第53話 二行だけの願い
「サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、今の王さまにも確かめていただきたい」
男は私の前へ立つなり、息継ぎもせず言った。空の食料袋の底から折り畳んだ布を出す。中に紙はなく、粉だけが残っていた。
「以上です。院長さまから、二行だけ持たされました」
私は壊れた宮殿を振り返った。砕けた壁の向こうに、ベレンガーの顔が見えた。
「誰に奪われたのです」
「その言葉は、持ってきておりません」
「脅かしている者も」
「それも」
男は袋の口を握り直した。四日歩いてきた足で、半歩だけ私から離れる。
「ベレンガーに奪われた権利なら、王も――」
「それを足すと、院長さまの願いではなくなります」
声は小さかったが、男は引かなかった。私の怒りを公の用に化けさせるために、他人の二行を使おうとした。男は布を畳み、袋の底へ戻した。
「別の物をお望みなら、私は持っておりません。もう一度、聞いてまいります」
背を向けた。ヴェローナまで4日。雨の道を、空の袋で。
呼び止める言葉より先に、手が出た。冷えて泥の染みた袖を、私はつかんでいた。男が驚いて振り返り、王妃に腕を握られたまま動けなくなる。
「戻らなくていい。今のは、私が足した話です」
「はあ」
「院長さまの言葉だけを、王へ伝えます。さっき私が言ったことは、忘れて」
男は許すとも気にするなとも言わなかった。私の手を見て、それから自分の袖を見た。
「では……袖を放していただけますか。帰りの泥まで王妃さまにお持たせするわけには」
手を離した。指に白い埃と泥が混じる。
「なぜ、私のところへ来たの」
「王さまのおそばには、立派な方が並んでおられました。列の後ろが見えません」
言ってから、男は自分の声を聞き直したらしい。慌てて付け足す。
「王妃さまは、埃の中に立って、大きな声を出しておいででした。……悪く申したのではありません。近づける方がそこにおられた、というだけで」
「帰る銭は」
「帰る分はあります。ここでもう1晩食べる分がありません」
「なら、今夜は私の台所から」
「その代わりに、余計な名を話せと言われますか」
また腹を立てかけた。そう疑われる理由なら、さっき自分で作ったばかりだ。
「言いません。銭も取りません」
アッタが黒いパンと玉葱を持ってきた。男は立ったまま食べ、2口目からようやく速度を落とした。
「王の前へ行けなければ、どうするの」
「明朝、帰ります」
「返事がなくても?」
「戻らなければ、次に来る銭も作れません」
男は帰路に要るパンを2つ取り、3つ目を台へ戻した。玉葱の皮は掌で集め、袋の口へ入れた。
*
オットーは再建用の材木を見ていた。太さの違う梁が地面に並び、どれを屋根に回すか建築役と話している。近づくと、木口を確かめていた手が止まった。
「今度は何を止める」
「止めません。調べてほしいことがあります」
「サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、今の王にも確かめてほしい。二行だけです」
「それだけか」
「それだけです。私は、そこへベレンガーを足そうとしました」
夫の視線が私の顔から手へ落ちた。男の袖をつかんだとき、朝の傷を巻いた布がずれていた。
「その手で止めたのか」
「帰ろうとしたので」
「誰から逃げた」
「私からです」
オットーは鼻で息を吐いた。私の手首を取り、汚れた布を解く。建築役たちの前だった。隠そうと引けば、かえって強く握られた。
「願った者は」
「名をまだ聞いていません。院長から言伝を受けた男です」
「争いの相手は」
「それも聞いていません。古い証書にある権利を、確かめていただきたいと」
「その証書は持ってきたか」
「いいえ」
「では、見せてもらわねばならん」
夫は結び目を歯で引いた。痛いほどきつく、私は少し緩めてと頼んだ。指一本を布の下へ入れ、結び直してくれる。
「男には、今夜の食事だけ約束しました」
