第60話 夫のもとへ
幕間――ウィラ、夫のもとへ
「降ってはなりません」
ウィラは、夫の前で立ったまま言った。着替える暇はなかった。裾は裂け、髪は石屑で白い。歩くたび、乾いた泥が床に落ちた。
「逃がされたそうだな」
「解き放たれました」
「違いがあるのか」
「あなたのところへ戻れと、あの男は思ったのでしょう。戻りました。それだけです」
ベレンガーは椅子から動かない。
「島も兵も失った。まだ戦えと言うのか」
「ええ」
ウィラは卓に傷ついた両手を置いた。
「膝をつけば、島も、そこで倒れた者も戻るのですか」
ベレンガーは答えず、妻の手の傷を見た。
「そのために、あと何人死なせる」
初めてウィラの言葉が止まった。外で馬が石を蹴る。
「分かりません」
「分からぬまま、降るなと言うのか」
「あなたも、分からぬまま降ろうとしています」
夫婦は黙って向き合った。やがてウィラの膝が折れ、ベレンガーが初めて椅子を離れた。抱きとめはせず、傷ついた手の下へ自分の腕を差し入れる。
「それでも、降ってはなりません」
「聞いた」
ウィラは夫の腕を借りて立った。泥は、二人の足もとへ落ちた。
*
「夫のもとです」
知らせを持った男がそう言うと、アッタの手は閂に掛かったまま止まった。何日か前、そうなると言ったのは私だ。当たっても、嬉しくはなかった。
「急いで戻り、ベレンガーに降らぬよう勧めたそうです。あらゆる言葉を尽くした、と」
「ベレンガーは」
「まだ降っておりません。少なくとも、私が発った時には」
男の唇は乾いていた。水と休む場所を与え、見ていない続きは話させなかった。戸が閉じると、アッタは閂から手を離した。
「聞かない方がよかったです」
「知らせるよう命じたのは私よ」
「はい。それでも、腹を立てているのは私です」
彼女は朝から置かれたパンを持ち上げた。
「ミロが、また荷を運ぶと言っています。熱が下がったのですから、働くのは当たり前ですが」
「前にも運んだでしょう」
「はい。毎度、心配しています。島が落ちれば、しばらく戻る者もいるかと思いました」
アッタはパンを割った。私へ大きい方を渡し、自分の方を布に包む。
「それでも、あなたも少し眠れたのでしょう。ウィラが牢ではないと聞いて」
「はい。そこには入れないでくれと、私も思っておりました」
「では、どうすれば」
「私には分かりません」
返事が強かった。アッタは口を閉じた。言い直さず、包んだパンを荷袋へ入れる。
「弟に、届けてきます。陛下がどうなさればよかったかは、私に決めさせないでください」
私は手にしたパンを見た。答えの出ない話を、またこの人の前に積んでいる。
「行って。戻ったら、一緒に食べて」
「はい」
戸が開き、閉じた。追いかけかけて、やめた。食べかけのパンを布で包んだ。ウィラを放したオットーなら、自分が何を考えていたか答えられる。外套を取り、皇帝の部屋へ向かった。
*
オットーは腰帯を外しかけていた。私の顔を見ると、手を止めた。
「ウィラだな」
「知っているの」
「私のところに先に報告が来る」
当たり前のことが腹立たしかった。挨拶もせず、「あなたは間違えました」と言った。
「ウィラを放したことか」
「ええ。今なら牢に入れろと言えます」
オットーは腰帯を椅子の背に掛けた。
「釈放の報せに、安心しただろう」
「誰から聞いたの」
「お前の顔を見れば分かる」
また見抜かれた。私は向かいの椅子の背をつかんだまま立った。
「なぜ放したのです」
「夫を降らせると思った。島も兵も失った。妻なら、残るものまで失う前に止めると」
「妻だから夫のもとへ行ったのです」
「分かっている。今はな」
背に置いた手に力が入った。
「悔いているの」
「読み違えたことならな」
「放したこと自体は」
オットーは答えなかった。私は椅子を引いて座った。
「次に捕らえたら、牢に入れて」
「今夜のお前は、そう願うのだな」
「約束して」
「しない」
拒絶が早すぎて、胸が詰まる。
「次に何が起きているかも分からぬ。今夜のお前の恐れで、その日の処置まで縛らせるな」
「私が牢にいたことを知っていても」
「知っているからだ。お前は牢を出たあと、何をした」
「あなたのところへ来た」
「私に降れと、亡夫の敵に従えと、皆を説いたか」
