第54話 ローマの門
サン・ピエトロを囲む城壁の門は開いていた。私の牝馬は、その前で歯を剥いた。
ローマの街路を抜け、ここまで来れば、明日の戴冠を待つだけだった。
止めているのは馬ではない。手綱を引き絞る、私の両手だ。
「王妃さま、手綱をお緩めください」
並んだ馬上から、アッタが手を伸ばした。指に触れられても、革が掌に食い込んだまま開かない。
「口が切れます」
牝馬の唇に白い泡が溜まっていた。親指から順に、指の力を抜いた。馬は大きく頭を振り、長い息を吐く。
「ごめんなさい」
首を撫でると、耳はまだ後ろに伏せている。
「もう少し、そのままでお待ちください。耳が戻れば進めます」
前方では、聖職者たちとローマの人々が王オットーを迎えていた。門に掛けた布が冬風に膨らみ、人の声が石に当たって返る。香の煙が馬と人の汗に混じった。祭服の者も、仕事着のままの者もいる。誰もが笑っているわけではない。それでも、王を迎える声は大きかった。
オットー。王。遠くから来た王。
夫の名は何度も聞こえる。私は、その隙間に自分の名を探した。
聞こえない。
手綱を緩めたばかりの手で、今度は馬腹を蹴った。牝馬が驚いて先へ出る。
「王妃さま、お待ちください」
追う声を置き去りに、私は王の列へ続く狭い隙間に馬首を入れた。
道端の籠が蹄に押されて倒れた。丸い実が3つ、石の上を転がる。籠のそばにいた女が幼い子を抱き寄せ、私の馬から背を向けた。
手綱を引いた。牝馬がまた口を開く。
「お止まりください。今度は、ゆっくり」
アッタが追いつき、馬の鼻先に自分の馬を寄せた。
騎手が降りて実を拾う。女は礼をせず、子の頭を胸へ押しつけたまま籠を受け取った。
「怪我は」
返事はない。女は籠へ手を伸ばしたが、私の馬が近づくと、また引っ込めた。
母の腕の中から、子だけが顔を出した。
「馬、怒ってる」
私は牝馬の泡だった口を見た。
「私が怒らせました」
女は何も言わず、子をまた胸へ隠して人の後ろへ下がる。拾いきれなかった1つの実が、蹄で潰れていた。
*
門のそばで、白い杖を持った男が列を数えていた。
「王妃家政は、あといくつ通れます」
「三台なら」男は門の外へ続く列を見た。「迎えの行列が終わるまでに。日が落ちましたら、夜の番へ替わります」
男の指は、そのあいだずっと半分曲がったままだった。折り終えると、また最初の形へ戻る。
「閉めないで」
「お迎えに出た聖職者の方へ、お掛け合いください。私には変えられません。夜の番は、別の者が預かります」
「その人を、ここへ呼べますか」
「お探しいたします。その間も、列を止めずにいただければ」
男は後ろへ一人を走らせた。続いてきた荷車が、私たちの前で止まった。
「私は王妃です。今夜の荷なのです」
「承知しております。通せるものから、先に」
男の目は、次の車へ移っていた。窓ほどの門の隙間から、荷の山が揺れながら近づいてくる。私が馬を退ければ、少なくとも一台は進む。
「荷は9台あります。残りはどうなるの」
「明日の朝までは、壁の外です。畑の風は冷えますので、火は焚かれた方がよろしいかと」
*
門の暗がりへ入ると、歓声が遠のいた。牝馬の呼吸と鞍革の軋みが近くなる。
カノッサの戸口で、最後の1歩が上がらなかった時の冷えが膝に戻った。監禁塔の扉。横木。自分の後ろで回った鍵。爪の間に入った土と、穴の向こうから聞こえたアッタの息まで、一度に戻る。
開いていると分かる門の前で、身体だけが、閉じ込められた夜を覚えている。牝馬の背にいても、息が詰まった。
「アッタ」
「ここにおります」
「隣に来て」
侍女は何も尋ねず、2頭の肩を並べた。
「先に行かないで」
「先には参りません。おそばにおります」
牝馬の首に手を置いた。もう蹴らず、馬が自分から1歩出るのを待つ。蹄が門の石を打ち、次にアッタの馬の蹄が鳴った。
暗がりは数歩で終わった。短さに身体が追いつかず、光へ出ても肩は上がったままだ。
「息はできますか」
アッタが前を見たまま尋ねる。
「ええ。あなたは」
「馬に任せています」
短く笑った。牝馬の耳が、ようやく前を向いた。
*
門内で、オットーが馬を返してきた。迎える人々の輪を一度離れ、私の前で速度を落とす。
「何があった」
「私が馬を傷めました。それから、子どもを踏みかけた」
夫の顔から、歓迎に応えていた笑みが消えた。
「怪我は」
「分かりません。女の人は、返事をせずに下がりました」
夫は従者に、母子を見つけて具合を確かめるよう命じた。
