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王妃の値段  作者: megu
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第56話 ただいま、皇后さま

「お詫びは、歩きながらになさってください。遅れます」


 戴冠の朝、私は詫びる時間まで他人に決められた。


 女は私の裾を両手で抱えて、半歩後ろを歩いている。手首の布は、昨夜より厚く巻き直されていた。


「名を聞いていなかったわ」

「今朝、それが要りますか」

「昨日、私はあなたの名も知らずに、その手首をつかんだ」


 女は歩みを緩めない。「式が済んでも覚えていたら、その時にお尋ねください」


 忘れると思われている。言い返せなかった。昨日まで、私はこの人の名を知ろうともしなかった。


 石畳はまだ夜の色をしていた。門の方角で人の声がする。アッタは今ごろ、白い杖の男の前に立っている。


「まだ呼びにやれます」女が言った。

「呼びません。参ります」


 振り返りそうになった。裾を持つ女の手首が目に入り、前へ戻す。


*


 旧サン・ピエトロの入口には、人が幾重にも立っていた。柱の列は奥へ行くほど暗く、灯と白い息がその間を動く。歌は天井へ上がらず、石と人の身体に当たって戻ってくる。


 入口で止められた。女が裾を床へ下ろし、後ろへ退く。誰の手も借りないまま、堂内から名が呼ばれた。


 アーデルハイト。


 ローマの門で、あれほど欲しがっても聞こえなかった名だ。たったひと声で、膝から力が抜けそうになる。


「ここにおります」


 声が柱の間に響いた。知らない顔がいくつもこちらを向く。名を呼んだ者が先へ進むよう手を上げ、私は自分で裾を踏まない幅で足を出した。


 敷居を越えたところで、遠くにオットーを見つけた。大勢の中で、今朝は夫である前に、皇帝となる男の顔をしていた。視線に気づくと眉がわずかに動き、足を半歩ずらして、立つ場所を1つ空ける。


「来たな。遅いぞ」隣に並ぶと、前を向いたまま言う。

「来なければ、あなた一人で2つ被るところでしたね」

「首が折れる。アッタは」

「門です。弟が熱を出して、ほかの荷番と一緒に残りました」

「お前も昨日、門で負けていたな」


 手綱の話だ。睨むと、口もとが少し動いた。


*


 石は、思っていたより冷たかった。


 王装は重い。これだけの布を着ていても、膝をついた瞬間、床の冷たさが布を抜けて膝へ来た。湖の砦の床も、この冷たさだった。あの時は寝藁があった。今日は何もない。


 顔を上げると、柱の間に並ぶ顔が見えた。去年まで別の王の名を書いていた手が、イタリアから来ている。そのうちの一人が私と目を合わせ、先に頭を下げた。


 マルティンはパヴィアで、この日を迎えている。アッタは門の外だ。足が痛くても立ち上がれない夜、同じ冷たさを分け合った者の姿は、柱の間に見つからなかった。


 誰かの指が、自分では見えない位置に触れた。油の匂いが、香の中で1つだけ濃くなる。


 オットーの側は人の肩に隠れて見えない。私の側は、私の側の順で進んだ。


 人々の肩の間を、冠が捧げ持たれて近づいてくる。縁の丸みと、持つ者の手の位置。目でそれを追った。後ろから来るものは、先に正面で見ておく。昨夜、折れた櫛で覚えた手順だ。


 額に重みが下りた。


 想像していたより重かった。首が短くなった気がする。肩は動かさなかった。跳ねたのは、結われた髪が1筋引かれた時だけだ。背後の女は冠に触れず、絡んだ髪を爪の先で外した。


 歌が変わった。長い節の途中で、私の名が入る。アーデルハイト。次にオットーの名。2つが同じ息の中に並び、石に当たって戻ってきた。


 名の前に、称号が読まれていた。国を分かち持つ者。同じ言葉を、前の夫も、死ぬ年の文書に入れてくれた。あの時は、読み上げる声のない、紙の上だけの言葉だった。


 差し出された笏を受けると、先が石に当たった。乾いた音がした。


 湖のほとりで指輪を外した日、金の輪は私が男の掌へ置いた。あの時、私の手には何もなかった。今は笏が掌にあり、頭には冠がある。


 最初に思ったのは、エンマに見せたい、ではなかった。


 ベレンガーに見せたい。


 塔に閉じ込め、未亡人と呼ばせた男の前に立って、よく見ろと言いたかった。皇后になった私を、あの男に見せたかった。


 そう思ったあとで、ようやく娘が浮かんだ。


 今のエンマの顔が、分からない。


 最後に見た日の小さな手なら覚えている。熱いパンに一度触れて指を引き、それでも白い中身をつかんだ手だ。その指が今どれだけ伸びたのかを、私に教えた者はいない。もしこの柱の間にあの子が立っていても、母のほうが先に見つけられるだろうか。


 ハインリヒの顔なら、はっきり覚えている。あの子はもう、変わらないから。


 視界が滲んだ。


 人々の向こうで、オットーがこちらを見た。皇帝の顔がほどけ、夫の笑い方が一瞬だけ戻る。口が、私の名の形に動いた。私は「オットー」と唇だけを動かした。涙は拭かなかった。冠が動くのが怖い。


