第61話 破られた聖ペトロの誓い
「呼んだぞ。決める前に」
オットーは戸を開けたまま言った。卓の上に、革の筆入れが一つ載っている。私のものでも、書記のものでもない。留め金のあたりの革が、指の形に黒く光っていた。
「持ち主は廊下にいる。去年、聖ペトロの上で立てた誓いを書いた手だ」
去年の2月、教皇ヨハネスは聖ペトロの骨の前で、ベレンガー父子を助けないとオットーに誓った。その同じ人が、いまアダルベルトを呼び寄せている。去年、冠を受けた時に交わした誓いだった。
「返すか、留めるか」オットーが言った。「どちらでも通る」
「その前に、話させてください」
「そのために呼んだ」
私は廊下に立つ男を見た。自分が呼んでほしいと頼んだ席だった。
戸口へ出ると、男は廊下の壁際に立っていた。手ぶらでいることに慣れていない。指の置き場所が定まらず、何度も袖をつかみ直している。右手の中指に、硬い節ができていた。
「名を」
男は、ラテラノの公証人であること、この冬、教皇の書状を運んできたこと、帰路の通行を許されずにいることを、順に述べた。名が出たのは最後だった。ルスティコと言い、それから、二度申し上げましたと詫びる。
部屋へ入れ、卓の前に立たせた。筆入れには手を伸ばさない。伸ばさないために、両手を背へ回している。
「ローマからの文は、あなたの手ですね」
「季節ごとのものでしたら」
「その祝いの句が、便りのたびに減りました。夏に4つ、秋に3つ、降誕祭には1つ」
ルスティコが顔を上げた。私を見て、それから卓の筆入れを見た。
「……数えておいででしたか」
「毎回、返礼を用意させています。前の便りも、手元にあります。何か、変わったのですか」
男は、句というものはあとから足すもので、時が足りなければ先に落とす、と説明した。怠りです、私の怠りです、と二度言い、ほかの者の手が空かず自分が一人で三通を仕上げた話まで続けた。長く喋るほど、袖をつかむ手が上へ移っていく。
「この冬の降誕祭だけなら、そう思ったでしょう。秋にも同じところが抜けていました」
男の唇が止まった。オットーは口を挟まず、卓の縁へ指を置いている。
「……足すな、と申しつけられました。秋からです」
「誰に」
「申し上げても、証しにはなりません」
「まず、聞きます。あなたの話だけで誰かを捕らえることはしません」
*
「では、次を。ヨハネスが、どれほどひどい男だったか」
自分の声が、思ったより高く出た。オットーがこちらを見る。我ながら浅ましい。それでも言い直さなかった。
「私たちの前で誓った時から、そういう人だったのですか」
ルスティコは背へ回した手をほどいた。話し出すと、声の速さが変わった。聖堂の財が減ったこと。祭壇のそばまで雨が入ること。祈りに来た者が、教皇の名を聞くと足を速めること。女たちの話も出た。名は言わず、数を言った。
「その女たちに、あなたは会ったの」
「会ってはおりません」
「では、誰が」
「ローマでは、そう言われております」
角のない返事だった。誰が見たのかを訊いているのに、戻ってくるのは町の名になる。
「言われている、を書くのが仕事なのね」
「私は書きました。見たとは申しておりません」
そこだけ速かった。速すぎた。聞いた話は、見た光景より滑らかだ。滑らかなものは、何度も人の口を通っている。
「もうよいわ」
オットーの手が椅子の肘で動いた。
「聞かせろと言ったのはお前だ」
「ええ。だから、止めるのも私です」
「ヨハネスをかばうのか」
「あの男を、もっと憎みたかったのです」
オットーが振り返った。
「私の牢の話も、遠くへ行くほど増えました。食事も、傷も、見ていない人ほどよく知っていた。私が黙ると、気の毒そうな顔で続きを作った」
「ローマの女たちが嘘だと」
「それなら、会った人を連れてきて。いま、この人に数を増やさせても、確かめられません」
「きれいな話だな」
「いいえ。途中まで聞いて、気分がよかった」
ルスティコが、初めて私を正面から見た。
「お望みのものなら、いくらでも書けます」
「知っています。だから、もう書かないで」
オットーは筆入れを卓の端へ押した。返す、と言った。男も明日発たせる、と。
「留めれば、こちらが恐れていることになる」
戸の外で誰かが陛下と呼んだ。山からの者だという。オットーが出ていき、部屋には男と私だけが残った。
*
