第48話 九つ目の返事
馬の音が門で止まるたび、リウドルフの子オットーは走るようになった。その日も、私が廊下へ出た時には、小さな背がもう男の前にあった。
「父上は?」
「勝ちました」
南から来た使いは、膝をつくより先に笑っていた。
「リウドルフ殿はベレンガーを退け、父王のために、イタリアのほとんどを得られました」
王オットーが1度、目を閉じた。使いは息子の名を「反逆者」でも「赦された者」でもなく、勝者として告げた。この報せを、この人は何年待ったのだろう。
「いつ帰るの?」
使いの笑みが困った形になった。イーダが息子の肩に手を置く。
「勝ったことは聞きました。帰る日は?」
「そこまでは、私も」
「では次は、日を持ってきてください」
声は静かだった。父王が孫へ両手を伸ばす。子は母を見てから近づき、抱き上げられた。
宙で揺れた足の先で、私が渡した靴が光っている。踵の内側の薄い、あの靴だ。もう指1本分の余りもない。
「あれは、どなたの靴です」
イーダが訊いた。使いの前で訊くことではないと気づいたのか、すぐに声を落とす。
「王妃さまに頂いたと、この子は申しますが」
「余っていたものです」
「余ってはいなかったでしょう」
イーダはそれ以上訊かなかった。代わりに使いへ向き直る。
「帰る時は、靴を履いてくるとも言っていました」
「裸足で帰られたことが」
「1度だけ」
イーダは父王を見た。オットーは孫の背を撫でたまま、何も言わない。
「南へ戻る方に会ったら、夫に伝えてください。息子が走るようになったこと。杯を2つ割ったこと。それから、帰る日を妻に知らせない男は、勝っても褒めないと」
「全部ですか」
「最後の話を、1番先に」
使いは板を出し、言われた順に書いた。最初の1行を指で押さえて確かめている。
そのあとも南から勝報が届いた。使いの口にする地名は変わり、子の問いは変わらなかった。
「父上は、いつ帰るの?」
ある男が「きっと、もうすぐです」と答えた時、イーダはすぐに聞き返した。
「夫が、そう言ったのですか」
「いいえ。ですが、これほど勝っておられるのですから」
「では、その『もうすぐ』を、この子に置いていかないでください。毎朝、今日かと待つことになります」
男は謝った。イーダは責め続けず、夫がどこまで勝ったかをもう1度聞いた。
私も、使いが来るたびに1つだけ訊いた。リウドルフ殿から、娘の話は届いていないか。承っておりません、という返事を、私は8つまで数えた。
*
翌957年の9月、今度の使いが来た時もそうだった。私が廊下へ出ると、小さな背はもう男の前にある。
「父上は?」
使いは答えず、片膝をついた。その顔を見て、追いついたイーダの足が止まる。王の区画から呼ばれたオットーも来た。誰も子どもを部屋へ戻せないまま、使いは口を開いた。
「リウドルフ殿は、9月6日、イタリアで亡くなられました」
その子だけが、言葉の意味を待っていた。イーダの手は息子の肩に載ったまま動かない。
靴を履いて帰る、とあの人は言った。
待っています、と私は返した。
声は、それより先に出た。
「どこで」
「イタリア、とだけ」
「何があったのです」
「私は、その場にいた方から直接うかがったのではありません。死因も、町の名も、分かりません」
使いは次の言葉を探した。何か言い残したか、とは訊かない。コンラートの時、私は聞こえなかった言葉を目撃者に言わせかけた。二度はしない。
「分からないところは、そのままでよいのです。……娘の話は。私が去年お頼みした、8つの娘の」
「承っておりません」
そのままでよいと言ったばかりの口で訊いた。イーダの手が、息子の肩から浮くのが見えた。夫が死んだと聞いた女の隣で、私は自分の用を足していた。
父王が使いの前へ1歩出た。
「あれは、勝ったのか」
「はい。亡くなる前に、父王のため大きな戦果を」
「勝ったの?」
使いは最後まで言えず、頭を下げた。イーダはようやく膝を折り、息子と同じ高さになった。
「ええ。お父さまは勝ちました」
「じゃあ、いつ帰る?」
イーダの唇が震えた。子の頬を両手で挟む。
「帰りません」
「どうして?」
「死んだからです」
イーダの子は母の顔から祖父の顔へ目を移した。
「じいさまが、帰れと言えば?」
王は答えられなかった。
私の耳には、靴を履いて帰る、という声が残っている。あの約束を教えたのは私だ。その約束を、今この子に言ってやれない。
