第38話 まだいない王子の椅子
「父上は、この子に王国を約したのですか」
リウトガルトは、オットーが椅子に座る前に訊いた。
マインツを囲んで50日を越えた。王軍後方の修道院まで、外套は雨と煙の臭いを運んでくる。夫の袖には、乾いた血がついていた。窓際の揺り籠で、ハインリヒが眠っている。
連れてきたのは私だ。春に約束した。道が王のものになったら連れて行く、と。途中、焼けた荷車の脇を通った。それでも馬車の中では、娘が夫に問いを投げる場面を、私は何度も思い描いていた。
「なぜ、お前がここにいる」
オットーは揺り籠を見ず、娘の泥靴を見た。
「私が来ると決めました」
リウトガルトは片方の乗馬手袋を卓に置いた。革が乾いた音を立てる。もう片方は、春から揺り籠の縁にある。
「私が連れてきました」
私も言った。連れてきた者が黙っているのは卑怯だ。
オットーは2人を見比べた。怒る相手が増えたせいで、かえって声が低くなる。
「春に、残れと命じたはずだ」
視線が私に移る。言い逃れはしない。
「いまは夏です。道には父上の兵がいます」
「その道でも人は死ぬ」
オットーは血のついた袖を上げた。リウトガルトの顔がこわばる。
「ここにいても、夫と兄の名で人が死んでいます」
リウトガルトは退かなかった。揺り籠に一度目をやり、同じ問いを繰り返す。
「この子に王国を約したのですか」
指を揺り籠の縁に置く。赤子にも、父にも触れない。
「約していない」
答えは早かった。胸から息が抜けた。
「なら、そう仰ってください」
「誰にだ。壁の内か、外か」
「城壁の内にも、外にも。兄が奪われたと思っている者に」
「その次は何を言う。リウドルフを、いまも私の後に立てると」
リウトガルトが黙った。欲しかったのは、そちらの答えでもある。
「父上は、兄を人々の前に立たせました。私もそばにいました。父上が兄の肩に手を置いた時、その衣を握りました。汗で湿っていた」
「覚えている」
右手が上がりかけた。いまは、手を置く息子の肩がない。
「兄も覚えています。私も忘れていません」
「だから、城を固めてよいのか。それが息子の答えか」
「違います。ですが、城を固めた罪で、その前の約束まで消えるのですか」
オットーは卓に両手をついた。右の掌がわずかに震えている。
「いま認めれば、息子は兵を集めれば王から答えを取れると知る。退ければ、城内の者は降りた途端にすべてを失うと思う。赤子に与えると言えば、それこそ嘘だ」
三方とも塞がっている。塞いだ半分は、この人自身だ。もう半分は、揺り籠の中で眠っている。
「黙っている間も、人は死にます」
私は言った。
「私の沈黙を原因にするな」
声が初めて大きくなった。揺り籠の子が身じろぎする。
「諸侯の誇りも、私の弟への憎しみも、コンラートの受けた恥もある。お前の子一人から始まった戦にするな。そうすれば、リウドルフまで愚か者になる」
言い返せなかった。揺り籠には一人の子しかいない。そこへ何年分もの傷を負わせたのは、私も同じだ。
「では、兄と会ってください」
リウトガルトが言った。
「そのための使いを出している」
オットーは、朝に騎手を出した方角へ顎を振った。まだ座ろうとしない。
「王の条件ばかり持たせ、父の言葉は預けなかったのでしょう」
使いを見てもいないのに、当てた。
「王でなければ、この人数を止められぬ」
「王の言葉では、兄は戻りません」
オットーが、先に目を逸らした。
*
リウトガルトが礼拝堂へ去ると、オットーはようやく座った。血は、負傷した従士を馬から下ろした時についたという。
私は湯で布を濡らした。袖の血を拭っても、布が赤くなるだけで、男の命は戻らない。
「私を、娘と一緒に責めたかったのか」
彼は腕を差し出したまま訊いた。声にも疲れがある。
「一人では、あなたが答えないと思いました」
布を返す。血のついていない面は、もうわずかだった。
「娘を盾にしたな」
オットーが袖を引く。私は離さなかった。
「しました」
認めると、オットーは怒らなかった。袖を引くのもやめた。
「あの方は、自分で来ると言いました。それでも、あの方がいればあなたが父親に戻ると、私は思った」
「戻っただろう」