ルスティコは筆入れを胸に抱いた。留め金が小さく鳴る。蓋の内側で、削り用の小刀と軽石が触れ合う音がした。
「一つ、頼みたいことがあります」
「告発の文は書きません」
「告発ではありません。祈る名です」
「生きている方の」
「ええ」
「捜せとも、名乗り出ろとも書かないで。ただ、祈りの中で一度呼んでほしいのです」
その名を入れるのは別の者の役だ、と男は言った。自分にできるのは写しを作り、その役の者の手へ渡すところまでだという。私がそれでよいと答えると、今度は、その方はいまどちらにおいでですか、と訊いた。
「知りません」
「では、そう書きます。居どころのない名でも、祈りは読み上げられます」
男は蓋へ手を掛けた。
「どなたのお名を」
喉が狭くなった。書記にも使いにも、何度も渡してきた名だった。祈りに入れてほしいと頼むだけなのに、いまはうまく言えなかった。
「エンマ」
ルスティコが顔を上げた。
「ロターリオと、私の娘です。生きていると信じています。マルティンという司祭が、西で捜しています」
「では、娘御と、その司祭の旅のために」
「ええ」
自分が塔にいた時、誰かはこうして祈ってくれたのだろうか。母か、亡夫の家の者か。子を匿ったマルタも、祈ったのだろうか。
「その子を育てている家の者のためにも」
言い終えてから、もう一度、そう書いてと頼んだ。娘を返さない家を赦したのではなかった。それでも、その家の誰かが死ねば、娘はまた一人になる。
「お名前を」
「マルタとベルノ。家の者がほかにもいるなら、その人たちも」
ルスティコは頷いた。
男は蓋を開けた。
アッタが湯と布を持って入ってきた。男の手もとを一度見て、何も言わずに私の隣へ立つ。ルスティコが礼をして出ていくと、筆入れの置かれていた場所を布で拭いた。それから、あの方の踵が破れております、と言った。廊下で見たという。破れた靴の者は道で遅れるので、替えさせますと続けた。
「皇后さま。あの紙は、ローマで誰の手に渡りますか」
「分かりません」
「では、靴は私が確かめます」
*
オットーが戻ったのは、灯を新しくしたあとだった。腰帯を外しかけて、手を止める。
「名を出したな」
「誰から聞いたの」
「あの男が、出立の礼を言いに来た。祈りを託されたと」
「許したの」
「許した。お前が決めたことだ」
私は座った。座ってから、膝が震えているのが分かった。
「娘のために、祈ってもらいます。いま娘のそばにいる人たちにも」
「西の家か」
「ええ。あの子が暮らしているなら、無事でいてほしい」
夫は返事をしなかった。
「連れ帰りたいのです。あちらで幸せにしていると聞いても、私はきっと会いに行きます。それなのに、あの家の者が死ねば娘が悲しむかもしれないと思うと」
言葉が続かなかった。窓を閉める金具へ、風が当たっている。
オットーは腰帯を椅子の背へ掛け、それから私の右手を取った。
「あの朝、この手は開かなかった」
「あなたは首が真っ赤でした」
「お前はそれを見て笑った」
「あなたも笑ったでしょう」
「ヨハネスを見てか」
「いいえ」
返事はすぐに出た。柱と人の肩の向こうで互いを見つけたのは、私たちだ。
「もし、あの朝をやり直せるなら」オットーが言った。「ヨハネスの手からは受けないか」
名を呼ばれる直前の乾いた喉。柱の向こうに夫を見つけた時の眩しさ。教皇だけを別の人に替えて、同じ朝をもう一度もらうことはできない。
「やり直しません。あの一度でよいわ」
「ローマへ行く。面と向かえば、まだ戻るかもしれん」
「ウィラの時も、そう思ったのでしょう」
「ああ。私は人の妻を買いかぶるらしい」
「自分の妻も」
「今夜は答えない」
彼は手を離し、立ち上がった。
「ただし、ローマは後だ。先にサン・レーオを落とす」
「では、一つだけ。あの男が明日発ちます。着いたかどうか、知らせて」
「中身は聞かぬのか」
「聞かなくてよい。着いたかどうかを」
「何を持たせた」
「娘と、あの子のいる家のための祈りを」
オットーは長く黙った。それから戸の外へ声を出した。
「明日の男に、馬を1頭つけろ。道で失くされては困る」
史実メモ:963年、教皇ヨハネス十二世は、前年に聖ペトロの聖骸を前に立てた誓いを翻し、アダルベルトを呼んで皇帝に抗するなら支えると誓いました。リウドプランドの教皇犯罪列挙は、廃位を正当化する党派的告発です。本話の公証人とその聞き取り、祈りの名の依頼は創作です。