言い返せなかった。私が聞きたかったことを、先に聞かれた。
「ロターリオが生きていて、私に追われていたなら、お前は誰のもとへ行った」
「ロターリオのもとへ」
「私に降るなと説いたか」
「ええ」
「何人死ぬか分からなくても」
今度は返事が遅れた。知らない兵の顔を思い浮かべようとしたが、最初に浮かぶのはロターリオだった。あの人のためなら、数を尋ねずに降るなと言っただろう。
「……それでも、行ったと思います」
ウィラを責めるために来たのに、同じ答えを自分の口で言っている。オットーは目を伏せた。椅子の背に掛けた腰帯の金具を、親指で一度押す。口元は少しも緩まなかった。
「だから正しいとは言いません。私も、ウィラも」
「正しさで放したのではない。降ると読んで外した。読み違えた」
「牢に入れればよかったとは、やはり言わないのね」
「言えば、お前は楽になるか」
「少し」
オットーは答えず、腰帯の金具から指を離した。腹が立った。夫が欲しい慰めを安易に口にしなかったことには、少しだけ安心もした。
「では、一つだけ。次に誰かの身柄を決める時、決めた後で私に言わないで。決める前に呼んで」
「呼べば、お前は反対する」
「反対します。決めるのはあなたです」
オットーは腰帯を椅子から取り、畳みもせずに寝台へ投げた。
「呼ぶ」
「忘れないで」
「忘れれば、お前が来るだろう」
「ええ。来ます」
それだけで眠れるわけではない。眠れないまま、私は座り直した。オットーも疲れた顔で椅子に落ちる。
「今夜は、二人とも眠れないな」
「アッタもです」
「三人か。ウィラは眠ると思うか」
「さあ。あなたより、寝つきがよいと腹が立ちます」
灯芯が小さくはぜた。二人とも次の処置を決めず、その音が消えるまで座っていた。
*
その問いを置いたまま、降誕祭が過ぎ、年が改まった。
戦が終わったとの知らせは来ない。
西から帰った使いが、マルティンの手紙を運んだ。ベルノが以前暮らした村には、確かに女の子がいた。アニェスと呼ばれ、洗い物を手伝っていた。村の者が答えなかったのは、王の使いには家族のことを話すなと、ベルノに頼まれていたからだった。
書状の続きには、家を移った先を捜しているとあった。私の名を聞いた村人の一人は、子どもまで兵に取られるのかと訊いたそうだ。
「兵は送りません。会いたいだけです」
返事を口授し、私は止まった。会ったら返してと言われれば、返せるのか。相手の家へ戻ると娘に言われたら、そのまま行かせるのか。
「いまのところまで。続きを、少し待って」
書記を待たせ、窓の外を見た。結局、その日は先が書けなかった。翌朝、子どもを捜し当てた時には本人の様子も知らせてほしいと書き足し、便りを出した。
もう1つ、気になっているものがあった。ローマからの便りだ。冠を受けた都から季節ごとに来る祝いの句が、便りのたびに減っていた。書き手は替わらないのに、文だけが短くなる。
オットーに言った。「ローマが冷えています」
「ヨハネスか」
「分かりません。分からないから、気になるの」
「戦の最中だ。ローマまでは手が回らぬ」
彼の言うとおりではあった。ベレンガーはまだ降らず、兵とパンは今日も要る。私は次の便りを待った。
ある日、戸を叩く拳が返事を待たず二度目を打った。ローマから来た男が、息を切らして立っている。
「教皇ヨハネスが、アダルベルトを呼び寄せました。皇帝に抗するなら、力を貸すと誓ったそうです」
態度が冷えていることには気づいていた。それでも、アダルベルトの名までは考えなかった。
「私たちに冠を授けた、あの教皇が」
「同じ方です」
「陛下は、もうお聞きに」
「まだ、どなたにも。皇后さまが知らせを集めておいでだと伺いましたので、こちらへ先に」
男は褒められると思ったらしい。褒めなかった。私の見当は、この形で当たってほしくなかった。
「来なさい。あなたも一緒に。私の口だけでは足りません」
史実メモ:近い年代記は、捕らえられたウィラが皇帝オットーの寛容によって釈放され、行き先を許されたと伝えます。彼女は夫ベレンガーへ合流し、降伏しないよう勧めました。アーデルハイトの助命、面会、条件交渉は不明で、本話の夫婦の私話と、決める前に呼ぶという約束は創作です。