*


 祈りが終わっても、笏を放せなかった。


 昨夜の女が両手を差し出している。返さなければならないのに、指は柄に食い込み、開こうとするほど強く閉じた。


「引いて。早く」

「引けば、あなたの指を傷めます」

「もう傷んでいます」

「では、なおさら待ちます」


 女は赤い手首を隠さなかった。「昨日、待てなかったのはあなたでしょう」


 息を詰め、それから笑った。「そうでした」


 少し離れて、オットーの冠が持ち上げられた。彼は目を閉じ、首を片側へ傾け、ひどく痛そうな顔をする。


「皇帝も痛むのですね」

「お前は何を期待していた」オットーが額の跡を指でなぞった。「冠を載せれば、首まで強くなると」

「少しは。期待しました」


「名は聞こえたか」

「門で聞けなかった分まで」

「私が呼んだ声は消えた」


 私は自分の唇に触れた。「見えました。口が動いていたでしょう?」


「では、聞こえたことにしろ」

「嫌です。聞こえなかったものは、聞こえません」


 オットーは一瞬黙り、やがて私の右手を見た。


「そちらは」

「指が開きません」

「小指からだ。いっぺんに離すな」


 夫が自分の指を一本ずつ伸ばして見せた。その手を睨み、小指から順に柄を離す。女は急かさず、笏の重さを下から受けた。


 最後の指が離れると、掌に赤い筋が残った。笏も冠も、別の手へ移った。それでも戸の向こうでは、皇帝と皇后を待つ声がしている。


 私は空になった手を開いたまま、オットーと並んで歩いた。


*


 宿所への道端に、髪に藁をつけ、片袖を裂いたアッタがいた。荷車の脇で、荷を降ろす男たちの間に立っている。


「入ったの」

「人も荷も、全部。ミロは車に乗せました。馬の名を呼ぶので、寝ろと叱りながら」


 私は列を外れて近づいた。アッタは、冠の消えた額と泣いた目を見た。


「袖は」

「車の金具に引っ掛けました。弟を抱き上げる時に。熱は少し下がっています」


 アッタは皆の前で膝を折り、土に裾をつけて頭を下げた。


「お帰りなさいませ、皇后さま」


 私は右手を差し出した。


「立ちなさい。私が命じます」


 アッタは笏の跡を避け、私の手首を支えにして立った。


「誰に、そう呼べと言われたの」

「誰にも言われておりません。私が決めました」

「見られなかったのに」

「声はここまで届きました。皇后さまのお名も聞こえました」


 笏の跡が残る右手で、アッタの裂けた袖をつかんだ。


*


 宿所で、女が王装の留め具を外した。肩から重さが抜けた途端、身体が前へつんのめる。戸のそばで、アッタが荷袋を下ろした。


「名を教えて」


 女の手が止まった。


「式は、お済みですか」

「済みました」

「……ステファニアと申します」

「ステファニア」

「はい」

「折れた櫛の代と、今日までの手間賃を、お払いします」

「それは、手配した者から」

「その分とは別に。私が壊した物ですから」


 ステファニアはアッタを見た。アッタが頷くと、櫛を一本、籠から出した。値を訊き、言われた額を渡してもらった。


 女は王装を畳んで抱え、私の髪から留め針を抜いていった。1本ずつ、昨日と同じ手つきで。抜き終えると折れた櫛を籠へ入れ、戸口で一度だけ振り返った。


「手首は、明日には引きます」


 訊く前に答えられた。戸が閉まる。


 2人きりになってから、私は言った。


「2人きりの時は、膝をつかないで。これは命令よ」

「承知しました」

「ミロには、もう会えますか」

「眠っております。起こさずにおいてくだされば」


 私は頷いた。戴冠の話を聞かせる相手が、眠っているくらいでよかった。少なくとも、明日には起きる。そう思ってから、ハインリヒの寝台で同じことを思った夜が胸をかすめた。


「目を覚ましたら、教えて」


 それからアッタは私の右手を取り、掌を上に向けた。


「馬に噛まれたような跡です。何をそこまで強くお握りになったのですか」

「笏よ」

「また鉄ですか」

「鉄ではないかもしれないわ」

「では、何だったのです」

「見ている余裕がなかった」


 アッタは掌の赤い筋を押さえた。「お変わりありませんね」


「そうみたい」


 涙が、アッタの指に落ちた。


「言い直しましょうか」

「いいえ」


 アッタは手を放さなかった。私も引かなかった。


「ただいま」


史実メモ:近い複数史料は、962年2月2日にアーデルハイトがオットーとともに帝国の祝福・戴冠を受けたと伝えます。フロツヴィタは笏・ディアデマ・王装も描きますが、その形、材質、塗油箇所、行進・座席順、祈祷全文は不明です。舞台は現在の建物より前の旧サン・ピエトロ大聖堂です。


具体的な称号の朗読、夫婦の応酬、侍女との再会、髪結いへの支払いは本作の場面化です。


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