第51話 袖が短くなる前に
息子は戸口の男を指さした。私は、その指を下ろさせなかった。
「油をつけた人?」
アーヘンで会っている。それでも、この子の中で大司教ヴィルヘルムは、まだ名前ではなく匂いと手だった。
「そうだ」と夫が答えた。「私たちが南にいるあいだ、お前を守り、育てる人だ」
ヴィルヘルムは息子の前に膝をついた。王への礼か、目の高さを合わせたのか、私には分からない。顔を見るのは、私も今日が初めてだった。知っているのは、弟を自分の手で葬ったことと、私の1行へ返事をくれたことだ。
「できれば、次は名前で覚えていただきたい」
「ヴィルヘルム」
「はい」
「油は、もうつけない?」
「当分は」
子はようやく大司教の顔を見た。
「母上がいない時、夜は誰がいるの」
私は寝所と人数を先に訊くつもりでいた。ヴィルヘルムは私を見ずに、幼い王へ答えた。
「夜番が戸の外に。部屋の中に誰かいてほしければ、そうします」
「あなたは?」
「毎晩は無理です。大司教にも朝があります」
息子は眉を寄せたが、それ以上は責めなかった。
「母上に言うことができたら?」
「書ける者を呼びます」
「ぼくが言ったとおりに?」
「悪口も?」
ヴィルヘルムが訊き返すと、少年は初めて少し笑った。
「悪口も」
「綴りは直します。悪口は残しましょう」
夫が咳払いをした。私は笑わなかった。悪口でも構わない。今度は息子から便りが来る。エンマからは、1通も受け取っていない。
「代筆させたら、封はこの子に押させてください」
「蝋は熱いです。指を焼いたら、それも書かせます」
「いつから、この人のところ?」
「出立の前に、何晩かこちらで眠ってみるとよい」と夫が答えた。
夫が従者の数を言い、私も言い返した。
「ぼくは、ここにいる」
その声で、私たちは口を閉じた。
「ぼくの話でしょう」
「そうです」
私は口を閉じて、膝をついた。息子は私よりヴィルヘルムを見ていた。
「母上は南へ行く。父上も行く。ぼくは、この人と残る。決めたのは誰?」
「私だ」
夫が答えた。言い訳を足さず、私の名も足さず、息子の前へ手を差し出す。
少年は取らなかった。オットーの手は宙に残り、握られないまま膝へ戻った。
ヴィルヘルムも手を出さず、代わりに尋ねた。
「今夜、私の部屋を見に来ますか」
幼い王はしばらく考えた。
「見るだけ」
「それで結構です」
ヴィルヘルムが立つと、少年も椅子から降りた。戸口で、私が後ろへ来るのを見て眉を寄せる。
「ぼくだけで見る」
足が止まった。
「分かりました」
2人が廊下を曲がるまで、幼い背は1度も振り返らなかった。
しばらくして2人が戻ってきた。
「寝台が大きすぎる」
「小さいものを入れさせます」とヴィルヘルムが答える。
「戸は、外から閉める?」
背が強張った。息子は、塔の話を覚えている。ヴィルヘルムが口を開くより先に、私は言った。
「閉めさせません。閂は内側に。夜番は戸の外。外から掛かる金具は、1つも残さない」
言ってから、指を折っていたことに気づいた。閂、夜番、金具。どれも、牢の内側から確かめたものだった。
ヴィルヘルムは、なぜとは訊かなかった。
「外から掛かるものがあれば、今夜のうちに外させます」
「今夜、私が確かめます」
「どうぞ」
大司教は、もう一度、幼い王と目の高さを合わせた。
「閂は、あなたの手が届く高さに直させます。落とし方は母上に教わってください。私より詳しいようです」
息子は頷き、私を見た。塔の話は、しなくて済んだ。
*
その夜、私は閂を3度落とし、3度上げた。受け金の緩みも、戸と枠の隙も見た。4度目は息子が自分の手で落とした。私は手を出さずに見ていた。
アッタが布の包みを持って入ってきた。糸を切ると、木馬の首が出て、次に脚の欠けた側が出た。
「去年の秋には、棚へ手が届くようになっておいででした」
「触ったの?」
「触らずに、私をお呼びでした。下ろしてよいか、すぐにはお答えできなくて」
寝台の脇へ置いた。指が触れる高さに。
「これは誰の」
「あなたの兄上の」
「ハインリヒ?」
「はい」
「母上が、持っていたかった?」
「ええ」
息子は木馬の首を握った。欠けた脚の、丸めた面を親指でこすっている。
「なぜ壊れているの」
「6年前の冬、廊下で走らせて柱にぶつけたからです。本人が泣いて、私が押さえてアッタが削りました」
