第52話 エンマの部屋がない
エンマの部屋がない。
壊れた王宮を馬車の窓から見た時、私は踏み台を待たずに飛び降りた。石の縁で足首をひねり、アッタが腕をつかむ。振りほどいて走った。
都門では、誰も私の帰還を歌わなかった。荷車が入り、野菜籠が出て、門役は家政の印を見て列を通す。十年前に城へ戻った私を覚える顔を探す前に、槌の音がした。
階段が、空へ向かって途切れていた。人の背より少し高いところで壁が砕け、その上にあった部屋も屋根もない。職人たちは落ちた石を、使えるものと砕くものに分けて運んでいる。雲の影が、かつての室内を横切った。
「止めて!」
いちばん近い槌が止まり、少し遅れて別の槌も止まった。最後まで音を立てていた男が周りを見て、手を下ろす。
「ここに、娘の部屋がありました」
言ってから、見回した。どこを指しているのか、自分にも分からない。
ロターリオが焼きたてのパンを持ち帰った朝がある。冠を外す暇も惜しんで外皮を割り、湯気に笑った。幼いエンマは熱さに指を引き、それでも白い中身を握り潰した。父は叱らず、潰れたパンを娘の口へ運んだ。あの時、光が入っていた。
窓は、夫の右にあったのか。左だったのか。
「アッタ。窓はどちらでした」
侍女は答えず、つかんだままの腕をゆっくり離した。
「ご一家で召し上がるお部屋には、入ったことがありません」
そうだった。あの朝を知る者は、ここに一人しかいない。
「では、誰か古い者を捜して」
建築役が粉塵の向こうから進み出た。
「10年前の部屋割りを知る者、ということですか」
「娘の部屋を知る者です」
「同じことかどうか、私には」
男の率直さが腹立たしかった。娘の名を言えば、誰もが同じ場所を思い浮かべるはずだと、どこかで決めていた。
「作業を止めなさい。見つかるまで、この辺りの石を動かさないで」
職人たちが互いの顔を見る。担架の石を戻す者はいない。建築役は、私にも槌を持つ者にも返事をしなかった。
「止めるな」
背後から、王オットーの声がした。靴も外套の裾も白い埃をかぶり、右手に建築役の測り縄を持っている。
「あなたは宮殿を建て直せと命じました。私は娘の部屋を壊すなと言っています」
「もう壊れている」
その通りだった。だから余計に腹が立った。痛む足首に体重を掛けて、夫へ向き直る。
「誰が壊したか、あなたも聞いたでしょう」
「ベレンガーだ。なぜかは知らん」
「私が帰る場所を消すためかもしれない」
「理由も知らずに、自分への当てつけだと決めるな」
夫の声も強くなった。職人たちは下を向く。王と王妃のどちらに従っても、もう一方に逆らうことになる。
「あなたには、どの部屋も同じ石でしょう」
「そう見えるか」
オットーは砕けた階段を見上げた。
「ここは10年前、私が奪い返して、あなたに返したつもりでいた都だ。何も戻せていなかった」
彼は縄を建築役へ返した。
「それでも屋根は要る。ここで暮らす者は、私たちの記憶が戻るまで雨を待てない」
「新しい部屋も、造らせる。娘が戻れば使えるように」
すぐに首を振った。
「それで、同じにはならないわ」
「では、何を残す」
答えられなかった。石も窓も位置も分からない。覚えているのは、パンを握り潰した小さな拳だけだ。
埃の中に膝をついた。落ちた石へ両手を当てても、どの壁の石か分からない。爪の間が白くなる。塔の土を掘った夜と違って、掘った先に出口がなかった。
アッタが隣にしゃがみ、私の片手から尖った石を抜いた。掌に浅い傷がついている。布を巻きながら、足首にも触れた。そこを押すと痛むと言うと、これ以上走らないようにと叱られた。
「私は、忘れたのね」
「窓の位置を、です」
しばらくして立ち上がった。
「続けてください」
最初の槌が上がるまで、誰も動かなかった。建築役が自分で1度石を打つと、別の音が重なった。
*
昼を過ぎ、職人の一人が丸いパンを割った。湯気は出ない。それでも匂いで、手が止まった。
「そのパンは、どこで焼いたの」
「城の竈です。北の隅の。上は落ちましたが、竈は使えると聞いて」
部屋を知る者はいなくても、そこへパンを運んだ者なら、まだいるかもしれない。
竈の前の女は、粉だらけの腕で立っていた。膝を折ろうとするのを手で止める。
「ロターリオ王の頃からここに?」
「先の王さまの、そのまた前からです」
「朝のパンは、どの階段から上へ運んだの」
女は迷わなかった。崩れた壁の一角を、粉の残る指で差す。
「東の小階段です」
「上がった先は」
「王さまがご一家で召し上がる間で。中のことは存じません。敷居から先へ入れませんでしたから」
「敷居からは、何が見えたの」
「王さまのお背中と、床でございます」
「その部屋の窓は、どちら側でしたか」
女は粉の腕を組み、しばらく考えて首を振った。
「窓は、ございません」
