第63話 土地と一緒に
西へ出すはずの旅箱は、開いたままになっていた。
マルティンから、娘へ話したという便りが来た。エンマは、生きていた母がなぜ急に来るのかと怒った。今まで知らされなかったことを、母にも隠されたように感じている、と司祭は書いた。訪ねるならもう少し待ってほしい。娘が自分で返事を書くまで、と。
私は箱から外套を引き出し、畳み直した。待てと言う側に娘がいることが、いちばんこたえた。
*
同じ名の男が2人いる紙だった。片方から取り上げ、片方へ与える。
「どちらのグイド?」
「受け取るのは私です」
モデナ司教グイドは、名が重なっていることを面白がらなかった。皇帝の近くで王国の相談に加わり、欲しい土地を欲しいと言える男だ。
「取られる方は」
「ベレンガーとウィラの息子グイド。それに、もう一人の息子コンラートです」
うれしさが顔に出そうになり、私は水を飲んで隠した。杯の縁の向こうで、書記が羽根を持ち替えている。
「もう一度、2人の名から読んで」
書記が読み直す。敵王夫妻の息子たちが証書で得た、モデナとボローニャの土地。それから、レッジョで得たすべて。
「すべて」では広すぎる。レッジョに何を持っていたのか、この部屋の誰も確かめていない。
「レッジョの分は、何で示すの」
「証書で」
「全部の証書が、あなたの手もとにあるの」
「……すべては、ありません」
「なら、限りなさい。得たことを示す証書のあるものに」
「取り分が減ります」
「減らない方が危ないの。証書のない土地まで取れば、あなたも息子たちと同じやり方をしたと言われます」
司教は初めて黙り、卓の木目を見た。長い黙りではなかった。
「その一条、入れていただきましょう」
書記が羽根を持ち上げ、司教を見て、それから私を見た。
「あの、どちらのお言葉で書けばよろしいでしょうか」
「私が言ったとおりに」
「はい。あの、間違えましたら、削ってよろしいですか」
「削って。何度でも」
羽根の握り方がまだ新しい。役に就いて間もないのだろう。グイドは損になる条件でも、理屈が通れば受け入れた。好きにはなれそうにないが、話はしやすい。
「続けて」
*
屋敷、畑、葡萄畑、森、水車、漁場。書記は土地に付くものを順に読んだ。
「そこに属する、男と女――」
「待って」
止めた声が大きすぎて、戸外の足音まで止まった。
「土地を受け取る時、家ごとに人を分け直すのですか」
「まず、納める先が変わります。住まいを移すとは限りません」
自分の所領を与えられた時にも、同じ文言を聞いた。いま初めて人が土地とともに渡ると知ったのではない。敵の息子たちの物を奪えると喜び、その続きだけを聞き流そうとしていた。
「家族を離さないでください。今回の引き渡しでは」
「家族が別の所領に属している場合もあります。私の受け取る土地だけで、お約束はできません」
「売って離すことは、やめられるでしょう」
「私の代の、今回の引き渡しについてなら。他の領主の権利までは、私からは変えられません」
私は書記を見た。彼はまだ、止めた箇所へ指を置いている。
「まずは、それで。引き渡しのために家族を別々の土地へ送らないと」
グイドは頷いた。人が自由になるわけではない。私も、自由にするための代償を払うとは言っていない。
空の杯を口へ運びかけ、戻した。
*
続きには、証書を返さない者への罰金と、皇帝の使者に調べさせる権限があった。そこまで聞いても、私は贈与そのものには賛成だった。
「ただ、私の名は入れないで」
書記の羽根が止まった。モデナ司教は少しも驚かなかった。
「では、皇后陛下は賛成なさらなかったと皇帝に申し上げます」
「賛成すると言ったでしょう」
「私が欲しがり、皇帝が与え、皇后は名を隠した。その形なら、息子たちは私一人が奪ったと言えます」
「私を盾にするの」
「はい。陛下も私もあなたも、望んでいることです」
返事があまりに早く、アッタが水差しから顔を上げた。
「出ていって」
司教は立ち、書記とともに戸口へ向かった。従順すぎる背に、また腹が立つ。
「待って」
二人が振り返った。
「私の名も、入れてください。さっきの約束は、そのままに」
グイドが椅子の背へ手を戻した。
「証書には、ご助言として」
「それでよいです」
私は空の杯を卓へ置いた。名を隠せば、後で嫌だと言える気がしていた。止める気のない贈与を、私が止めようとしたことにできる。
書記に、皇后アーデルハイトの助言と介入により、と戻させた。削った跡の上で字が滲んだ。
*
9月12日、サン・レーオ。
文書が発せられた。レッジョの分は、得たことを示す証書のあるものに限る。男女の隷属民も付属物として含まれる。そして、私の介入が記された。
最初にうれしさが来た。遅れて吐き気がした。
水盤で手を洗っていると、オットーが入ってきた。私は紙にも羽根にも触れていない。なのに指の間を何度も擦っていた。
「何を落とす」
「喜んだ顔」
夫は水から私の手を引き上げた。
「私も喜んだ」
「そう言えば、私が軽くなると思っているの」
「思っていない。私の名も、同じ紙にある」
濡れた手で夫の衣をつかんだ。胸の布に指の跡が広がる。
「今日、家族を離さないとだけ頼みました。それで、安心しかけた」
「離さない方がよい」
「ええ。でも、敵の土地が減った方が、ずっと嬉しかった」
夫は私の手を見た。指の間から、水が一滴落ちた。
きれいな言い換えを、夫もしなかった。
「今夜、この話をもう少ししてもいい?」
「ああ。着替えてからな」
オットーは濡れた手ごと私を引いた。胸に残った指の跡を見て、私は手を離した。彼は濡れた上着を椅子の背に掛け、着替えてから隣に座った。
史実メモ:963年9月12日、サン・レーオ発給のD260は、アーデルハイトの助言・介入により、ベレンガー夫妻の息子グイドとコンラートが証書で得たモデナ・ボローニャの財産を、同名別人のモデナ司教グイドへ付与します。条件付きのレッジョ財産、男女の隷属民を含む付属物、証書返還拒否への宣誓・金百マンクス・審問権も記します。ウィラ本人や敵王家全体の全財産没収ではありません。
本話の「引き渡しに際して家族を引き離さない」という約束は、史料にある条項ではなく創作です。隷属民を解放したとする場面ではありません。