「怪我がなければよいが」
先に子の無事を聞かれ、それ以上は言えなかった。
「なぜ急いだ」
歓声はまだ彼の名を呼んでいる。妻の名を尋ねる声はない。
「あなたの隣に行けば、私の名も呼ばれると思いました」
「聞こえたか」
「いいえ」
「パヴィアでは、文書に名が残った」
オットーは私の泥のついた指を見た。
「それでは足りなかったか」
「足りました。足りたから、もっと欲しくなりました」
夫はしばらく黙り、それから、ごく普通の声で言った。
「アーデルハイト」
人々の歓声に呑まれ、すぐそばの私にしか届かない。
「あなた1人では、足りません」
言ってから、ひどい返事だと思った。オットーは怒らず、笑った。
「欲張りだな」
「ええ。冠も国も取り戻しに来たのだもの。名前くらい、もっと欲しがります」
「では、子どもを踏まない速さで欲しがれ」
私は門を振り返った。歓声はまだ続いている。
「門役が、行列の後ろが通れば閉めると言っています。私の荷は9台、通れるのは3台」
「迎えの司祭に話そう。荷が通るまで、夕べの祈りも待ってもらう」
夫は聖堂の方を見た。大勢の者が立ったまま、こちらの到着を待っていた。私の箱のために、迎える側も、先を行く側も引き返してこさせる。
「結構です。3台で足ります」
「足りるのか」
「足りません。私が選びます」
*
門前では、荷馬が尻を外へ向け、列を詰まらせていた。轡を引くほど、荷馬は首を振る。
「引かないで」
さっき自分が言われたことを、今度は私が男へ叫んだ。轡を持つミロの顔は、青ざめている。私は叱らず、反対側へ牝馬を寄せた。アッタが馬を降り、自分の馬を引いて荷馬の横に立つ。荷馬は鼻を鳴らしながら、2頭の間を進んだ。
残る時間で、私は9台の中身を並べ替えた。明朝までに壁の内側へ要る物は、思っていたより少ない。
「明日の衣の車。書き物の箱。それから、パンと寝具の車」
「王妃さまのお箱は」
「置いていきます」
アッタが一瞬、こちらを見た。それだけで、何も言わずに車の順を組み替え始める。
「外へ残る人には、薪と酒を」
「私も残ります」
ミロが、鼻を鳴らす馬の首を撫でた。
「罰ではありません」
「暗くなると、こいつは落ち着かなくなります。私なら、いつも使う飼葉袋も分かります」
私は残る荷の番をミロに頼んだ。頭が痛むと小声で姉に言ったのは聞こえたが、長旅で疲れているのだと思った。
母子を捜した従者が戻り、怪我はないと伝えた。潰れた実の代を渡すと、女は受け取り、早く先へ行ってくれと言ったそうだ。私は従者に礼を言った。
三台目が門石を越えたところで、白い杖が上がった。行列の後ろが来ていた。門役は数えた通りに閉め始め、私と目が合うと、律儀に頭を下げた。
*
旧サン・ピエトロの入口が見える頃、冬の日は傾いていた。灯を運ぶ者、場所を空ける者、明日の支度を確かめる者が出入りしている。
馬を降りると、長く鞍にいた足が痺れ、片膝が折れた。アッタが肘を支える。今度は、振りほどかなかった。
「歩けますか」
「確かめます」
1歩。もう1歩。石の上に、自分の重みを戻していく。門の暗がりを抜けた時より、こちらの数歩の方が長かった。
入口の向こうに灯と人の気配があった。先に着いたオットーが振り返り、私を見つける。呼ばず、急かさず、そこに立っていた。
北に残した息子なら、今夜も母の隣で眠れるかと尋ねただろう。エンマが今夜どこで眠るのか、見当もつかない。明日、皇后の名を得ても、離れた2人のそばには行けない。
私は敷居の手前で両足を揃えた。
「アッタ。朝になったら起こして。外に残した人たちが門をくぐるところを、自分で見ます」
「衣のお支度より先に?」
「私の衣は、逃げません」
アッタは頭を下げ、それから付け足した。
「櫛は、外の箱に入れてまいりました」
「借ります」
自分の名は、まだローマの歓声から聞こえない。呼ばれるのは明日だ。それまで私は、借り物の櫛で髪を結う。
史実メモ:962年、『レギノ年代記続編』はローマの人々と聖職者の歓呼を伴うオットーの好意的受容を、リウドプランドは教皇による華麗な準備を伝えます。いずれもこの受容場面でアーデルハイトを名指さず、彼女への具体的な声や入城位置は分かりません。教皇の政治的離反は戴冠前夜でなく963年です。
門はサン・ピエトロ周辺を囲む城壁の門として描いています。日没の入場調整、荷車九台の選別、馬と母子の出来事は、実際の入城記録ではありません。




