第37話 片方の乗馬手袋
その日の暮れ、厩の戸が開いていた。中でリウトガルトが鞍を待っている。旅の外套を着て、片方の乗馬手袋は、もうはめていた。
「どこへ行くのです」
「夫のところへ」
厩の若い者が腹帯を締めようとして、二度手を滑らせた。王の娘に馬を出せば叱られる。出さなければ、目の前の人に叱られる。どちらで叱られるかを、自分では選べない顔だった。
「あなたの落ち度にはしません」
リウトガルトが言うと、若い者は深くうなずいて、また手を滑らせた。その手が三度目に止まったのは、門の外で蹄が鳴ったからだ。2頭。
「城が一つではありません」
騎手は馬を降りる前に叫んだ。今朝、使いを捜しに出した2人のうち、年上の方だった。
「フランケン、ザクセン、バイエルンから人が集まっています。若者が多い。守りを固めた城も、いくつも」
オットーが中庭を横切ってきた。厩の帳面を、まだ手に持っている。
「誰のもとへ集まっている。名を言え」
「リウドルフ殿下と、赤公コンラートの側へ」
リウトガルトが騎手の前へ出た。手袋をはめた手が、もう片方の手袋を握っている。
「兄を見ましたか。夫は」
「お二人のお姿は見ておりません。ですが、城壁の上でも道でも、その名で人を呼んでおりました」
「名なら、誰でも使えます。兄が自分の口で言ったと、聞いたのですか」
「……そこまでは」
「一つの城なら、そう言えた」
オットーは娘を見ない。目は騎手に据えたままだった。
「いくつもの城で、同じ二人の名を呼び、兵を入れている。反乱だ」
声は低かった。低いまま、厩の隅まで届いた。
「父上。私は、兄の声をまだ聞いていません」
「私の息子だ。娘婿でもある。二人の反乱だ」
言い直した。怒鳴られる方が、まだましだった。
「鞍を置け。供は動ける者だけでよい」
厩へ走る者が増えた。リウトガルトはその流れに入ろうとした。
「お前は残れ」
「私は、コンラートの妻です。夫のいる所がお前の家だと、嫁がせた日に父上が仰いました」
「あの日と今日は違う」
「私は同じです」
革が指の間で鳴った。もう片方の手袋に、指を入れる。
「お前が行けば、あちらは王の娘を得たと見られる」
「夫が私を人質に使うとお思いですか。それなら、なぜ妻にしたのです」
オットーの喉が動いた。返す言葉より先に、王の意地が口を閉じる。
「行かないで」
2人がこちらを向いた。リウトガルトの指が、手袋の縁で止まる。
「あなたも、私を閉じ込めますか。父上と同じように」
「ええ。行かせたくありません」
眉が上がった。理由を待っている。道の危険。王の娘という立場。並べれば、いま父が負けたのと同じ場所で、私も負ける。
「あなたが夫を選ぶのが怖い。出ていったまま戻らないのは、もっと怖い」
「戻ると誓えば。それでも止めますか」
「止めます。道にいる兵は、その誓いを知りません」
リウトガルトは長く私を見た。値踏みなら、好きなだけすればいい。私は言い足さずに待って、それから一つ差し出した。
「代わりに約束します。道が王のものになったら、私があなたを連れて行きます。夫にも兄にも、あなたの口から話させます」
「王妃の約束ですか」
「私の約束です。破ったら、私を責めてください。王妃を責めても、誰も答えません」
やがて、はめかけた手袋が引き抜かれた。
「言っておきます。私が聞いたのは、あなたの願いです」
「分かっています」
オットーが何か言おうとした。娘はもう父を見ていない。
「私が言っても、退かなかった」
厩を出るとき、オットーは私にそう言った。褒めた声ではなかった。
*
夜半、リウトガルトは父の居室へ戻らず、私の部屋に寝床を求めた。出されたパンを二つに割ったまま、口へ運ばない。
「兄が、この子を害すると思いますか」
揺り籠の中で、ハインリヒは頬の脇に拳を置いて眠っている。小さな爪を見ながら答えた。
「思いたくはありません。でも、知りません」
