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王妃の値段  作者: megu
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第50話 王なんていらない

「王になったら、母上に残れと言っていい?」


 父が話し終えて、まだ一息も置いていなかった。息子は椅子の上で足を揺らしている。床には届かない。


「言うことは、できます」

 答えると、息子はすぐに言った。

「では、残って」


 答えた途端、自分で逃げ道を塞いだ。息子は当然の顔で私を見ている。頼めば通ると思っている顔だ。


「私は南へ行きます」

「今、言っていいって言った」

「言われたことを何でもする、とは言っていません」


 子は父へ顔を向けた。


「王の言うことなのに?」


 夫は笑いかけ、すぐに真顔になった。


「王でも、母親を思いどおりにはできん」

「父上も?」

「とくに私がだ」


 今度は私が夫を睨む番だった。普段なら息子が笑うところだ。今朝は乗らない。父と母だけが知っている話には、子どもがいちばん早く気づく。


「じゃあ、どうして王になるの」


 オットーは膝に両手を置いた。


「私が南にいるあいだ、北でお前の名を守るためだ。私が帰らなかった時に、次の王を争わせないためでもある」

「帰らないの?」


 軍勢の前では迷わない男が、長く黙った。


「帰るつもりだ」

「でも、帰らないかもしれない?」

「そうだ」


 息子の足が止まった。抱こうとして、手が膝から上がらなかった。私は南へ行きたい。その欲を隠して抱けば、慰めまで嘘になる。


「ぼくが、王になりたくないと言ったら?」

「それでも、皆にお前を選んでほしいと頼む」

「決めるのは、ぼくじゃないの?」

「今は違う」


 息子は私へ向き直った。


「母上は、南へ行くのを自分で決めた?」

「ええ」

「母上は決められて、ぼくは決められないの?」


 夫が口を開く前に、私が答えた。


「私も、6歳の冬に決められました。知らない家の、知らない子との婚約です。誰も私には話しませんでした。廊下の者のほうが先に知っていました」


 夫がこちらを見た。話すな、という顔だった。


「その人と結婚したの?」

「いいえ」

「じゃあ、変わったんだ」


 息子は身を乗り出した。決められたことは変わる。幼い子が、たった今それを見つけた。


「変わりました。人が死んで、戦があって、それで変わったのです」

「ぼくのも変わる?」

「変わるかもしれません。何が要るかは、私にも分かりません」


 息子は椅子の縁を握った。指先が白くなっていた。


「約束できないことを先に言います。残ること。帰る日。あなたが王をやめること。この3つは、約束できません」

「じゃあ、何ができるの」

「嘘を言いません。分からないことは、分からないと書きます。『もうすぐ』とは、一度も書きません」


 その言い方は、イーダから借りた。もうすぐを子に置いていくな、と使いに言った人だ。


「それだけ?」

「もう1つ。あなたに関わる決め事は、廊下より先にあなたへ来ます。今朝が、そうでした」


 私は夫へ向き直った。


「約束を、もう1つ。この子に関わる決め事は、これからも廊下より先に本人へ。あなたが、この子に約束してください。私にではなく」


 オットーは眉を上げた。それから、椅子ごと息子へ向き直った。


「約束する。お前のことは、お前が先に聞く」

「じゃあ、いつ帰るか決めたら、ぼくが先に聞く?」

「そうだ」

「もう決めた?」

「決めていない」


 息子は頷いた。椅子の縁を握った指から、白さが少しだけ引いた。


「王になっても、今夜は母上の隣で寝る?」

「今夜は」


 私は答えた。明日の約束には、しなかった。


 部屋を出る前に、もう一つ教えた。この子はこれから、大人しかいない場所に立たされる。


「人の多いところで声が聞こえなかったら、同じことを3度言いなさい。3度言えば、誰か1人は聞きます」

「3度」

「3度です」



幕間――ヴォルムス、そしてアーヘン


 翌年のヴォルムスに、少年は連れていかれた。集まった男は、壁際まで詰まっていた。


 声が重なり、自分の名が屋根に何度も返った。最前列の者が膝をつくと、後ろも波のように沈んでいく。鞘の先が床を打ち、1人分の音が100人分に増えた。少年は1歩下がって、父の衣に背をぶつけた。