「光が入っていました。私は見ています」
「階段の上が抜けておりました。朝のうちだけ、そこから日が落ちます。夏は私の足まで明るくなりました」
窓を思い出そうとするたび、私は光の側に夫を置いていた。違う。あの朝、目を細めていたのは私だ。光は私の顔に来ていた。夫は光を背に座り、私はその向かいにいた。エンマは夫の膝の上から、湯気へ手を伸ばした。
女は粉のついた手で、まだ熱い小さなパンを差し出した。割ると、薄い湯気が立った。今日は、最初のひと口が喉を通った。
「あの部屋の中の物を、目録に入れていた者はいますか」
「書き役の爺さんが、まだ石を数えております。グイドと」
*
台の前に、老人が腰掛けていた。担架の石を見ながら、板へ印をつける。私を見ると筆を下ろし、立とうとした。
「座っていて。グイドとおっしゃるの」
「はい。昔は、衣や寝具の出し入れを書いておりました」
「乳母のグレータを覚えていますか」
老人は私を見た。すぐには答えなかった。
「マルタという洗い女と、その兄ベルノも捜しています。司祭のマルティンが何度か来たはずです」
「来られました。私は、もう存じていることはお話ししました」
その声が怯えていた。司祭に返事をしたことまで、咎められると思っている。
「同じことを、私にも話していただけますか」
私は台の向かいの石へ腰を下ろした。捻った足首が痛んだ。
グレータが娘を連れて戻ったのは、私が湖へ送られた日の翌々日だった、と老人は言った。王宮には入れず、出入り口で馬を止められた。そこへ洗い物を納めに来たマルタがいた。
「乳母は、お嬢さまを連れて、自分の親類の家へ行くと言っておりました。けれど、あちらも、王宮から誰か来たと聞いて戸を閉めたそうで」
「それでマルタの家へ」
「はい。後から寝具を取りに参りました。私は、小さい掛布を一枚、余分に渡しました。湿って、干さねば使えぬと書いて」
掛布を二度折る。左の頬の下へ敷く。そう言った女の顔が戻った。娘がまだパヴィアにいた秋、私はその腕を捻り、教えろと言った。
「グレータも一緒でしたか」
「初めは。その後、親類の病人へ呼ばれたと。そこから先は、私は知りません」
老人は肘で口を覆い、咳をした。咳が収まるまで待った。
「ベルノは、どこへ」
「西へ。年が明けてから、妹と子どもを迎えに来ました」
「町の名は」
「司祭さまにも申しましたが、私は聞いておりません」
同じ返事をしているうちに、老人の肩はかえって縮んだ。私が望む答えになるまで終わらないと思ったのかもしれない。立とうとすると、足首に痛みが走った。思わず台へ手をつき、老人が椅子を譲ろうとするのを止めた。
「もう一つだけ。その兄妹と、あなたはどうやって便りを」
「マルタは書けませんでした。商いに戻ってくる者へ、言伝を」
「誰です」
「サン・モーリスから来る塩商いの連れで、片目の男がおりました。名は……フェリクスと。私はその男から、妹も娘も達者だと聞いたきりで」
聖モーリス。母の暮らすブルグントへ至る道の、ずっと手前だ。
「それを、マルティンは」
「存じておいでです。旅の商人に訊いたら、フェリクスは死んだと言われたそうで。ベルノのことも、そこから途絶えました」
私は膝の上で手を開いた。もう帰ってこない人間の口を、何年も待っていた。
「紙には、残りませんか。その商いの荷を入れた時の、支払いでも」
「城の役人より、古い荷置き場の番なら。あの男はよく、運び賃のことで揉めておりました」
老人が初めて、少しだけ口元を緩めた。
「一緒に来ていただけますか」
「今日は、この石を」
「明日でも。マルティンと一緒に」
私は建築役を呼んだ。老人を一日借りたいと頼むと、男は朝の私を見た時と同じ顔になったが、代わりの数え手を立てると言った。
グイドは筆を置き直した。今度は、手が台から滑らなかった。
取次役が困った顔で近づいた。
「朝から待っている男がおります。工事中ゆえ明日に回すと申しましたが、帰りません」
「誰を待っているの」
「王妃さまを」
柱の落ちた回廊の端に、泥で裾を濡らした男が立っていた。近づくと、空の食料袋を見せる。
「待てるのは今日までです。ヴェローナへ戻る銭まで、ここで食べるわけにはいきません」
「何の用です」
男は壊れた宮殿へ一度目をやり、それから私を見た。
「サン・ゼーノ修道院の権利を、王に確かめていただきたいのです」
史実メモ:961年後半、多くのイタリアの伯・司教がオットーを迎え、彼はほぼ抵抗なくパヴィアへ入りました。近い年代記は、ベレンガーが壊した宮殿の再建を命じたと伝えます。アーデルハイト個人への歓呼や歓迎者名簿は不明です。
旧王宮の書き役グイド、洗い女マルタ、その兄ベルノと息子パオロ、乳母グレータ、塩商いフェリクス、および娘の居場所をたどる経緯は創作です。




