第55話 折れた櫛
櫛の歯が、首筋に触れた。
気づいた時には椅子が倒れていて、私は女の手首をつかみ、壁際まで押していた。考えは後から追いついた。髪。支度。明日は戴冠で、この人は髪を結いに来た人だ。
床に留め針が散っていた。倒れた椅子の脚に、女の持ってきた籠が引っかかっている。部屋で大きいのは、私の息だけだった。
「お放しください」
女は叫ばなかった。青ざめた顔で、握られた自分の手を見ている。床には櫛が落ち、歯が1本折れていた。
アッタが2人の間に身体を入れた。
「王妃さま、手をお放しください」
その声で、ようやく指が開いた。女の手首に白い跡が残り、すぐ赤く浮く。
「後ろへ来るとは聞いていなかった」
「髪を結う者は、後ろに立ちます」
女は震える手を袖に隠した。
「明朝、聖堂へ入る髪にせよと命じられました」
もっともな答えだった。塔でも、知らない男たちは背後から来た。髪をつかむ者は、いちいち用向きを告げなかった。
自分の櫛なら、手の届くところに置いてある。あれは今、壁の外の箱の中だ。門で3台を選んだのは私で、選ばなかった箱の中に、私の髪へ触れてよい物が入っていた。
「今日は終わりです」
アッタが言った。
「終われません」
女は床の櫛を拾った。
「このまま戻れば、なぜ皇帝の妃を整えずに帰ったのかと問われます」
「私に押されたと答えればよい」
「それを、誰が信じますか」
女が初めて私を正面から見た。爪の際は赤く割れ、衣の肘には古い油染み。皇帝の妃に乱暴されたと訴えても、相手にされないかもしれない。
塔を出た頃の私なら、名乗れば誰もが事情を聞くと思っていた。まだ戴冠もしていないのに、女はもう私を皇帝の妃として恐れている。
「手首を見せて」
「結構です」
女は袖をさらに下ろした。
「見ていただいても、仕事は減りません」
女は袖の位置を直し、床の針を拾い始めた。1本ずつ、指の腹で数えて籠へ戻す。3本足りないと分かると、椅子の下まで膝で進んだ。
「すみません。私が乱暴をしました」
女は針を拾い続けた。私は倒れた椅子を起こし、折れた櫛を座面へ置いた。
「もう1度してください。ただし、最初は前に立って」
「前からでは結えません」
「最初だけです。櫛を見せて。そのあとなら、後ろへ回ってよい」
女は折れた歯を親指で確かめた。
「髪を引くかもしれません」
「その時は、今度こそ口で止めます」
アッタが小さく息を吐いた。呆れた時の音だ。女も笑いはしなかったが、袖から手を出した。
正面に櫛がある。歯の数まで見える。それから女はゆっくり右へ回った。私は椅子の縁を握った。もつれに櫛が止まるたび肩は跳ねたが、手はもう出なかった。
髪が首から離れ、頭の後ろで重さの位置が変わる。女の指は速く、迷いがない。私が押しつけた手首の方は、動かすたび一度止まった。
*
壁の向こうで、男たちが明日の祈りを合わせていた。同じ箇所で何度も声が崩れ、そのたび最初へ戻る。捕らわれた女が、王のもとへ導かれる。聞き取れたのは、それだけだった。
「嘘です」
荷袋を閉じていたアッタが言った。
「祈りよ」
「祈りなら、泥を省いてよいのですか」
髪を結う女が手を止めた。何の話か分からず、2人を見比べている。
「その祈りの女の方は、どなたのことです」
「明日、あなたが髪を結う者です」
女はしばらく私の後頭部を見ていた。
「……存じませんでした」
知らないまま、この人は私の髪へ触れに来ていた。
「泥だけではないわ」私はアッタへ向き直った。「半分のパンもない」
「パンを盗んだ侍女も、おりません」
「盗んだのは鉄でしょう」
「パンも大きい方を取りました」
吹き出してしまった。結いかけの髪が揺れ、女も困った顔のまま笑う。2人の笑いは、しばらく止まらなかった。
「エンマもいない」
自分で言って、笑いが切れた。
