第62話 白い牝馬が運ぶ願い
「サン・レーオの門は」
「私は、あの山から来たのではありません」
アウクスブルク司教ウルリヒは、膝の上の帽子を直した。8年前、燃える城外を背にして自分の町を守った人だという。私が知っているのはそれだけで、目の前の男は、その話をしに来たのでもなかった。
「戦のことをお尋ねになるなら、別の者をお呼びください。私は修道士の話をしに来ました」
正しい指摘だった。そのせいで、余計に腹が立つ。夫は人も馬も連れて山へ行き、私は麓の宿で門の開く日を待っている。その苛立ちを、初対面の司教にぶつけていた。
「……どうぞ」
ケンプテン修道院が前の皇帝たちから受けた特権を、今の皇帝にも確かめてほしい。次の修道院長は、兄弟たちが自分たちの中から選ぶ。その一条も残してほしい。願いはそれだけだと、ウルリヒは言った。
「レーノからも、同じ願いがありました。皇帝の返事が出るまで、ここで待たれますか」
「待ちます。写しが間違っていれば、その場で直せますから」
「ほかの者を待たせても」
「私が来たのです。私が待ちます」
ウルリヒは帽子の縁を指でなぞった。使い込まれた布は、一か所が褪せて薄い。
「私の助言として、皇帝の卓へ置きます」
「文面を確かめてから、礼を申し上げます」
礼を先に待ったことを見られ、私は紙の束を引き寄せた。
*
司教が出ていくと、卓には古い特権の写しだけが残った。前の皇帝の言葉は読めても、ケンプテンで実際に誰が次を選べるのかは、ここからでは見えない。
夏に入っても、山から届く報告は同じだった。道は塞いだ。門は開かない。夫も替え馬も、サン・レーオにいる。それでも、遠い修道院の願いを山へ運ばなければ、皇帝の答えは始まらない。
*
約束した日の午後、すぐに出せる馬は一頭もいなかった。皇帝の替え馬は山へ行き、家政の荷馬には傷布と乾いた豆が積んである。
「降ろして」
「どちらを。傷布ですか、豆ですか」
「そういう聞き方をするのね」
「降ろせとおっしゃったのは、皇后さまです」
厩の奥で、ローマで口を傷めた白い牝馬が鼻を鳴らした。傷はもう塞がり、近い道なら走れるという。私は自分の鞍を外させ、使者のものに替えた。
ミロが手綱を取る。口の端、蹄、背の順に触れ、鞍帯を一穴緩めた。
「初めの坂は歩かせてください。息が整う前には走らせないで」
「急ぎの便よ」
若者は私でなく使者を見たまま答えた。
「坂は歩かせても、暗くなる前には陣へ着けます。帰りは明朝にしてください」
「そのとおりに」
使者には、ケンプテンの先行特権と、修道士たちが次の長を自分たちで選ぶ一条を持たせた。
「私の言葉を増やさないで。司教の願いを、そのまま陛下へ」
「皇后さまからは、何も」
「私が運ばせた。それで足ります」
アッタが牝馬の口元を確かめた。
「この馬を出せば、急ぐ時にお歩きになるのは皇后さまです」
「歩けるわ」
「前にも、そう言いました」
逃亡の泥道のことか、ローマの門で馬の口を裂いた日のことか。どちらにしても言い返せないまま、私は使者を出した。
*
6月14日を過ぎて、白い牝馬が戻った。私は使者が鞍から下りるのを待たず、ミロと一緒に口元を見た。新しい傷はない。それから人間の方に水を渡した。
「先に馬ですか」
「前に、私が傷つけたの」
言い訳を足さなかったので、使者もそれ以上は尋ねなかった。
文書は、ケンプテンの先行特権を確認し、兄弟たちが次の修道院長を選ぶことを残した。皇后アーデルハイトの介入により、とも。
「ウルリヒ司教からは」
「何も。私は陛下の返事だけを預かりました」
文面を確かめてから、と司教は言っていた。私は写しを届けさせた。戻ってきた者は、司教がすぐ読み始めたと伝えた。礼は言わなかったのかと訊きかけ、よした。
同じ週、西から私への返事が来た。マルティンが、ようやくマルタ本人と会ったという。女は初め、アニェスは自分の娘だと言い張った。乳母グレータの名を出すと、黙った。最後に、子を奪いに来たのかと訊いた。
その先を読んでもらう前に、私は手紙を受け取った。
十五になった娘は、私が母だとは知らない。育てた女はまだ言っていない。手紙には、そう書かれていた。
その夜は眠らなかった。朝には馬を用意させたが、北へ越える峠まで、護衛を組むにも日が要る。私は厩でミロを困らせ、部屋へ戻ってマルティンに書いた。女に任せず、あなたから娘に話してほしい、と。
*
暑さで蝋燭が曲がる頃、ローマから来た男が順を崩した。
「教皇ヨハネスが、アダルベルトをローマに入れました」
私は山の方角を見ていた。ベレンガーのいる山だ。アダルベルトは、父の所へ戻らなかった。
「いつ」
「私が発つ3日前です」
「ルスティコという書き手は、着きましたか」
「公証人なら、着いております。ですが、その後は」
娘の名はローマへ着いた。そこへアダルベルトも入った。
「陛下のところへ、この人を案内して。私の馬を使って」
男が下がると、アッタが空の鞍を厩へ運ぼうとした。私はその肘を押さえた。
「置いておいて」
「お使いになりますか」
「使うわ。門が開いたら、私が乗る」
史実メモ:963年6月14日にサン・レーオで発給されたD255は、司教ウルリヒの請願により、ケンプテン修道院の先行特権と修道士自身による院長選挙を確認し、皇后アーデルハイトの介入を記します。皇后とウルリヒの直接面会、白い牝馬による伝達、皇后の滞在地と軍事への関与は史料から確認できず、本作の創作・再構成です。