「よかった。二度会っただけで兄の心が読めると言われたら、あなたを嫌いになれた」
リウトガルトはようやくパンを一口かじった。
「今も嫌いで構いません」
「困ります。嫌いな女の部屋で眠るのは、ひどく寒そうですから」
「寝床は好き嫌いでは冷えません。薪を惜しめば冷えます」
火のそばでアッタが言った。2人とも笑わなかったが、リウトガルトは残りのパンも食べた。
*
出ていく騎馬は、王の一行とは思えないほど少なかった。鞍の並ぶ間から、中庭の石が広く見える。私はハインリヒを抱き、リウトガルトと並んだ。オットーは馬上から子の顔を一度見た。
「兄を殺さないでください」
「あれが私に剣を向けなければ」
「夫は」
オットーは答えなかった。
「二人とも、あなたの家族です。帰る場所を残してください」
「だから、私に約束させるな」
その一言は、父の声だった。リウトガルトは唇を噛み、うなずかなかった。オットーの手が娘へ伸びかけ、触れる前に手綱へ戻る。
「帰ってきてください」
私は言った。
「王にか。王なら、帰るとは約束できぬぞ」
「夫にです。王の約束は求めません」
オットーは短く息を吐き、馬首を返した。蹄の音が門の外へ消えても、リウトガルトは片方の手袋を握ったままだった。
エンマも、靴を片方だけ隠して、片方だけ履いて廊下を走った。捕まっても笑っていた子だ。
*
復活祭の前、王に従っていた男が夜半に戻った。外套の裾まで乾いた泥に覆われ、声が嗄れている。
「王はインゲルハイムに着かれました。ですが、敵の中で祝日を迎えるのは危ういと、マインツへ移られました」
「父は無事なのですね」
リウトガルトが、私より先に訊いた。
「はい。ただ、マインツでも門外に長く立たされました。王を、あれほど待たせるとは」
男はそこで自分の外套の泥を掌で払い始めた。もう落ちない泥だった。
「中へは入れたのですか」
「辛うじて。リウドルフ殿下と赤公も王前へ来られました。王に敵対することは何もしていない、と」
リウトガルトの手の中で、手袋が鳴った。
「では、戻るのですか」
「いいえ。お二人は、王弟ハインリヒさまがインゲルハイムへ来ていれば捕らえるつもりだったことを、否定なさいませんでした」
ハインリヒ。腕が先に動いた。頭が同じ名を二つに分ける前に、私は幼子を抱き寄せていた。
「その子ではありません。怯えなくていい」
リウトガルトの声に責める響きはなかった。
「叔父上のことです。兄が捕らえようとしたのは」
「分かっています。頭では」
腕の力は、すぐには抜けなかった。リウトガルトは急かさずに待った。彼女が両手を差し出す。ためらった腕の固さを、見られた。息を吐き、幼子の頭を支える場所を示して、その腕に預ける。
ハインリヒは目を覚まし、見知らぬ腕の中で口を歪めた。泣き出す前に、リウトガルトの指を握る。
「兄は、この子の顔も見ていない」
彼女は小さな手を見たまま言った。指先に、赤子の爪が白く重なる。
「それなのに、この子に王国を奪われるのだと、もう皆が言っているのでしょう」
「陣でも、聞きました」
泥の男が目を伏せたまま言った。
「私は、聞かなかったことにしております。あの、うまく申し上げられませんが、聞いてしまうと、その、皆で本当にしてしまいますので」
「では、皆に見せます」
私は言った。リウトガルトが顔を上げる。
「道が王のものになったら、この子を連れて王のところへ行きます。あなたも」
「連れて行くと言いましたね」
「ええ」
リウトガルトはハインリヒを抱いたまま、片方の手袋を揺り籠の縁へ置いた。
「では、支度をします。今度は、あなたが私を止めない番です」
史実メモ:近い年代記は953年春、リウドルフと赤公コンラートが支持者を集めて城を固め、公然の反乱を示したと記します。オットーのマインツ移動も史料にありますが、本話の父娘の争い、王の出立、リウトガルトが幼い弟を抱く場面は創作です。