「約束はしてくれなかった」
「できない約束をする父が欲しいのか」
「帰る場所を残す父が欲しいのです。あの方にも、リウドルフにも」
血の跡は薄くなった。袖には黒い染みが残る。
「それと、私の名をきれいにしてほしかった。王妃は古い息子を退けていないと、あなたの口で言ってほしかった。私は何もしていない顔で、ここから帰りたかった」
「お前も動いた。いま、ここへ来たように」
「ええ。あの方を連れてきて、答えを取ろうとしました」
「その前に、私と婚姻し、息子を産んだ。それは罪ではない。だが、リウドルフの明日を変えなかったとも言えない」
揺り籠から小さな声がした。私が抱き上げるより先に、オットーが近づいた。父の指を、ハインリヒは寝ぼけたままつかむ。オットーは以前のように息を止めなかった。50日の間に、手だけは赤子の重さを覚えていた。
「この子に王国を約してはいない」
彼は息子を見て言った。
「信じます」
私は夫の手に自分の指を重ねた。赤子を挟んでも、2人の考えは近づかない。
「だが、リウドルフの先を、いまここでは約さない」
「それも、本人に言って」
オットーは返事をしなかった。代わりに、眠る子の手を自分から外さずにいた。
*
夕方、糧の荷が着いた。麦の袋を数えていると、荷方の一人が帽子を取った。
「王妃さま。ケルンからお預かりした物が、荷の底に。盗まれてはおりません、私が下へ入れましたので。上に入れると雨で駄目になりますし、去年など上に入れた者がおりまして、それがもう、袋ごと」
「出してください」
「ただいま」
男は袋の間へ潜り、腰を打って唸り、麻に包んだ束を出してきた。
封は、王弟ブルーノのものだった。年に一度、ミラノの灯が消えていないかを北へ知らせる。それを頼んだのは私だ。去年は届かなかった。今年のものが、戦の荷の底から出てきた。
灯は消えていない、とあった。油の代も、祈りの回数も揃っている。その下に、もう一枚あった。前の王ロターリオの墓を訪ねてきた者の名。
名は7つ。6つは巡礼と商人で、司祭が素性まで添えている。7つ目に、名がなかった。
――名を告げぬ女、一度。銀を1枚置き、灯の油に使えと言う。連れはなし。去り際に、二度折る子は屋根の下で眠っている、と司祭へ言い置いた。
「その触れは、市で読み上げさせました」
アッタが手元をのぞいて言った。
「2年前です。聞いた者は、300人ではききません」
「ええ。私が配りました」
二度折る、という言葉を都じゅうへ流したのは私だ。だからこの一行は、娘のそばにいた人にも、娘を見たことのない人にも書ける。銀を置いていった、という一点だけが、私に息を吸わせた。
市場に同じ触れを立てる方法は捨てた。あれは娘より先に、娘を名乗らされる子を増やした。
ブルーノには、灯を守る司祭から修道院へ、油を売る女から市場へ、巡礼の宿から門役へ、声だけで辿ってもらう。王妃の印を見せず、褒賞も先に置かない。
私の記憶は細い羊皮紙へ封じた。耳の後ろ。細い月。左右は、分からない。
最後の一語を認めた途端、腹の底が冷えた。私は麦袋の口を開き、腕を肘まで差し入れた。乾いた粒が皮膚を押し返す。
「王妃さま」
「少し、このままで」
アッタは袋を倒れないよう抱えた。私は、娘の肌ではなく麦に触れている手を、しばらく抜けなかった。
*
包囲が60日に近づいた朝、城門から和平の一行が出た。
王軍の後ろまで、人の声が波のように伝わってくる。私とリウトガルトは、修道院の上階から道を見下ろした。
先頭にリウドルフがいる。その隣を、赤公コンラートが歩いていた。夫を見つけたリウトガルトの爪が、窓の木枠に食い込む。
城壁と王の陣の間には、夏の日を受けた土しかない。2人はそこを、供より先に進んできた。
「兄は、父に何を渡すのでしょう」
「分かりません」
リウドルフはオットーの前で止まった。
そして、父の足もとで膝を折った。
史実メモ:同時代のフロドアールは、以前リウドルフへ委ねられた王国を、王が現在の妻から生まれた男児へ約すと「伝えられていた」と記します。確定した移譲・廃嫡命令ではありません。本話の父娘の直問答とオットーの私的な否定、修道院からの目撃は創作です。




