第49話 継いだばかりの袖
仕立て女の針が、袖の上で動いていた。
「ベレンガーは、母上を塔に入れた人?」
針が止まった。息子のオットーは、片袖を外された外套の中で腕を広げたまま、私の返事を待っている。
リウドルフが死んで3年。去年の冬には余っていた袖から、もう手首が丸ごと出ていた。私が産んだ子は、毎朝大きくなる。
エンマを探す紙だけが、去年と同じ文面で増え続けていた。ヴェローナの娘2人が別人だと分かった後、私は修道院と司教座へ同じ触れを出させた。返事のない先には、さらに写しを送った。届かないのは、声が小さいからだと思っていた。
エンマは12になっているはずだ。私の中の顔は3歳のままだった。
「どこで、その名を聞いたの」
「廊下。ローマの人が来たって。ベレンガーから逃げてきたって」
仕立て女が、息子の腕に当てていた布を落としかけた。拾おうと手を伸ばし、針先で指を刺した。
「母上、血」
「見えています」
「塔の人?」
問いを避ければ、子は廊下へ答えを探しにいく。廊下の答えには毒が混ざる。私は滲んだ血を舐めた。
「そう。私から王妃の名も、国も、あなたの姉も奪おうとした人です」
「まだ生きてる?」
「生きています」
答えた途端、塔の湿った石と、食事を運ぶ靴音がよみがえった。あの名は、いつまでも過去にならない。
子は腕を下ろした。仕立て女が慌てて持ち上げ直す。
「では、父上が退治するの?」
息子は少し考えてから、もう1つ尋ねた。
「姉上も、そこにいる?」
針より、その問いの方が深く刺さった。
「分かりません」
嘘ではない。ヴェローナの2人を消してから、私は新しい町の名を1つも足せていない。子どもの口から出ると、戦は怪物退治ほど簡単だった。
返事をする前に、宮廷役が戸口に現れた。
「ローマより、枢機卿助祭ヨハネスと書記官アゾが参りました。王がお召しでございます」
「私も行きます」
立ち上がりかけると、裾を息子が踏んだ。
「母上も呼ばれたの?」
宮廷役が目を伏せた。それが返事だった。私は座り直し、息子の足を裾からどかす。仕立て女の針は動き始めたが、同じところを2度刺した。
「あの方たちの宿は」
「……南の棟の、下の間かと」
長旅の客へ食べる物を届けるのは王妃家政の仕事で、誰の許しも要らない。
*
夕方、盆を持って南の棟へ下りた。
「王妃さまがお持ちになる盆ではありません」
「では、あなたが持って。私は扉を開けます」
アッタは盆を取り上げ、先に廊下へ出た。
枢機卿助祭ヨハネスは咳をしていた。書記官アゾは腰を伸ばすたび顔をしかめる。輝く勅使を想像していた。板間にいたのは、泥にまみれた2人だった。
「王とのお話は、もう済みましてございます」
ヨハネスが咳の合間に言った。用件は王へ渡した、という意味だ。
「知っています。私は道の話を聞きに来ました」
アゾが顔を上げた。腰の痛みを忘れた顔だった。
「道の話でしたら、いくらでも」
アゾは喋った。峠でどれだけ待たされたか、驢馬が何頭死んだか、宿の主が水にまで銭を取ったか。話は行きつ戻りつして、同じ峠が3度出てきた。ヨハネスが2度、袖を引いた。それでも止まらない。
「帰りに、パヴィアを通りますか」
「ローマへの近道に戻れば」
「パヴィアで、旧王宮の厨房を知る者を捜して。その人へ、口で一言だけ渡して」
ヨハネスが割って入った。
「王妃陛下。我らはローマの話をしに参りました」
「使節の用でないことは分かっています。断っても構いません」
アゾはヨハネスを見た。それから、空の掌を私の前に出した。
「紙は」
「ありません。私の名も、印も要らない。『あの朝のパンを覚えている者に、会いたい』。それだけです」
「どなたが会いたいのです」
「聞かれたら、そこで初めて答えて」
アゾは腰をさすりながら立ち上がった。
「紙よりは軽い。忘れたら、ヨハネスが覚えております」
「私は覚えておらん」
ヨハネスはそう言ったが、今の一言を口の中で繰り返していた。
*
日が落ちてから、夫が仕立て部屋に来た。息子は夕餉に連れていかれ、袖を継いだ外套だけが腰掛けに残っていた。
「待たせたな」
「呼ばれませんでしたから」
棘は隠さなかった。夫は向かいに座った。
「2人は教皇の使いだ。ベレンガーとアダルベルトから、ローマを守ってほしいと言ってきた」
「それで?」
「ミラノとコモからも人が来た。オベルトもだ。来ていない者もいる。こちらが勝つまで口を閉じる者と、ベレンガーの側で得をする者だ」
「パヴィアへ、紙を持たせず一言だけ頼みました」
夫の眉が動いた。
「教皇の使いだぞ」
「断られなかったので、預けました」
「断られたら」
「私の足で行きます」
