第59話 島の中の、もう一人の王妃
幕間――サン・ジュリオ島
朝の祈りが終わる前に、石が壁を打った。欠片が床を跳ね、ウィラの裾を裂く。続いて矢が戸板に刺さった。
「王妃さま、内へ」
呼んだ男の額から血が流れていた。ウィラは裂けた裾を一度見て、そのままにした。
「あなたが先に入りなさい。血を拭いて」
「私は扉を閉めます。あなたが入ってからです」
「では閉めて。私はここにいます」
男は動かない。別の壁で石が砕け、女の声が彼女を呼ぶ。少し置いて、また別の者が「王妃さま」と叫んだ。
「聞こえています。何度も呼ばなくてよい」
そう答えても、静けさが来るたび誰かが名を呼んだ。ウィラはそのたび、同じ場所から返事をした。
*
「逃げ道は、すべて塞ぎました」
島から戻った男は、水も飲まずに報告した。投石兵と弓兵が出て、そのほかの攻め具も毎日使われている。だが島は落ちていない。
私は書記を下がらせた。
「ウィラは、まだそこに」
「おります」
「負傷は。誰か見た」
「分かりません。壁の中です」
「食べているの。水は」
「そこまでは。私は包囲の外におりました」
男の答えが短くなっていく。彼が見てきたのは包囲する側で、壁の内側ではない。分かっていて、口が止まらなかった。
彼は肩の荷紐を握り直した。指の付け根が擦れて赤い。
「私は湖の東で馬を替えて、そのまま参りました。中のことは、中にいる者しか申せません」
「あなたの隊は、どれだけ残っているの」
「兄が石を運んでおります。それだけは分かります」
それだけは分かる、と彼は二度言った。自分が答えられることの縁を、指で押さえるように確かめている。
「もし島が落ちたら、ウィラを閉じた戸の中へ一人で置かないで。女を一人、そばに」
男は困った顔をした。
「私には、命じることができません」
「陛下には私から頼みます。あなたは食事をして、休んでください。長く引き止めました」
その夜、同じことをオットーにも言った。夫は私が握っていた杯を取り上げた。縁が掌へ食い込み、赤い輪になっていた。
「捕らえる前から、その後を約束はできぬ」
「分かっています」
「分かっていない手だ」
指を開かされると、掌に汗が溜まっていた。
「生きて私の前へ連れてこいとは命じている。その先は、その時に決める」
慰めには足りなかった。けれど、分かるふりをされるよりよかった。
*
その後も報告は届いた。壁の傷、負傷した兵、湖を渡る石。運ぶ者が替わっても、最後は同じだった。
「ウィラは島におります」
アッタは二度、その問答が始まると部屋を出た。三度目には戸口に残り、報告者が去るのを待ってから言った。
「今日も、水の残りをお尋ねになりましたね」
「心配しているように見える」
「水の残りまでお聞きになれば、そう見えます」
「違うの」
「では、何です」
言わずに済ませようとして、やめた。この人には、済ませられない。
「塔で、私は水差しの残りを数えていました。数えているうちは、まだ明日があることになる」
「存じております。私も同じ部屋におりました」
「あの島にも、数えている者がいます」
「ウィラ王妃ですか」
私は首を振った。振ってから、自分が何を言おうとしているのか分かった。
「エンマも、どこかで何かを数えているかもしれない。水でも、パンでも」
アッタは水差しを卓へ強く置いた。中の水が縁まで上がって、戻る。
「使いが来るたび、食事もせずにお立ちになります。あの男は島の中を見ていないと、昨日も言いました」
「分かっている」
「私を呼んでください。昔の部屋なら、私も覚えています。知らない者へ訊き続けるよりは」
私は水差しを見た。怒ったアッタの手が、まだそこに載っていた。
アッタは謝らなかった。私も引かなかった。彼女は水差しを持って出ていき、すぐ戻ってきた。中は縁まで満たされている。何も言わずに卓へ置き、それから寝台の掛布を直しに行った。怒っている時ほど、この人の仕事は増える。
「今夜は、湯を多めに沸かします」
「いりません」