祈りの中では、捕らわれた女がすぐに王のもとへ導かれる。娘を置いてきた母も、その娘を見つけられないまま冠を欲しがる女も、あの短い祈りにはいない。
明日、名を呼ばれた瞬間に、エンマを思い出せるだろうか。幼い手なら思い出せる。焼きたてのパンへ伸びた指も、眠る時に丸くなった背も。けれど、まもなく十四になる娘の顔は、記憶のどこを探しても見つからない。
髪を結う女は理由を尋ねず、乱れた束をほどいてやり直した。
*
「明日は一緒に来て」
女が帰ったあと、私は言った。アッタは荷袋の紐に油を擦り込んでいる。
「はい」
いつもより返事が速かった。速すぎた。
「弟は、どうしました」
アッタの手が止まった。
「熱が出たと、荷の者が知らせに来ました。口は達者ですし、水も飲んでいるそうですが」
「なら、そばへ」
「夜番の交代に人をやります。私は、お支度を終えてから」
油の布を握る指が白くなっていた。
「私が皇后になるところを、見たいとは思わないの」
訊いてから、ひどいことを言ったと思った。弟の方へ行けと言っておいて、私を選ぶ返事を待っている。
「見たいです」
アッタは顔を上げた。
「あの穴を通った時から、どこまでお行きになるか、見たかった。ですが、今夜は外へ行かせてください」
私は頷いた。すぐには声が出なかった。
「明朝、門が開いたら、荷と一緒に戻ります。ミロが車に乗れれば」
「乗せて。寝具も、こちらから持っていって」
朝、私が迎えに行くと言った荷だった。戴冠の支度と時刻が重なることを、確かめもしなかった。
「元気な者を二人、あなたと一緒に行かせます。明日は、その者たちが荷を運ぶように」
「助かります」
アッタはすぐに荷袋を開け、弟へ着せる上着を足した。
「パヴィアから来た便りは、その上に置いてあります。マルティンさまが、春に出る道筋を書いてお寄越しです」
封の切れた手紙を見た。雪が解けるまで待つ人が、ほかにもいる。
「ミロに、馬まで看病するなと言って」
「馬の方が、言うことを聞きます」
アッタは荷袋を持って部屋を出た。戸が閉じると、部屋が急に広く、暗くなった。
*
夜明け前、髪を結う女が新しい櫛を持って戻った。今度は言われる前に私の正面へ立ち、黙って歯を見せる。昨日より歯の間が広い。髪を引きにくい櫛を選んで来たらしい。
「昨日の手首は」
「まだ動きます」
「訊いているのは、痛みのことです」
「謝られれば、痛くなくなるのですか」
私は口を閉じた。女は返事を待たず、ゆっくり右へ回った。
袖の下に薄い布が巻かれている。見たことに女も気づいたが、隠し直さなかった。
櫛が髪に入る。肩は強張ったが、椅子は鳴らなかった。結い終えた女が王装を持ち上げ、最後に正面から肩へ掛ける。
重い。肩の骨のところで布が沈み、背筋が自然に伸びた。女は裾を床へ落とし、目方を測るように前へ引く。留め具を掛ける時、手首の布がまた見えた。
戸の外で、朝の足音が増えていく。アッタの声はない。
「行けますか」
女が尋ねた。
私は空いた戸口を一度見た。それから立ち上がった。
「行きます」
戸の向こうで、門の方角から合図の音が鳴った。夜明けだ。アッタは今ごろ、開く門を待っている。弟の熱は下がっただろうか。私は手首を押さえ、まだそこにある人の腕の感触を、振り払えずにいた。
962年2月2日の朝が、開いた戸から入ってきた。私は誰の腕も借りずに、その中へ出た。
史実メモ:フロツヴィタ『オットー事績』の現存写本は、戴冠を語る箇所の近くで一葉を欠き、失われた内容は分かりません。Ordo IIIは捕囚から王のもとへ移るエステル等の皇后祝福語彙を伝えますが、962年当日の台本ではありません。本話の前夜支度と聞こえる祈りは創作です。
髪結いステファニア、折れた櫛、侍女の弟の病と看護も、本作で設定した人物と出来事です。




