第47話 帰ります。靴を履いて
956年2月29日。
「これを、いかがいたしましょう」
アッタが両手に載せてきたのは、小さな靴だった。左右とも、踵の内側だけが薄くなっている。あの子は右足から先に踏み出す癖があった。
「そのままに」
「箱へ入れます。革は、放っておくと縮みます」
「入れないで」
アッタは動かなかった。
「縮んでからでは、どなたにも履かせられません」
「誰にも履かせません」
声が高くなった。アッタは頭を下げ、靴を窓際の棚に置いた。箱の蓋は開いたままにしていった。
入れ替わりに、宮廷役が戸口へ立った。
「ロルシュの読み合わせの刻限でございます」
行かなくてもよい席だ。書記が読み、修道院長が聞く。私は末席で頷いていればいい。私は立ち上がった。この部屋に残る理由を、一つも思いつかなかった。
*
書記の声が、王の証書を読み進めていた。
「我らの愛する妃アーデルハイトの介入により――」
「その行を、もう1度」
書記は自分の手柄のように口の端を上げ、同じ行を読み直した。戦のあいだ、廊下では何度も「異国の妃」と呼ばれた。王の名で出る文言から、私の名が抜けていた季節もある。それが戻った。戻ったことは分かる。分かるだけで、指先までは来ない。
「もう1度、と申し上げましたら」
「2度でやめておきます」
向かいに座るロルシュの修道院長が、たまらず咳払いをした。指は赤くひび割れ、口元は笑っていない。
「ごめんなさい。自分の名を喜ぶのに、少し手間取っています」
「ようこそ、お戻りに」
修道院長が初めて口元を緩めた。
「続けてください」
書記は、散らされた所領を戻し、次の修道院長を修道士たち自身で選べるようにすると読んだ。向かいの修道院長は、ひび割れた指を卓から離した。
王の役人が壁際から出てきたのは、免除の条項が読み上げられた直後だった。
「王の御一行の馬に、今夜の餌と寝藁が要ります。15頭です」
「求めてはならないと、たった今読まれました」
「ですから、命じるのではなく、願いに参りました」
役人は修道院長へ向き直り、慣れないお辞儀をした。膝の折り方を知らない男の礼だった。
「馬屋に入るのは8頭までです」
「では、残りの7頭は」
「村へお回しください。村には村の馬がおります」
役人が私を見た。8を15へ戻せと、王妃が言うのを待っている。
開いた扉から、修道院の小さな馬屋が見えた。古い寝藁の山と、王の馬のために空けられた8頭分。あと7頭を押し込めば、まず修道院の馬が雪へ出る。
「7頭は村へ。飼葉の代は王妃家政から払います。村の者には、明日ではなく今日渡しなさい」
「王妃さま」
後ろでアッタが言った。
「今日の銭は、次の宿の分でございます」
「では、私が床で寝ます」
「王妃だけ床へ寝かせれば、宿の主人が首を吊ります。四食抜いてください。残りは私が喧嘩してきます」
怒っている時のアッタは、食事と仕事を同時に減らす。
「末尾へ」
書記が日付を読んだ。それから、頼まれてもいないのに言い添えた。
「4年に1度しかない日でございます」
4年。子どもの足なら、その間に靴を2度は買い替える。棚に置いてきた小さな靴が浮かんで、私は卓の縁を握った。
修道院長が立ち上がり、深く頭を下げる。
*
その年のうちに、今度はリウドルフ本人が部屋へ入ってきた。旅の外套のまま、靴の踵に乾いた泥。
「ブルーノ叔父上にボンへ招かれました。父上は、私にイタリアを任せるそうです」
「2つとも、あなたの口から聞けるとは思いませんでした」
「私も、王妃に告げに来るとは思いませんでした」
腰掛けを勧めたが、座らない。彼の目が窓際の棚で1度止まった。小さな靴のことは、訊かなかった。私も言わなかった。
「叔父上は、何と」
「まず食べろと。そのあと、父上の命令を聞けと」
「お説教は」
「食事のあとに、たっぷりと」
「またイタリアへ行くのは、怖くないのですか」
「前は父上より先に入り、門を得て、失いました。今度は父上に命じられて入ります」
「答えになっていません」