「私が使います」
寝台へ背を向けたまま、アッタが付け足した。
「マルティンさまは、西へお発ちになりました。ベルノという者を、直接捜すそうです」
「村からは」
「そこを出たと。兄妹二人で暮らしていた家だと教えられたそうです」
「女の子は」
「いなかったと、訊かれた者は答えたそうです」
私は杯を置いた。いないのか、いなかったことにしたのか。また、会ったこともない人の顔を考えながら待つのだ。
*
北へ送った手紙の返事が来たのも、この頃だった。息子は、僕の冠も重かった、と書かせていた。ミロの熱は下がったかと訊き、最後に、母上はいつ帰るのですか、とあった。
私はミロが起きて馬を世話していることを書いた。帰る日は決まらないままだった。後からアッタが、弟は食べすぎて叱られた、と一行足すよう頼んだ。息子がそこを読んで笑う顔を、二人で思い浮かべた。
オットーも湖へ向かった。満二か月に届かないうちに、報告の最後が変わった。
「島を取りました。ウィラも捕らえました」
部屋の者から息が漏れた。十字を切る者がいて、書記は肩の力を抜いた。これで攻撃も、湖へ急ぐ馬も要らなくなる。その安堵は私の胸にもあった。
けれど「捕らえた」と聞いた途端、足もとが頼りなくなった。靴の下には平らな石があり、戸も開いている。それでも、塔の閂の音が耳に戻った。
「生きていますか」
「捕らえた時には」
「そのあとは」
「私はすぐ発ちました。どこへ移したか、何を与えたかまでは聞いておりません」
男が急いで運んだのは陥落の知らせだけだ。その夜のことは、誰も確かめていない。
戸の外で、誰かが閂を動かした。別の部屋を閉めただけだと分かっていても、喉が詰まる。アッタが戸を開け放ち、廊下の冷気を入れた。
「今夜だけです」
「ええ」
開いた戸の向こうで人が行き来する。私はそこで、次の知らせを待った。
*
勝報より遅れて、別の男が来た。衣も靴も乾き、馬の汗だけが肩に残っている。
「皇帝陛下はウィラを解き放ちました。望む場所へ行ってよいと」
「牢には。どこへ移したの」
「入れておりません。行き先までは聞いていません」
息を吐いた。安堵が先に来た。そのあとで、次にウィラがどこへ向かうかを考えた。
「自分で選んだのですか」
「望む場所へ行ってよいと。どこを選んだかは、次の知らせになるでしょう」
「待たなくても分かります」
男が顔を上げた。アッタも私を見る。
「夫のもとへ行きます。それも、急いで」
「降らせるために、ですか」
この人は、妻を放せば夫が降ると思っている。皇帝も、たぶん同じことを思った。
「私なら、夫を見つけるまで止まりません。あの人も、そうすると思います。会った途端に何を言うかまでは、知りません」
それに、あの人が私を憎むのに、新しい理由は要らない。ウィラの家では、私の継父が帯を隠したと疑い、彼女の母の衣を人前で剥いでブルグントへ追った、と語られている。どこまで見た話かは分からない。私が15で嫁いだ先では、それが家の記憶だった。
「また敵になります」アッタが言った。
「ええ」
「それでも安心なさった」
「ええ」
否定しなかった。両足は、もう床を探していない。
男が下がろうとする。私は呼び止めた。
「行き先が分かりしだい、また知らせて。私の命令です」
男が礼をして出ていく。アッタが戸を開け、閉めずに待った。
「もう一つ。ウィラが夫の前で最初に何と言ったか、自分の耳で聞いた者がいたら教えて」
「想像なさっているのでしょう」
「ええ。だから、外れたか知りたいの」
アッタは戸を閉めなかった。開いたままの向こうを、次の使者が走ってきた。
史実メモ:962年春から夏、ウィラはサン・ジュリオ島で湖上の出口を断たれ、連日の投石兵、弓兵、その他の戦具による満二か月未満の包囲後に捕らえられたと伝わります。大型投石器などの具体機構は分かりません。7月29日のD243は、その日までに島が制圧済みだったことを示すだけで、陥落日や王庫の存在は確定しません。




