第35話 もう一度、泣いて
誰も、生まれた、と言わない。
痛みが退いたあと、部屋には泣き声を待つ耳ばかりが残っていた。火が爆ぜても、誰もそちらを見ない。冬の朝だ。右手には、握り潰した布。左手はアッタの指をつかんだままだった。
「子は」
乾いた唇から、それしか出なかった。舌に血の味がする。
女たちの腕の中で布が動く。細い声が一度上がり、すぐに切れた。静けさが戻る。女たちの手が、布の向こうで動いている。
「もう一度」
身を起こそうとした。腰の奥から痛みが噛みつき、寝台に落ちる。
「お願い。もう一度、泣いて」
小さな喉が息を吸った。私も同じ息を吸う。今度は長く泣いた。高く、怒ったように。部屋じゅうの女が一度に息を吐く。
「男のお子です」
「息をしているのですね」
性別は耳を通り過ぎた。欲しい答えは1つしかない。
胸に連れてこられた子は、顔を赤くして泣いている。布の隙間へ指を入れた。小さな胸が上がる。下がる。また上がる。10まで数える。10まで止まらなければ、一度だけ目を閉じてよい。そう決めた。
1。2。3。
……10。
目を閉じた。開けると、子はまだ泣いていた。
女たちが湯の桶を運び出す。水は赤い。それについては、誰も何も言わない。
「抱かせて」
腕を開くと、身体の方が先に形を思い出した。頭を支える場所も、胸に寄せる角度も知っている。エンマを抱いた腕だ。娘の重さはもう曖昧なのに、腕だけが忘れていなかった。
涙がこめかみに流れた。子は泣きながら顔を動かし、胸元に口を寄せる。アッタが空いた手を曲げた。私が握っていた指は、赤く腫れている。
「痛かったでしょう」
「王妃さまほどでは」
アッタは腫れた指を袖の中へ入れた。
「比べなくてよいのです」
「では、痛かったです」
笑うと、腹も腰もまた痛んだ。痛くても、止められなかった。
*
オットーが入ってきた時、子は胸で眠っていた。扉の外には、知らせを待つ靴音が重なっている。
「乳母を2人つけた。1人は南の言葉が分かる。夜は交替で入れる。荷は3日動かさない」
「3日で足りますか」
「足りなければ5日にする」
寝台から2歩の所で止まったまま、手配を並べた。子の顔は、まだ見ていない。
「見ないのですか」
「見ている」
「見ていません」
オットーは黙った。それから、2歩ぶんを詰めた。
「小さすぎる」
敵の城を見る時より慎重な声だった。
「さきほどまで私の中にいたのです。大きければ、もっと困りました」
笑いかけて、寝台の血のついた布を見て黙る。私は布を隠さなかった。この子を、きれいな出来事にされては困る。
「触らないのですか」
「壊れそうだ」
「城門を押す手では、そうでしょうね」
睨まれた。やがて指が1本伸び、子の頬に触れる寸前で止まる。私はその指を取って、布の隙間へ入れさせた。
「胸の上です。上がるのが分かりますか」
「分かる」
「10まで数えてください」
オットーの唇が動いた。声は出ていない。数え終えても、指を抜かない。
「10です」
「もう10」
2度目を数えるあいだ、この人は王国のことを何も言わなかった。数え終えた時、子の指が父の指にかかる。3本の指では、大人の1本も囲めない。
「つかんだ」
「何でもつかみます。あなたを選んだわけではありません」
「厳しい母だ」
声はうれしさを隠せていない。つかまれた指を、自分から外そうとしない。
「ハインリヒ」
オットーが名を呼ぶ。私も、子の額に口を寄せた。
「ハインリヒ」
叔父と同じ名を、リウドルフがどう聞くか。一瞬考えて、やめた。その恐れまで産床に入れれば、この子は名を呼ばれた時から兄の敵になる。
「私たちの間に生まれた、最初の息子です」
「そうだ」
「私はエンマの母です。あなたはリウドルフとリウトガルトの父です」
「それも、そうだ」
「今日は短く答えますね」
「長く答えると、あなたはまた喧嘩を始める」
子を二人の間に抱き直した。三人の呼吸が重なる短い間、誰も王国を口にしなかった。
*
数日後、祝福を伝えに来た取次役が、息子を次の王と呼びかけた。
「王と王妃の間に男子がお生まれになりました。王の後に立つ、新しい――」
「やめて」
