなった」
「ええ」
ウィラは夫の外套へ手を伸ばし、折れた留め針を抜いた。指先の震えで布が何度も逃げる。島で石を浴びても震えなかった手だった。
「よせ」
「曲がっています」
「今さら誰が見る」
ウィラは針の穴を探しながら、「私が見ます」と言った。別の針を通し、どうにか襟を留める。王の外套らしくはならなかったが、片方に垂れなくなった。
「あの時、何人死なせるのかと聞いたな」
「聞きました」
「数えたか」
「数えようとしました。途中で、誰を入れればよいか分からなくなりました」
島で倒れた者。山へ来る途中で倒れた者。
「なら、数えるな」
「あなたは、いつもそれで済ませる」
「お前は、答えがなくても口にする」
2人はしばらく見つめ合い、やがてウィラが笑った。ベレンガーもつられて笑った。
扉の向こうで武具が擦れた。
「立てますか」
「誰に言っている」
ベレンガーは椅子の肘を押し、自分で立った。冠はすでになく、2人は何も言わずに待った。
扉が外から開く。並んだまま、光の方を見た。
*
皇帝は夫妻をバイエルンへ送った。同じ場所で暮らせるようにしたと、後の便りにあった。私は一度も会わなかった。
*
その年、マルティンから、娘が私への便りを書かせたという報せが届いた。
紙は二枚だった。一枚は司祭の手で、マルタと旧王宮の書き役グイドから聞き取った、娘を預かった日のことが記されている。乳母グレータが連れてきた子。左の耳の後ろの、小さな月のような痣。マルタに先に話させてから、司祭は、私が昔託した記述と照らしたと書いてあった。
二枚目の初めに、エンマとあった。その次の行は、私はアニェスとも呼ばれています、だった。
いままでなぜ知らせなかったか、マルタは私にも怒られました。母上へ会いに行くつもりです。でも、ベルノが寝ついています。私を馬に乗せ、雪の日に背負った人です。置いてはいけません。
その先を、私は読めなかった。アッタが隣へ来て、代わりに読んでくれた。
迎えは、まだ送らないでください。あの人は、私を連れていかれると恐れています。私はここにいます。もう、黙って引っ越しません。
司祭が写した文字の最後に、別の手で娘の名があった。書き慣れない、大きな字だった。
「行ってはいけないと、書いてはないわ」
私が言うと、アッタは答えなかった。
「私が行けば、いけないの?」
「お返事に、お尋ねになりますか」
訊くつもりで羽根を持ち、長いこと座っていた。娘は、三つの時からの出来事を一度に聞かされた。そこで病人まで奪う気かと怒られたら、私は誰に腹を立てるのだろう。
ベルノへ、薬草と暖かな布を送らせた。娘への返事には、あなたの字を見ました、待っています、と書いた。私が待つ間も、娘は自分の知る人を看病する。
*
964年の暮れ、私は北へ帰った。出立を決めた日には、まず息子へ書いた。着く日が遅れるたびに、また使いを出した。
息子のオットーは、戸口で礼をした。九歳になった少年が、私の手へ口づけようとする。その頭へ手を置きかけ、途中で止めた。
「背が伸びたのね」
「三年たちました」
三年半、と直しかけた。私は何を張り合うのだろう。
「袖は」
「もう着られません」
ヴィルヘルムが傍らにいた。息子は大司教を見ず、私の手を放した。
「今夜は、ここにいますか」
「ええ」
「明日も?」
「います」
すると息子は、壁際へ椅子を引いた。私のためかと思ったが、自分で座った。
「では、今は僕の話を聞いてください」
私は隣へ座った。冠の重さを訊いた便りは届いたと言った。返事も来たと私が答えると、それだけではないと、息子は少し怒った。
嫌いな教師のこと。馬から落ちたのに、母へは知らせなかったこと。眠れない晩にヴィルヘルムが途中で眠り、起こすと知らない祈りを続けたこと。話す声が、北へ残した日の声と違っていた。
「母上は、また行きますか」
私は息子の顔を見た。
「今は、行く予定はありません」
「決まったら、書かずに言って」
同じ家にいるうちに、と息子は付け足した。
頷いて、その手へ触れた。今度は引っ込めなかった。抱いてよいかと訊く前に、向こうから椅子を寄せてきた。
*
翌年、ベレンガーとウィラの娘が二人、私の前へ来た。
史実メモ:964年、近い年代記は、ベレンガーが配下とともにサン・レーオで包囲されて敗れ、城が皇帝の支配に服し、ベレンガーとウィラがバイエルンへ送られたと伝えます。ベレンガー本人が城を明け渡したとは書かれていません。正確な日、降伏や捕縛の儀礼、跪いて冠を渡したという話、護送経路は不明で、皇帝が処遇の前に皇后へ諮ったという本話の場面も創作です。
夫妻を同じ場所に置くという要望と確認、娘からの便り、年末の母子再会とその会話も本作の創作です。