「前を見ろ」

 頭の上から父の声がした。


「みんな、ぼくに怒ってる?」

「選んでいる」


 怒声と歓声の違いは、まだ耳では分からない。父の手が肩に下り、背中を押した。少年は逃げず、今度は1人で半歩前へ出た。膝をつく者のうち、2人と目が合った。


5月26日、アーヘン。


 ケルンのブルーノとマインツのヴィルヘルムら、大司教たちが少年を王として塗油した。


 朝から何度も立たされ、向きを直された。油の匂いが鼻に残る。「王よ、とこしえに生きよ」と声が合うたび、少年は縮めた肩をまた伸ばした。


 喉が渇いた。前にいる男に「水」と言った。男には聞こえない。もう一度言うと、祝意だと思ったのか深く頭を下げた。3度言えば誰か1人は聞くと、母上は言った。少年は3度目を言った。誰も来なかった。


 少年も、仕方なく頭を下げ返した。



 次に息子を見た時、彼は入口で1度立ち止まった。以前なら走ってきた距離を、今日は周りの礼に合わせて歩く。私が腕を広げても、人前でよいのか迷う顔をした。


 私のほうから抱いた。聖油の匂いが先に届き、その下に汗と長旅の匂いがあった。


 幼い王は抱擁をほどくと、「水」と言った。差し出された杯を両手で持ち、ひと息で半分近く飲む。縁が歯に当たって硬い音がした。


「3度、言いましたか」

「言った。誰も聞かなかった」


 襟が首を擦り、細い赤い線を残していた。触れようとすると、息子は顔を背けた。


 アッタが2杯目を注いだ。


「王さま。次は、いちばん近い方の袖をお引きください」

「引いていいの?」

「引かれて困る者は、おりません」


 アッタは水差しを置き、下がった。


 息子は杯を置き、寝台の縁へ腰かけた。足は、まだ床に届かない。私は隣に座った。


「兄上が生きてたら、王になるのは兄上?」

「そうです」

「じゃあ、ぼくは兄上の代わり?」

「いいえ」

「どうして分かるの」


 嘘を言わないと決めたのは、あの朝の私だ。


「あなたを産んだ日、私は10まで数えて、目を閉じませんでした。11を数えて、20を数えて、乳母に腕を渡しませんでした。兄上の時は、10で閉じました」

「なんで?」

「1度見たからです。2度目のほうが、怖い」


 息子はしばらく黙っていた。


「ぼくが死んだら、次は誰?」


 膝の上で、自分の指を数えていた。途中で止めた。


「父上の親族の誰かです」

「知ってる人?」

「私は知っています。あなたは、まだ知りません」


 息子は頷いた。それだけだった。



 その夜、南行きの衣箱が開いていた。息子は袖を継いだ外套を、私の旅衣に押し込もうとしている。片腕で蓋を支え、もう片方で押すので、何度入れても裾が外へこぼれる。手伝いを呼ぶ気はないらしい。


「それは北に残します」

「ぼくも行く」

「行けません」


 息子は外套を胸に抱いた。


「ぼくは王でしょう。残れって言った」

「聞きました。それでも行きます」

「じゃあ、王なんていらない!」


 外套が投げられ、箱の金具に当たった。継いだ袖から糸が1本伸びる。私は拾わず、泣き出さない子の前に膝をついた。息子は拳で目を擦り、聖油の残る髪まで乱した。


「母上の家を見たいって言ったのに」

「覚えています」

「姉上も探すんでしょう。ぼくも探す」


 エンマの名を出せば、私が連れていくと答えると思ったのだろう。私も一瞬、箱の空きを見た。子ども1人が座れる場所なら、馬車にも部屋にも作れる。

 だが、戦の道へ連れていけば母でいられる、というのは私の欲だ。


「連れてはいけません」

 息子の顔が歪んだ。


「母上がいないなら、誰がいるの」


 答えるより先に、扉の外で足音が止まった。


 父王が戸を開けた。


「ヴィルヘルムだ」


史実メモ:961年、幼いオットーはヴォルムスで選ばれ、5月26日にアーヘンで王に立てられ、三人の大司教らから塗油されたと伝わります。母の出席や幼王の演説は記録されず、本話の母子会話は創作です。

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