イーダは息子を抱き寄せた。幼い手が母の肩越しに祖父へ伸び、やがて力なく落ちる。
「私が行かせた」オットーが言った。「父のために行けと、私が命じた」
イーダは息子の頭を胸に押しつけたまま、義父を見た。
「はい」
「私が送らなければ、イタリアでは死ななかった」
「それも、はい」
死なせたかどうかは分からない、と前の私なら言った。イーダが先に首を振る。
「王妃さま。今夜は、慰めないでください」
「慰める言葉はありません」
「それなら、ここにいて」
*
日が落ちる前に、廊下の奥が騒がしくなった。リウドルフ亡き後の地位や領地を話し合いたい者たちが、もう集まり始めている。遺族がひと晩悲しむことさえ待てないらしい。
取次役にやらせれば、恨みはあの男が引き受ける。私は自分で廊下へ出た。
「今夜は通しません」
「王妃さま、これは公の――」
「明日の朝に。私の名で断ります」
先頭の男が、私の背後の扉を見た。中に誰がいるかを確かめる顔だった。
「王のご下命でしょうか」
「私が申しています」
「王妃さまに、その権がおありですか」
「ないと思うなら、明日の朝、王に訴えてください。今夜のことも一緒に」
男は退がった。明日の朝には全員が戻ってくる。
部屋へ戻ると、イーダは息子を膝に載せたまま起きていた。
「王妃さま。さっきの、8つの娘の話です」
「今夜はいいのです」
「よくありません」
イーダは息子の髪から手を離さずに言った。
「あの人は、去年の冬に言ってよこしました。ヴェローナで8つくらいの娘を2人見た、どちらも人をやって確かめさせた、どちらも違った、と」
「なぜ、私にではなく」
「私に書いたからです。あなたに書けば、期待させると思ったのでしょう」
膝の上で自分の手を握った。頼んだ相手は、頼まれたことをしていた。していると知らせないまま、していた。
腰帯の紐を出した。固くなった結び目を一つずつ解く。二つ目は爪が入らず、イーダが息子を片腕へ移して手を貸した。
伸びた紐には、結び癖だけが残った。
「ありがとうございました」
声が掠れた。礼を受け取る人は死んでいる。イーダは何も言わず、紐を私の掌へ戻した。
*
遺体の行き先が届いたのは、さらにあとだった。オットーは立ったまま聞いた。
「兵たちは礼を尽くし、リウドルフ殿をイタリアからマインツへお運びしました。兄君のヴィルヘルム大司教が、聖アルバンへお葬りになったと。多くの者が嘆いた、とも伝わっています」
「ヴィルヘルムが、弟を土に」
「はい。大司教ご自身が葬られたと」
オットーは頷こうとして、途中で俯いた。息子を失った父に代わって、もう1人の息子が弟を葬る役を果たしていた。
「聖アルバンには、リウトガルトもいます」
「同じ聖堂です」
「隣に?」
報告者は答えられず、目を伏せた。
「いいのです」
聖アルバンの石床を、私は見たことがない。墓が隣り合っているかは分からない。2人が同じ聖堂に眠ることだけを、自分に許した。
*
その夜、リウドルフの子オットーが祖父の部屋へ来た。昼のあいだ泣かなかった目が、赤く腫れている。
「抱いてもよいか」
オットーがイーダに訊いた。彼女は息子の手を離した。抱き上げると、王の肩がわずかに沈む。子の片足から、靴が落ちた。
私は拾った。踵の内側の薄いところに、新しい擦れが増えている。子は祖父の衣を握り、目を閉じかけて、それから言った。
「父上は、靴を履いてた?」
誰も答えなかった。使いは知らない。父王も知らない。イーダは息子の背に目を落としたままだった。
「マインツの人に訊きます」
私が言うと、子は目を開けた。
「返事、来る?」
「来ます」
「嘘だったら?」
「嘘は書かない方だと聞いています。私も、まだ会っていませんが」
父王オットーは孫の背に掌を置き、死んだ息子の名を1度だけ呼んだ。返事の代わりに、幼い胸がその手の下で上下していた。
その夜、私はマインツへ書いた。訊いたのは1つだけだった。弟君は、靴を履いておられましたか。封をして、使いに渡した。
史実メモ:リウドルフは父王と和解してイタリアへ再登用され、957年9月6日に現地で死去しました。遺体はマインツへ移され、聖アルバン聖堂に葬られます。兵たちの礼、多くの人々の嘆き、兄ヴィルヘルムによる埋葬は史料ごとに残る細部です。死因や最期の言葉は不明です。妻イーダ、幼い息子、父王、アーデルハイトが勝報と訃報を受ける場面は創作です。




