↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃の値段  作者: megu
PR
54/67

第53話 二行だけの願い

「サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、今の王さまにも確かめていただきたい」


 男は私の前へ立つなり、息継ぎもせず言った。空の食料袋の底から折り畳んだ布を出す。中に紙はなく、粉だけが残っていた。


「以上です。院長さまから、二行だけ持たされました」


 私は壊れた宮殿を振り返った。砕けた壁の向こうに、ベレンガーの顔が見えた。


「誰に奪われたのです」

「その言葉は、持ってきておりません」

「脅かしている者も」

「それも」


 男は袋の口を握り直した。四日歩いてきた足で、半歩だけ私から離れる。


「ベレンガーに奪われた権利なら、王も――」

「それを足すと、院長さまの願いではなくなります」


 声は小さかったが、男は引かなかった。私の怒りを公の用に化けさせるために、他人の二行を使おうとした。男は布を畳み、袋の底へ戻した。


「別の物をお望みなら、私は持っておりません。もう一度、聞いてまいります」


 背を向けた。ヴェローナまで4日。雨の道を、空の袋で。


 呼び止める言葉より先に、手が出た。冷えて泥の染みた袖を、私はつかんでいた。男が驚いて振り返り、王妃に腕を握られたまま動けなくなる。


「戻らなくていい。今のは、私が足した話です」


「はあ」


「院長さまの言葉だけを、王へ伝えます。さっき私が言ったことは、忘れて」


 男は許すとも気にするなとも言わなかった。私の手を見て、それから自分の袖を見た。


「では……袖を放していただけますか。帰りの泥まで王妃さまにお持たせするわけには」


 手を離した。指に白い埃と泥が混じる。


「なぜ、私のところへ来たの」

「王さまのおそばには、立派な方が並んでおられました。列の後ろが見えません」


 言ってから、男は自分の声を聞き直したらしい。慌てて付け足す。


「王妃さまは、埃の中に立って、大きな声を出しておいででした。……悪く申したのではありません。近づける方がそこにおられた、というだけで」


「帰る銭は」

「帰る分はあります。ここでもう1晩食べる分がありません」

「なら、今夜は私の台所から」

「その代わりに、余計な名を話せと言われますか」


 また腹を立てかけた。そう疑われる理由なら、さっき自分で作ったばかりだ。


「言いません。銭も取りません」


 アッタが黒いパンと玉葱を持ってきた。男は立ったまま食べ、2口目からようやく速度を落とした。


「王の前へ行けなければ、どうするの」

「明朝、帰ります」

「返事がなくても?」

「戻らなければ、次に来る銭も作れません」


 男は帰路に要るパンを2つ取り、3つ目を台へ戻した。玉葱の皮は掌で集め、袋の口へ入れた。


*


 オットーは再建用の材木を見ていた。太さの違う梁が地面に並び、どれを屋根に回すか建築役と話している。近づくと、木口を確かめていた手が止まった。


「今度は何を止める」

「止めません。調べてほしいことがあります」


「サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、今の王にも確かめてほしい。二行だけです」

「それだけか」

「それだけです。私は、そこへベレンガーを足そうとしました」


 夫の視線が私の顔から手へ落ちた。男の袖をつかんだとき、朝の傷を巻いた布がずれていた。


「その手で止めたのか」

「帰ろうとしたので」

「誰から逃げた」

「私からです」


 オットーは鼻で息を吐いた。私の手首を取り、汚れた布を解く。建築役たちの前だった。隠そうと引けば、かえって強く握られた。


「願った者は」

「名をまだ聞いていません。院長から言伝を受けた男です」

「争いの相手は」

「それも聞いていません。古い証書にある権利を、確かめていただきたいと」

「その証書は持ってきたか」

「いいえ」

「では、見せてもらわねばならん」


 夫は結び目を歯で引いた。痛いほどきつく、私は少し緩めてと頼んだ。指一本を布の下へ入れ、結び直してくれる。


