第36話 半日先の馬
王妃の使いは、戻るはずの日を3日過ぎても帰らなかった。ハインリヒの泣き声だけが、日ごと太くなる。門番は蹄の音がするたび顔を上げる。入ってくるのは薪、野菜、知らない旅人ばかりだった。
ヴェローナへ出した問いは、先に二つ戻っていた。一つは、その年頃の子はいない。もう一つは封も切られず、宛てた家は空だと添えられていた。否定できた一軒には炭を引いた。空の家は消せず、板の端へ移した。
次に待っているのは、リウドルフへ向かった男だ。待つ相手だけが増えていく。
「鞍を」
命じると、アッタが先に厩の戸口へ立った。両腕を広げ、鞍を背に隠す。
「どいて」
「乗れません」
「試してもいないでしょう」
「昨日、階段の途中で座りました」
見られていた。睨むと、アッタも睨み返した。
「行けても、帰りは誰に運ばせるのです」
鞍へ伸ばした手を下ろした。産後の身体は、王妃の焦りでは馬に乗らない。乗れないなら、乗る者の耳と口を作る。捜す騎手を2人呼んだ。
「捕らえた者を探せばよいのですね」
年上の騎手が訊いた。もう敵の顔を思い浮かべている。
「使い本人を探して。敵はまだ作らないでください」
「3日も戻らないのです」
「だから、死んだとも裏切ったとも決めません。どの門で、誰に、何と名乗ったか。訊かれたことと、答えたこと。それを順に聞いてきて」
騎手は不満そうだったが、手綱を取った。2頭が門を出ると、私は追えない自分の足を、衣の上からつかんだ。
*
昼前に、厩の帳面が届いた。運んできた者は、返す刻限まで言い置いて出ていく。夫の名で借りた物には、刻限がつく。
開くと、日と、馬の毛色と、乗った者の名。名を上から追った。
4行目で、指が止まった。私は、どの帳面でも同じ1つを探している。ここに載るはずのない名を。
エンマ。
息を吐いて、指を戻した。
私の使いが出た日の朝に、1行、行き先の欄が空いている。名の欄には「王の用」とある。
「これは」
厩役を呼んだ。先日、王の物だと言った男だ。
「王の印を見せられました。行き先は言われませんでした」
「名は」
「名乗られません。印がありましたので」
「顔は」
「……顔は。手だけ覚えています。手綱を、左でしか持ちませんでした」
「私の使いより、先に出たのですね」
「半日ほど、先です」
*
「リウドルフとコンラートに、同じ使いを出す」
オットーは昼の卓で言った。食べかけの肉が皿で冷えている。
「二人とも来い」
「何のために呼ぶのです」
「私に不満があるなら、私の前で言わせる」
「同じ日に」
「別々に呼べば、先に会って口を合わせる」
その答えには、もう二人を一組にした恐れが滲んでいた。リウドルフに送った私の使いは、まだ戻らない。そこへ父王の召し出しが追いつけば、謝りたい言葉も脅しの先触れに変わる。
「二人を同じ罪人のように呼べば、本当に同じ側に立ちます」
「罪人とは書かない」
「書かなくても、同じ使いが同じ日に来れば分かります」
戸が大きく開いた。冷たい風と、若い女がいっしょに入ってくる。
「なら、私の名も書いてください」
外套も脱いでいない。リウドルフと同じ目をしている。
「リウトガルト」
オットーの声が父親のものに変わった。
「兄と夫を一枚に並べるのでしょう。二人を結んでいる私を外すのは、なぜです」
リウドルフの妹であり、赤公コンラートの妻。
「座りなさい」
「父上が答えてから」
乗馬手袋も外していない。
「夫は、ベレンガーを王前へ連れてきました。父上は3日待たせ、国を戻した。兄は、先に約された席の前に赤子を置かれた。腹を立てた理由まで同じにしないで」
言葉が速い。怒ると早口になるところも、兄に似ている。
「二人が会えば、理由など後から一つになる」父の声は、また王の声に戻っていた。
「では父上が、一つにするのですね」リウトガルトの声は震えた。目は伏せない。
「婚姻が役に立つ時は、私は王の娘でコンラートの妻です。都合が悪くなれば、男たちの話に口を出す女になる」
オットーが椅子から立った。リウトガルトは退かない。私は二人の間へ半歩出て、止まった。割って入れば、彼女の視線まで私に向けさせることになる。
「私は、夫の不満を聞きます」私の出る幕を残さない声だった。「兄の答えまで、私に運ばせないでください」
その目が、こちらに向いた。頼もうとしていたことを、見抜かれていた。
「あなたの使いが戻らないから、次は私を道にするつもりでしょう」
否定はできなかった。頼む言葉まで、胸に用意してあった。
