第57話 六歳の王が知らない紙
卓に載りきらない長さの紙だった。端は卓から垂れ、書記が下へ腰掛けを寄せて支えている。
私は垂れた側から名を拾っていった。皇帝オットー。その次に、もう一つ。
北に置いてきた6歳の息子の名だった。
「あの子は、これを知っているのですか」
書記が皇帝を見る。オットーは手もとから目を上げ、「知らない」と答えた。羽根を止めもしない。
「知らない約束に、なぜ名があるの。本人が聞けば、何と答えるの」
「私の後を継ぐ王だ。教皇に認める土地も、その後まで守ると約束する。私が決めた」
「6歳です。まだ外套の袖も自分で直せない」
「成人するまで、国を空けてはおけない」
私は椅子を引いた。脚が床を鳴らし、書記の肩が跳ねる。オットーだけは驚かなかった。この人は、物が倒れる音では動かない。
「あの子は、王になれば私を北に残せると思っていました。王の名があれば何でも決められると。ほんとうは、自分の名がどこで使われるかも知らない」
「お前も、あれが王など要らないと叫ぶのを聞いて、それでも南へ来た。自分だけ子の側に立つな」
言い返せなかった。息子が投げた継ぎ袖の外套を、私は拾い直して北へ残した。あの朝のことは、まだ順番どおりに思い出せない。
「だから、あなたも使ってよいのですか。私の失敗を口実にしないで」
「よいとは言っていない。必要だと言っている」
「本人には。いつ話すの」
「戻ってから話す。私の口で」
「戻る前に、皆が知ります。あの子はまた廊下で聞く」
オットーの指が、父子の名の並ぶ箇所を押さえた。書記は二人の間で視線を往復させ、読むべきか席を外すべきか決めかねている。羽根を握り直しては、また卓へ置いた。
「続けてください」私は言った。「何にあの子の名を使ったのか、私もまだ知らない」
*
読み上げは長かった。ローマ周辺の町、海へ出る港、ラヴェンナとその先。教皇を選ぶ手順や、訴えの届け先。知らないことを、聞きながら順に覚えた。覚えた端から、どれが息子の名で守られ、どれが息子の名で奪われうるのかを並べ直した。
証人の名が並ぶ区画で、書記の声が速くなる。私はその速さの中に、あるはずのない名を待っていた。待っていると気づいて、やめた。
書記の指が1行飛んだ時だけ、紙面と声がずれた。
「戻って。港のくだりが飛びました」
書記の耳が赤くなり、声が2行戻る。オットーが一度だけこちらを見た。私が何を探しながら聞いているのか、この人には見当がついている。
最後まで読み終えると、書記は疲れた声で日付を告げた。
私の名は、一度も現れなかった。
「少し外してくれ。妻と喧嘩をする」
オットーが命じた。書記は安堵を隠さず、杯を持って戸へ急いだ。戸が閉じるなり、彼は言った。
「息子を盾にしたな」
「何ですって」
「腹が立ったのは、お前の名がないからだ。先に息子を出せば、正しい母の顔で怒れる」
当たっていた。腹の底が熱くなり、私は足もとの腰掛けを蹴った。横倒しになったが、オットーは起こさない。
戴冠から11日。
「ええ、探しました。あなたとあの子の名の次に、私の名が来ると思った。11日しかもたないのね」
「戴冠から外した文書ではない」
「そんなことは分かっています。それでも腹が立つ」
「入れろと。今からでも」
「入れて。私も皇后です」
言ってから、卓を横切る文面を見直した。町の半分も知らない。教皇を選ぶ手順も、訴えの道も、今日初めて聞いた。自分が何の上に名を置けと言ったのか、指で追っても分からなかった。
「……今のは待って。まだ決めないで」
「もう聞いた。書記も廊下にいる」
「少し待ってください。腹を立てているのです」
「見れば分かる」
息子に言った言葉が、そのまま返ってきた。私は倒れた腰掛けを起こし、今度は静かに座った。
「載ると思っていました。何日もこの話を進めていたのに、私は出来上がるまで知らなかった」
「別の願いは、お前から聞いている」
「聞いてほしい時だけではないわ。決まる前に、私もそこにいたい」
オットーは返さず、父子の名を指でなぞった。爪の先が、息子の名の上で一度止まる。やがて手を離した。
「あれには、今日知らせる。言い訳もせぬ」
「今日、知らせるの」
「皆が知る前には間に合わぬかもしれん。それでも、私から書く」
*
書記が戻ると、オットーは小さな一枚を用意させた。
「若い王オットーへ。私はローマで、教皇の土地を守ると約束した。私の後もお前が守ると書いた」
そこで止まり、私を見る。
「次は何だ」
「私に聞かないで。あなたの謝罪でしょう」
オットーは嫌そうな顔をして続けた。「お前に話す前に使った。怒るなら、私が戻ってから怒れ」
「それでは命令です」
「では、今怒ってもよい」
「遠すぎて聞こえません」
オットーは書記を睨み、それから言い直した。
「お前の母は、先に知らせなかったことで私に怒鳴った。お前も、怒ってよい」
その一文は、削らせなかった。最後に自分の言葉を足す。
「母も冠を被りました。重くて、終わったあと首を曲げられませんでした。あなたの冠もそうでしたか。こちらではミロが熱を出し、アッタに叱られながら寝ています。あなたが元気か、手紙を待っています」
蝋を垂らして封をする間に、運ぶ男が入ってきた。膝に泥をつけたまま、戸口で足を止める。旅装のまま呼ばれたらしく、片方の手袋がまだ半分外れていた。
「北へ。若い王のお手もとまで、ほかの誰にも開けさせないで」
「承知しました」
男は蝋の封を見て、それから私を見た。
「……あの、お尋ねしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「もし、若い王が『母上はいつ帰るのか』とお尋ねになりましたら、何と」
書記が羽根を止めた。オットーは黙っている。
「まだ決まらないと。私も毎晩、あの子のことを話していると伝えて」
「はい」
「帰りの便には、返事を。書き終わるまで待っていてください」
男は礼をして、便りを懐へ入れた。半分外れた手袋を引き抜き、今度は袖へ挟んで廊下へ出た。
私は、その問いを娘の声で聞いたことがない。エンマが3歳の時、私にはまだ帰る家があった。あの子が誰かに同じことを訊いたとしても、その声は私まで来ない。
使者の背が廊下の角で消えるまで見た。返事は来ないかもしれない。来ても「母上はいつ帰るの」の一行かもしれない。その一行に、私はまだ何も足せない。
*
8日後、別の文言が読まれた。
「愛する妃、常にアウグスタであるアーデルハイトの求めにより――」
「もう一度。今のところを」
書記が読み直す。悔しいほど、胸が軽くなった。
「名だけでは喜ばぬのではなかったか」オットーが横から言う。
「あれは嘘でした」
「どちらが」
「両方です。名も欲しい。中身も欲しい」
書記が次の行で待っている。私は垂れた端を持ち上げ、今度は上から順に読ませた。コンスタンツの司教に与える三か所の土地について、書記は読み始めた。土地から上がるもので誰が暮らすのかを、私は尋ねた。
卓の向こうに、帽子を握った男が座っていた。質問が自分へ向いたと気づくまで、少しかかった。
史実メモ:戴冠11日後、962年2月13日のD235は、皇帝オットーが幼い息子オットーとともに約束する形で始まり、教皇領、選挙、使節などを扱います。幼王の同席や署名は示さず、皇后名がないことも排除や侮辱の証拠ではありません。
皇帝夫妻の争いと、幼い息子に知らせる私信は創作です。