「男には、今夜の食事だけ約束しました」

「まだ何も認めていないと、院長へ伝えさせろ」

「分かっています」


 それでも、夫が書記を呼ぶと、私はその場を離れられなかった。壊れた石の前で泣いていた女が、人を王へ取り次げると、あの男にも知ってほしかった。


「お前の請願として調べさせる。それでよいな」

「はい」


 オットーは手を放した。


「調べさせる。確かなら認める。男には、それ以上を約束するな」

「はい」


 翌朝、男は門のそばで待っていた。私は自分で伝えに行った。


「王は調べると言いました。認めるとは、まだ」

「十分です」


 男は2つのパンを袋へ入れ、朝の道へ出た。私を褒めもせず、結果を待つとも言わなかった。


*


 十二月、ヴェローナから十二月二日付の証書の報せが届いた。


 サン・ゼーノ修道院が持つ権利を、王が文書で確かめた。その処置は、愛する妻アーデルハイトの請願による、と。


 取次役の報告がそこまで来た。続きを聞く前に、私は遮った。


「あの男は、どこにいます」

「もうヴェローナに戻りました。結果は別の便で送ります」


 礼を聞きたかったのだと、いなくなってから気づいた。男は初めから、結果は修道院へ届けばよいと言っていた。私だけが、礼まで欲しがっていた。


「マルティンは、戻りましたか」

「グイドを送ってから、お目にかかるそうです」とアッタが言った。


 司祭の髪には、白いものが増えていた。王宮へ戻った日に会った時は、歩き方まで変わった気がしたが、夕食のパンを早々に自分の皿へ寄せる癖は、同じだった。


「ベルノが使っていた荷置き場を、見つけました」


 彼はパンへ手を置いたまま言った。


「聖モーリスの近くの渡し場まで、以前は毎年戻っていたそうです。片目のフェリクスが死んでからは、別の者が荷を運ぶようになったと。ベルノ本人は、もう南へ来なくなったのかもしれません」

「そこへ行けば、会えますか」

「行ってみるまで」


 私は皿を押しやった。峠はもう雪に塞がれている。春まで待つという言葉を聞く前に、分かってしまった。


「母の家の者にも頼みます。北からなら、道が違うでしょう」

「そちらと行き違いにならぬよう、私からも書きます」


 マルティンはパンを割った。私が手を出さないので、小さい方を皿へ載せてくれた。


*


 降誕祭が過ぎた。ローマへ発つ前日の夕方、泥の跳ねていない靴の男が来た。土地の境も二代前の証書の日付も、こちらが訊く前に言い終える。


「王妃さまのお名を1行、添えていただければ足ります」

「私はその日付を確かめていません」

「サン・ゼーノも、お確かめにはならなかった」


 痛いところだけは、よく知っていた。


「古い証書を調べてもらいました。あなたも、お持ちのものを役人へ渡してください」


 男は礼を崩さずに退がった。戸口で足を止め、こちらを見ずに言う。


「役人の列には、もう三日並んでおります。あなたさまが一言おっしゃれば済むのに」


*


 翌朝、王妃家政はローマへ向かった。門を出るとき、私は再建の槌の音を振り返った。今度は、止めなかった。


 城門の外で、荷車の列が長く伸びた。アッタが最後尾の轡を確かめ、荷紐を締め直している。マルティンは、今度もここに残る。白髪の増えた司祭に、私は娘を捜す旅をまた頼んだ。城門で別れた手の、曲がった二本の指を思い出した。


 馬を並べたオットーが都門を顎で示した。それから、こちらを見ずに言う。


「ローマでは、お前の名を欲しがる者が門の内側に並ぶぞ」

「あなたの列の、後ろが見えないのですって」

「お前の列ができる」

「では、あなたのところへ戻します」


 夫が笑った。私はまだ、笑いきれなかった。


史実メモ:961年12月2日のオットー一世文書D234は、アーデルハイトの請願により、ヴェローナのサン・ゼーノ修道院の権利を確認します。請願の定型句は、本人の自筆、逐語発言、全文口授、発給地での身体的同席を示しません。


本話の請願者との会話、王妃がパヴィアで発給の報せを受ける場面、娘の捜索は創作です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。