「ええ」
取り繕えば、さらに侮辱になる。
「リウドルフに、私は彼の席を求めていないと届けたい」
「あなたが息子を産んだあとで」
「産んだから、急いでいます」
怒りとも哀れみともつかないものが、兄に似た口元を固くした。
「遅い」
反論は出なかった。産声より、噂の方が早かった。
「それでも届けたい」
「なら、あなたの使いを見つけて。私は代わりになりません」
リウトガルトは父に向き直った。
「夫を呼ぶなら、夫の名だけで。兄を呼ぶなら、兄の名だけで。私を役に立たない娘に戻したくないなら」
オットーは長く黙った。卓の肉は、冷えて固まっていた。
「二人に、別の使いを出す」
オットーも私も、冷えた肉に手を戻さない。リウトガルトはようやく座ったが、父を見なかった。
*
夕刻、捜索の2騎より先に、1頭の馬が門へ入った。泡を吹いた馬の上で、男が前へ倒れている。門役が鞍から引き下ろした。
私は階段を下りた。腰が痛んだが、今度は座らない。アッタが腕を取るのも拒まなかった。
男は泥で色を失った外套のまま、膝をつこうとした。脚が崩れ、片手を石につく。
「立たなくていい。けがは」
「ありません。馬も、休ませれば」
アッタが水を持ってくると、男は両手で器を抱えた。半分を飲み、残りを馬の口に運ばせる。
「リウドルフに会えましたか」
水を飲み終えるまで、待てなかった。自分の声が責める響きになる。
「いいえ」
安堵が来て、その直後に沈んだ。生きている。届いていない。
「私の言葉は」
男が乾いた唇を開いた。切れた所から血がにじむ。
「まだ、私の口にあります」
彼は息を整え、一語ずつ繰り返した。
「ハインリヒさまがお生まれになった。アーデルハイトさまは、リウドルフ殿下の席を求めていない」
男の肩に手を置いた。泥が掌に移る。
「戻ってくれてよかった」
「届けられませんでした」
「それでもです」
肩が一度震えた。失敗を責める声を、待っていたのだ。
「どこで止められたのです」
オットーとリウトガルトも中庭に来ていた。
「名を知らない城です。王妃の使いだと告げました。誰に伝える言葉か聞かれ、リウドルフ殿下本人にと」
「中身を言えと」
「はい。申せば通すと」
「なぜ言わなかったのです」
問いがまた速くなった。帰還を喜んだ直後に、もう責任を探している。疲れた目に、怒りが戻った。
「殿下本人に、と命じられました」
私の命令だった。言葉を変えさせないための一言が、使いの逃げ道を塞いだ。
「私のせいで3日失ったのですね」
「違います。私が言わないと決めました」
男が初めて強い声を出した。
「王妃さまの名を使って、王妃さまの命令を破るわけにはいかなかった」
褒めれば、次も同じ無茶を求めることになる。謝れば、この人の「私が決めました」を取り上げる。肩から手だけは離さなかった。
「それから」
「夜まで待ちました。別の道も探しました。朝にもう一度名を告げると、内側で横木が落ちました。誰の旗もありません。誰が命じたかも聞けませんでした」
騎手たちに渡した並びを、生きて戻った本人に使う。どの門で。誰に。何と名乗ったか。訊かれたこと。答えたこと。
「その門は、他の者も止めていましたか」
「いえ。薪の荷が、私の前に通りました」
リウトガルトが一歩近づく。手袋を外した指が白い。
「兄の名は」
「門の者からは、一度も」
彼女の頬がわずかに緩み、すぐ固くなった。
「一つの城だ」オットーが言った。数を小さく保つ声だ。
「はい。一つです」
私は認めた。恐れに、国じゅうを渡す気はない。
「でも、一人を止めるには、一つで足ります。もう一つ、聞いてください」
昼の帳面を抱えてきていた。行き先の欄の空いた行を、指で押さえる。
「この馬は、私の使いより半日早く、この門を出ています。名の欄は『王の用』。行き先は空。乗り手は、手綱を左手だけで持つ男でした」
オットーがそれを取った。目が上から下へ動き、途中で止まる。
「私の用ではない」声が低くなった。「王の印を持って、私の厩から出た馬だ」
リウトガルトが父の手元を覗き込む。
門の外で、蹄が鳴った。2頭。捜索へ出した騎手が帰るには、早すぎる刻だった。
史実メモ:リウトガルトがオットーとエドギタの娘、リウドルフの妹、赤公コンラートの妻であることは史料上の家族関係です。近い史料は953年の支持者結集と城塞化を伝えます。本話の父娘対面、一括召喚案、王妃の使い、本人宛てを守った遅延、地名不明の一城と閉門は創作です。