「まだ何も認めていないと、院長へ伝えさせろ」
「分かっています」
それでも、夫が書記を呼ぶと、私はその場を離れられなかった。壊れた石の前で泣いていた女が、人を王へ取り次げると、あの男にも知ってほしかった。
「お前の請願として調べさせる。それでよいな」
「はい」
オットーは手を放した。
「調べさせる。確かなら認める。男には、それ以上を約束するな」
「はい」
翌朝、男は門のそばで待っていた。私は自分で伝えに行った。
「王は調べると言いました。認めるとは、まだ」
「十分です」
男は2つのパンを袋へ入れ、朝の道へ出た。私を褒めもせず、結果を待つとも言わなかった。
*
十二月、ヴェローナから十二月二日付の証書の報せが届いた。
サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、王が文書で確かめた。その処置は、愛する妻アーデルハイトの請願による、と。
取次役の報告がそこまで来た。続きを聞く前に、私は遮った。
「あの男は、どこにいます」
「もうヴェローナに戻りました。結果は別の便で送ります」
礼を聞きたかったのだと、いなくなってから気づいた。男は初めから、結果は修道院へ届けばよいと言っていた。私だけが、礼まで欲しがっていた。
「マルティンは、戻りましたか」
「グイドを送ってから、お目にかかるそうです」とアッタが言った。
司祭の髪には、白いものが増えていた。王宮へ戻った日に会った時は、歩き方まで変わった気がしたが、夕食のパンを早々に自分の皿へ寄せる癖は、同じだった。
「ベルノが使っていた荷置き場を、見つけました」
彼はパンへ手を置いたまま言った。
「聖モーリスの近くの渡し場まで、以前は毎年戻っていたそうです。片目のフェリクスが死んでからは、別の者が荷を運ぶようになったと。ベルノ本人は、もう南へ来なくなったのかもしれません」
「そこへ行けば、会えますか」
「行ってみるまで」
私は皿を押しやった。峠はもう雪に塞がれている。春まで待つという言葉を聞く前に、分かってしまった。
「母の家の者にも頼みます。北からなら、道が違うでしょう」
「そちらと行き違いにならぬよう、私からも書きます」
マルティンはパンを割った。私が手を出さないので、小さい方を皿へ載せてくれた。
*
降誕祭が過ぎた。ローマへ発つ前日の夕方、泥の跳ねていない靴の男が来た。土地の境も二代前の証書の日付も、こちらが訊く前に言い終える。
「王妃さまのお名を1行、添えていただければ足ります」
「私はその日付を確かめていません」
「サン・ゼーノも、お確かめにはならなかった」
痛いところだけは、よく知っていた。
「古い証書を調べてもらいました。あなたも、お持ちのものを役人へ渡してください」
男は礼を崩さずに退がった。戸口で足を止め、こちらを見ずに言う。
「役人の列には、もう三日並んでおります。あなたさまが一言おっしゃれば済むのに」
*
翌朝、王妃家政はローマへ向かった。門を出るとき、私は再建の槌の音を振り返った。今度は、止めなかった。
城門の外で、荷車の列が長く伸びた。アッタが最後尾の轡を確かめ、荷紐を締め直している。マルティンは、今度もここに残る。白髪の増えた司祭に、私は娘を捜す旅をまた頼んだ。城門で別れた手の、曲がった二本の指を思い出した。
馬を並べたオットーが都門を顎で示した。それから、こちらを見ずに言う。
「ローマでは、お前の名を欲しがる者が門の内側に並ぶぞ」
「あなたの列の、後ろが見えないのですって」
「お前の列ができる」
「では、あなたのところへ戻します」
夫が笑った。私はまだ、笑いきれなかった。
史実メモ:961年12月2日のオットー一世文書D234は、アーデルハイトの請願により、ヴェローナのサン・ゼーノ修道院の権利を確認します。請願の定型句は、本人の自筆、逐語発言、全文口授、発給地での身体的同席を示しません。
本話の請願者との会話、王妃がパヴィアで発給の報せを受ける場面、娘の捜索は創作です。