「怖いです。失敗すれば、父上がもう1度任せてくれることはない」
「赦されたのに、それでは足りない?」
「父上の食卓で黙って年を取れば、私は死ぬまで『赦された反逆者』です」
この人が欲しいのは、もう1度失うかもしれない仕事なのだ。
「私のために戦うとは、言わないのですね」
「言った方がよいですか」
「いいえ。それは嘘です」
「父上のために行きます。あなたが王妃でなくても、私は自分の失ったものを取り返しに行ったでしょう」
「あなたのイタリアへ行きます」
「まだ私のものではありません」
「先に取り返した方のものですか」とリウドルフが続けた。
「またお父上と争うつもり?」
「冗談です」
「あなたがそういう冗談を言うと、軍が動くのよ」
リウドルフが声を立てて笑った。前に会った時より頬がこけている。それでも笑うと、最初に婚姻を告げに来た頃の若さが戻った。
「イーダと、オットーは」
「ここに残します。帰ったら、今度は父上から息子を受け取るつもりです」
「お父上は、落とさないと言っていました」
「私にも、もっと早くそう言えばよかったのです」
助け舟は出さなかった。リウドルフは腰帯の端を1度だけ握り、離した。
頼むなら、今しかない。頼めば、あの子は南へ行く男の荷の1つになる。値を付けられる物になる。牢にいた4か月、私が一度も娘の居場所を訊かなかったのは、それが怖かったからだ。
「ひとつ、頼みがあります」
「どうぞ」
腰帯から、結び目が二つ残る紐を出した。レヒの戦の日、南から届いたものだ。
「ヴェローナに、候補が二人います。見つけた者は、耳の後ろまで確かめられなかった」
自分の声が乾いた。
「エンマは948年の生まれです。私が最後に見たのは3つの時。いま8つになります」
「顔は」
「分かりません」
リウドルフは黙った。急かしもしなかった。
「印は」
「耳の後ろに、細い月のような形が。ただ、左か右か、私はもう自信がありません」
ミラノの灯へ問わせたのと、同じ問いだ。あちらの返事も、まだ来ていない。
「ほかには」
「片方の靴を隠す癖がありました。寝台の下に。私が見つけると、両腕を上げて笑いました」
言ってしまってから、それが何の役にも立たないことに気づいた。リウドルフは目をそらさなかった。
「その癖は、5年もあれば直ります」
「知っています。5年前に、片方の靴を寝台の下に隠したこと。私が持っている印は、それだけです」
リウドルフは慰めを言わなかった。しばらく床を見て、それから顔を上げた。
「訊く先を決めておきます。修道院と、市場の女と、門役。子どもを隠す家は、その3つのどれかを必ず通ります」
「見つからなくても、報せてください。見つからなかったという報せも、私は数えます」
「数えて、どうなさる」
「消していきます。消した町には、二度と人をやりません」
リウドルフは少し考え、頷いた。
「約束はしません。訊くだけです」
「それで足ります」
扉へ向かいかけて、彼は振り返った。
「では、帰ります。靴を履いて」
私は、今度は笑わなかった。
「待っています」
*
リウドルフが去ったあと、私は棚の靴を取った。革はまだ縮んでいない。
中庭では、イーダの息子が石を並べていた。父の従者たちの馬らしい。並べ終えるたび、崩して最初からやり直している。
「足を見せて」
リウドルフの子オットーは素直に片足を上げた。踵を合わせると、指2本分の余りがあった。
「これを履きなさい」
「誰の」
「ハインリヒの」
「ぼくのになる?」
「なります」
子は靴を両手で抱え、母のところへ走っていった。走りながら、片方を落とした。
私は拾って、追いかけた。
史実メモ:956年2月29日のロルシュ文書D176には、アーデルハイトの介入で修道院の権利を回復したことが記されます。別の近い史料は、ブルーノがリウドルフを宥め、父王が彼へイタリアを委ねたと伝えます。947年条が名指すリウドルフの妻はイーダです。文書の読み合わせ、王妃が自分の名を二度読ませる場面、出立前の別れは創作です。