オットーは継いだ袖を持ち上げ、縫い目の裏を親指で撫でた。
「紙を増やしていたのではないのか」
「増やしました。返事はありません」
「だから、今度は口か」
「あの子を捜す時だけは、大きい声ほど遠くまで届くと思っていました」
それ以上は言わず、夫は縫い目から手を離した。
「行ってください」
「まだ返事はしていない」
「なら、してください。あの男を今度こそ王座から引きずり下ろして」
オットーの目が細くなった。
「ローマを救えという話だ」
「私のためだけでないなら、私のためでも行けるでしょう」
夫は鼻から短く息を吐いた。
「軍はその言葉では動かない」
「あなたは動く」
「私だけが動けば負ける」
自分の声が大きくなる。扉の外に聞こえると分かっていても、落とせなかった。
「私は、あの人がまた逃げるところを見たくない。生きていると聞くたび、塔の戸が閉まる。あなたが南へ行くなら、私も行きます」
夫は否定しなかった。否定されないうちに、私はさらに身を乗り出した。
「軍はいつ出せますか」
「その前に、北を決める」
「誰に任せるのです」
オットーは腰掛けの外套を手に取った。継いだばかりの袖が、彼の手から細く垂れる。
「この子を王に選ばせる」
私は外套を奪い返した。奪ってから袖の中へ手を入れ、肘の形を指で確かめた。この家に、この形の外套は1着しかない。取り違えようがない。
「あの子は、今日初めてベレンガーの名を聞いたのですよ」
「ベレンガーを知らなくても、北の王にはなれる」
「6歳にもなっていない」
「あなたは6歳で婚約を決められた」
頬を打たれたようだった。6歳の冬、父の椅子はもう空だった。母は膝を包んでくれたが、知らない少年の名までは消してくれなかった。あの夜に腹を立てて生きてきた女が、いまは自分の幼い息子を置いて南へ行きたがっている。
「私はこの家で、子を1人、土に入れました」
外套の袖を握り直した。
「もう1人を、生きているうちに人へ渡せと」
「渡すのではない。名を負わせる」
「同じです」
「違う。渡すつもりなら、私は先に話さない」
ブルーノとヴィルヘルムの名を並べた。夫は最後まで聞かなかった。
「大人に政務は任せる。王の名は息子に負わせる」
窓の外で馬が嘶いた。夫は低い声のまま続けた。
「息子を戦の道へ連れていく気はない。リウドルフの時、私は南を急がせた。その続きを、あの子にさせない」
オットーは1度、目を伏せた。
「あなたが何をされたかは知っている。知ったうえで、似たことをする。あの子が恨むなら、私を恨ませる」
「あの子は、あなたを恨む前に私に残れと言うわ」
「その時、あなたは?」
返事は出なかった。南へ行くと決めた時、私は息子をどこに残すか考えていなかった。息子を王にする決定は覆らない。誰をそばに置くかは、まだ空いている。
「では、そばに置く人の名を」
「ブルーノか、ヴィルヘルムか」
「ヴィルヘルムに」
夫が顔を上げた。
「理由は」
「3年前、私はマインツへ1行だけ書きました。あの人は返事をくれました。訊いたことに答えて、余計なことは何もない」
返書の封が途中で1度でも開かれていれば死んだ人の姿まで勝報の飾りにされるから、ヴィルヘルム本人に会って同じ答えを聞くまでは、1行を口にしないと決めていた。
「それで足りるか」
「6歳の冬、私の周りの大人は誰も、父がもう戻らないと言いませんでした。あの子のそばには、嘘をつかずにそれを言える人を置いてください」
オットーは長く黙った。頷きも、否定もしなかった。
伸ばした袖の先を握ると、新しい糸が指に食い込んだ。廊下の向こうで息子の笑い声がして、すぐに足音が遠ざかった。
「明日の朝、本人に話してください。大勢に話す前に」
「あなたも来るか」
「行きます」
オットーは頷き、もう外套には触れなかった。扉へ向かい、そこで振り返った。
「私たちの息子を」
扉が閉じてから、アッタを呼んだ。
「ローマの2人が発つ前に、伝言をもう1度」
「紙は」
「渡しません」
アッタは何も訊かず、口の中で「あの朝のパン」と繰り返した。
床に落ちた継ぎ袖の外套を拾う。新しい布と古い布の色は、灯の下でも同じには見えない。息子の袖の長さは、今朝はっきり分かった。12の娘が今どんな布を着ているのかは、縫い目一つ分も分からなかった。
史実メモ:960年、枢機卿助祭ヨハネスと書記官アゾが教皇の共同使節として、ベレンガーからイタリアとローマを守るようオットーへ求めました。北イタリアの伯・司教らも別に救援を訴えています。会見への同席は伝わらず、宿での面会と峠の徴収調べ、幼いオットーをめぐる夫婦の相談は創作です。