声が強すぎた。腕の中のハインリヒが肩を震わせ、泣き出す。子をあやしながら、取次役を見た。男の笑みは、まだ消えていない。
「王がこの御子に王国を約したと、聞いております」
「王から」
「いえ」
王から聞いていない言葉を、王の祝福として運んできた。
「では、誰に教わった口上です」
「私は、書かれた通りに読みました。読み違えてはおりません」
取次役は、両手を腹の前で組み直した。
「読み違えの話はしていません。誰に教わったかを訊いています」
「……皆が、そのように」
皆。便利な言葉だ。誰でもあって、誰でもない。
「では、あなたにそう言えと命じたのは誰です」
取次役の笑みが、ようやく消えた。
「……祝いの帳をあずかる書記が、皆に、読み上げるようにと」
「呼んで」
書記は蝋板を抱えて来た。祝いの席次が並んでいる。
「王から聞いたのですか」
「いえ」
「では、この子が誰の後に立つのか、あなたはどこで知ったのです」
書記は答えなかった。蝋板の縁を握る指が白くなる。
「祝いは書きなさい。席は書かないで。席を決める方は、まだ口を開いていません」
書記は板を胸に伏せて下がった。取次役も、口上の続きを言わなかった。産室が、祝いの分だけ静かになる。
「王妃さま。お顔の色が」
「あとで」
「あとでは、私が王に叱られます」
アッタは湯を運び、私の手から子を取らずに布を替えた。取り上げれば、私が立つと知っている。
腕の中で、子が泣きやまない。布の隙間へ指を入れた。1。2。3。数えているあいだ、この部屋に席はない。
オットーを呼ばせた。待つ間も、子は細い声で泣き続けた。扉が開いた。彼は泣く子を見てから、私を見た。子が先だったことを、私は覚えておく。
「あなたが、この子に王国を約したのですか」
「命じていない」
「約したのですか」
オットーは答えなかった。否定より長い沈黙だった。子の泣き声が、沈黙の中で大きくなる。
「私が産んだのは、この子です。リウドルフの終わりまで産んだ覚えはありません」
「私が以前、息子を後に立てたことも、この子が生まれたことも消えない」
オットーは子を見ていない。私の顔も見ていない。卓の木目を見ている。
「だから、本人に話して」
「私の時に話す」
「あなたの時を待たず、皆の口が話しています」
卓の縁で、オットーの指が一度鳴った。
「私は私の分だけ届けます」
子をアッタに預け、寝台から足を下ろした。床に立った途端、膝が震える。生ぬるいものが、また腿を伝った。
「横になってください」
アッタの声を振り切れなかった。立って出すはずだった命令を、寝台に戻って言う。
「リウドルフに。ハインリヒが生まれたこと。私が、リウドルフの席を求めていないこと。それだけを、私の名で」
オットーは止めなかった。代わりに、私の震える膝から目を逸らした。
「馬は王厩から出す」
「使う名は私です」
「分かっている」
*
王妃の使いが馬に乗るところを、窓から見た。立つことは許されず、アッタが先に椅子ごと窓辺へ運ばせていた。使いは一度こちらを見上げ、胸に手を当てる。馬が門へ向かう。
繋ぎ場には、空の綱が1本揺れていた。先に出た馬の汗が、杭に残っている。
「あの馬は」
「先に出ました」厩役が答えた。「新しい男子が生まれれば、古い息子は終わる、と」
厩役は指の腹で杭の汗をこすった。乾いていない。出たのは、そう遠い刻ではない。それでも、こちらへは目を向けない。
「誰が乗って行ったのです」
「……存じません」
「厩の帳面を持ってきて。今日、門を出た馬を、全部」
厩役は動かなかった。
「王の厩の帳面です。王妃さまの物ではありません」
腕の中で、ハインリヒが乳を探して口を動かした。窓の下では、私の使いの馬がもう門を抜けている。先の馬は、半日ぶん先にいる。
「では、王に頼みます」
史実メモ:同時代のフロドアールは、王に「現在の妻」から男児が生まれ、以前リウドルフへ委ねられた王国を王がその子へ約すと「伝えられていた」と記します。妻と子の固有名はこの文にありません。妻をアーデルハイト、男児をハインリヒとするのは文脈・出生順との照合で、産室と宮廷の反応は再構成です。原語は `ferebatur` で、確定した移譲・廃嫡命令ではありません。