「ぼくがもらうの」
「はい」
息子は木馬を寝台の奥へ押し、引き戻し、また枕の脇へ戻した。置き場所を3度直して、手を離した。
廊下へ出ると、ヴィルヘルムが灯を持って立っていた。
「弟君のことを、1行だけお訊ねしました」
「覚えております」
「返事も、覚えていますか」
大司教は間を置かなかった。
「履いておられました。左の踵が、内側から擦れておりました。以上です」
「それだけでした」
「それだけを訊かれましたので」
「慰めを足す方もいます」
「甥が訊いたと、お書きでしたから。あの子へ伝えるなら、短い方がよいと思いました」
灯の芯が鳴った。
「もう1つ訊きます。夫が南で死んだら、あなたはあの子に、父上はもう帰らないと言えますか」
「言います」
「あの子は泣きます」
「そばにいます。何と言われても、知らせにだけ来て帰ることはしません」
*
別れの日、息子は新しい外套に袖を通さなかった。選んだのは、袖を継いだ古い1着だった。
襟の留めを1段緩くし、伸びた糸を私が切る。切った端が指につき、払っても落ちなかった。
継いだ袖へ指を入れ、手首から先の余りを測った。指2本分。
この測り方を、私は前にもした。棚から下ろした小さな靴を、中庭の子の踵へ当てた時だ。あの時も、指2本分あった。
「短くなったら、誰が直すの」
「そばにいる人に頼みなさい」
息子はヴィルヘルムを見た。
「針は使える?」
「使えません」
「何ができるの」
大司教は少し考えた。
「針を使える者を捜せます」
「ほかは」
「パンが遅ければ厨房へ行けます。眠れなければ、最初の晩くらいは朝まで起きていられます」
「2晩目は?」
「寝ます」
少年はまた少し笑った。これからは、その笑いをこの人が見る。
王妃家政の車が中庭で待っている。先頭の座には1人分の空きがあり、息子は何度もそこを見た。
「母上の家を見たかった」
「私も、あなたに見せたかった」
昔のまま残っているかは分からない。「いつか」とも「帰ったら」とも言えなかった。
「便りは読みます。届いたものは、全部」
「ぼくが嘘つきって書いても?」
頷いた。
「読みます」
今は馬も道も選べる。その馬で、自分から息子を置いて遠ざかろうとしている。
抱き寄せようと腕を伸ばすと、息子は動かなかった。あと1歩で届く。踏み込めば、嫌がる子を抱いて、自分だけが別れを済ませてしまう。私は腕を下ろした。
車へ向くと、裾が引かれた。息子の片方の踵が、布を踏んでいる。
「オットー」
「これが短くなる前に帰る?」
継いだ袖には、まだ指2本分の余りがある。冬を1度越すか、2度越すか。戦と山道は、子どもの腕が伸びる速さを待たない。
「分かりません」
息子は顔を伏せた。ヴィルヘルムも急かさない。やがて少年は、自分から踵を上げた。
私は自由になった裾を集め、車に乗った。ヴィルヘルムが息子の肩へ手を伸ばしかけ、本人が身を引くと、その手も下げた。
車輪が回り始めても、息子は手を振らなかった。袖に両手を隠した姿が柱の陰へ消えるまで、私は振り返り続けた。
門を出てから、御者に止まれと言いかけた。声にすれば家政全体が止まり、息子のところへ走って戻れる。南へ行くと決めたのは誰かと、子に問われたばかりだ。唇を噛み、車輪の音を聞いた。止まれとは、言わなかった。
*
南への道で、先を行く父王からの使いが王妃家政に着いた。
「父王はバイエルンを通り、トレントからイタリアへ入られました。伯も司教も迎えに出て、パヴィアには抵抗なく入られました」
家人の顔が明るくなる。使いは喜ばず、乾いた唇を舐めた。私は水を渡した。男は2口飲んでも、次を出せない。
「ただ、宮殿が」
手が、車の縁をつかんだ。
「宮殿は、ベレンガーに壊されています」
息子に見せると言った家だった。
「どこが壊れたのですか」
「棟の名までは存じません。門から見えたところは、上の階が空でございました」
上の階。娘の部屋があった階だ。
「進みなさい。今夜は止まりません」
史実メモ:近い年代記は、父オットーが幼王をマインツ大司教ヴィルヘルムへ託し、バイエルンとトレント方面から南へ向かったと記します。アーデルハイトの同行、同じ峠、別れの場所と会話は不明で、本話の旅程は再構成です。




