第58話 文書を離さない人
その男は、朗読のあいだじゅう帽子を握り潰していた。
コンスタンツから来たブルクハルトという使いだった。書記がブライスガウの三所を、司教コンラートが生きている間は彼に、その後は参事会の食と衣のために、と読む。ブルクハルトも私も、その土地を見たことがない。
「食べるのは何人です」
「今は19人です」
「司教が亡くなった後も、同じ人たちが?」
「入れ替わりはございます。食事を切らさぬための所領です」
書記が、収穫の納め先を指で示した。私はブルクハルトに、冬の道が塞がれる時も運べるかと訊いた。男はその話になると、ようやく帽子を膝へ置いた。
夫は書記に続けるよう命じた。朗読が終わると、ブルクハルトが潰れた帽子を開いた。
「冬の道をご存じなのですか」
「その土地の道は知りません。届くはずの荷が来ないのを待ったことは、あります」
男は頷き、帽子の皺を伸ばして礼をした。
*
3月、ルッカ。
読まれた文書に、先王ウーゴとロターリオの名があった。書記の声が、亡夫のところで遅くなる。オットーもこちらを見た。私は、何か言われるのを待った。
「何だ」夫が先に尋ねた。
「何も言わないのね」
「ロターリオの名を削れと」
「そんなことを言ったら、怒ります」
「なら、怒らずに済んだ」
私は夫の横顔を見た。
「もう、死んだ人に嫉妬しないの」
「する時もある。今日は文書が長すぎる」
「それだけ」
「お前が今ここにいて、私に喧嘩を売っている。それで足りる」
11年前なら、これで喧嘩が始まった。今は書記が咳払いをして、二人とも前を向く。ロターリオが与えたものは、死者の名ごと、新しい皇帝の確認の中に残った。少し物足りない。そう感じる自分がおかしくて、笑いをこらえた。
オットーが出ていったあと、アッタが戸口に立った。手には封の切れた便りを持っている。
「ブルグントから、返事が届きました。聖モーリスの近くで、ベルノと商いをした者が見つかったそうです」
「近く、とは」
「谷を上った先の、渡し場のある村です。まだそこにいるかは、確かめる人をやると」
私は椅子から立った。胸の中で先に歩き出したものに、身体が追いつかない。
「女の子は」
「その商人は、会っていません。妹と住んでいたことは知っているそうですが」
私はアッタから手紙を受け取った。折り目のところに封があり、幾人もの手で擦れた端が柔らかくなっている。村の名を何度も読み、マルティンにも写しを送らせた。
同じ便りには、乳母グレータのこともあった。パヴィア郊外の親類の家で病人を看取り、自分も熱を出して、九年前に死んでいた。墓を知る司祭の名まで書いてあった。
「グレータは、私に便りを」
「それは、書かれておりません」
娘をどこへ連れていったか、会えば怒鳴るつもりだった。熱を出して死ぬ時、あの人は私を恐れていたのだろうか。娘の名を呼んだだろうか。手紙を裏返しても、もう続きはなかった。
「墓に灯を。マルティンへ頼んで」
アッタが頷く。私は村の名のある方へ紙を返し、膝の上に置いた。
*
4月、パヴィア。
レーノ修道院長ドンニヌスは、戸口に立たされていた。両腕に古い文書の束。革紐が衣に食い込み、上の一枚が斜めにずれている。
「いつから、ここに」
「朝の鐘より前です。水を飲めば持ち替えることになるので、断りました」
唇が乾き、両腕は小刻みに震えている。それでも束を床に置かない。誰かが近づくたび、胸に抱き直した。
「私に渡してください」
手を出すと、ドンニヌスは束を抱き込んだ。
「渡せません」
「私を通して皇帝へ持ってきたのでしょう」
「あなたに差し上げるためではありません。私が皇帝の前へ持参したと残るためです」
なおも端に触れると、一歩退く。乾いた革紐が鳴り、二人同時に手が止まった。
「落としますよ。腕が震えている」
「ですから、引かないでください。水ならあとで飲みます」
戸を守る男が咳払いをした。
「文書はこちらでお預かりします。修道院長は、用向きを確かめるまでここでお待ちを」
「待ちません。もう十分待ちました」
束だけを先に入れれば、この人はまた戸口に残される。朝から手放さなかったのは、そのためだ。
「私も待たせません」
束から手を離し、戸口の男へ向き直った。
「本人が持ったまま通します」
「先に要点を」
「証書を確かめてほしいと。私が取り次ぎます。そう伝えて」
男は戸惑ったまま、内側へ伺いを立てた。しばらくして留め金が外れる。私は戸を押さえ、道を空けた。
「どうぞ。今度は私から奪われないように」
「あなたが奪おうとしたのです」
「覚えています」
オットーは入ってきた二人を見て、腰を浮かせかけた。
「また文書か」
「今度は、文書を離さない人も一緒です」
ドンニヌスは自分の手で束を卓に置いた。先の皇帝と王たちから受けた所領、免除、守ってきた務め。書記より先に、自分の声で話しはじめる。
「お前が説明するのではないのか」オットーが私に尋ねた。
「私が話すと、この方が怒ります」
「足りないからです」
ドンニヌスは皇帝へ顔を向けた。
「私の次の修道院長は、兄弟たちが自分たちの中から選びます。それを、次の者にも残していただきたい」
「次もお前が決めるのではないのか」
「私を嫌う者が選ばれるかもしれません。それでも、私が決めるよりましです」
オットーの眉が上がった。笑いそうになったが、ドンニヌスは本気だった。すべてを聞くと、皇帝は文書束に手を置いた。
「調べさせる。そのあとで答える」
修道院長は即答を求めず、両手を束から離した。震えていた腕を、ゆっくり下ろす。退出の時に水を受け取り、「次も私が来るとは限りません」と言った。
パヴィアには、燃やす紙もあった。
夫の名で認められた勅書のうち、数通が騙し取られた偽物だと分かった。署名は本物で、中身が偽物の紙だ。守れば、夫の名ごと嘘になる。
「燃やしてください」と私は願った。「皆の前で。黙って消せば、作った者が次を作ります」
オットーは諸侯と司教を集め、その数通を火にかけさせた。書記の声が、皇后の執奏により、と読み上げる。
夫の印のある羊皮紙が丸まり、黒くなった。目録の土地を自分で見たことがない私は、見事に書かれた一通を手渡されれば、また信じるかもしれなかった。残された写しには、無効とされた理由と、その日が書き添えられた。
*
7日後、レーノからは別の者が来た。若い修道士で、ドンニヌスの名を出すと「院長は動けません」とだけ答えた。それ以上は言わない。私も訊かなかった。文言は整い、次の長を兄弟たちが選ぶことは残った。
その男が下がった直後、旅埃をつけた別の男が通された。
「オルタの湖にある島を攻めています。石を投げる者も、弓兵も出ています」
「島にいるのは誰です」
「王妃ウィラです」
男は息を整えた。
「まだ降りません。今日もです」
史実メモ:962年春のD236〜241には、アーデルハイトの請願・取次と皇后称号が現れます。対象はコンスタンツ、ルッカ、レーノ、パヴィアの教会で、院長選挙も確認されました。4月の2件を一つにまとめたのは本作の整理です。偽勅書を諸侯の前で焼かせた件は、後代の修道院年代記が皇后の執奏と伝える話で、細部は再構成です。
各案件の読み合わせや取次ぎの会話、使いの人数、乳母の消息と娘の捜索は創作です。




