↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃の値段  作者: megu
PR
36/50

第35話 もう一度、泣いて

 誰も、生まれた、と言わない。


 痛みが退いたあと、部屋には泣き声を待つ耳ばかりが残っていた。火が爆ぜても、誰もそちらを見ない。冬の朝だ。右手には、握り潰した布。左手はアッタの指をつかんだままだった。


「子は」


 乾いた唇から、それしか出なかった。舌に血の味がする。


 女たちの腕の中で布が動く。細い声が一度上がり、すぐに切れた。静けさが戻る。女たちの手が、布の向こうで動いている。


「もう一度」


 身を起こそうとした。腰の奥から痛みが噛みつき、寝台に落ちる。


「お願い。もう一度、泣いて」


 小さな喉が息を吸った。私も同じ息を吸う。今度は長く泣いた。高く、怒ったように。部屋じゅうの女が一度に息を吐く。


「男のお子です」

「息をしているのですね」


 性別は耳を通り過ぎた。欲しい答えは1つしかない。


 胸に連れてこられた子は、顔を赤くして泣いている。布の隙間へ指を入れた。小さな胸が上がる。下がる。また上がる。10まで数える。10まで止まらなければ、一度だけ目を閉じてよい。そう決めた。


 1。2。3。


 ……10。


 目を閉じた。開けると、子はまだ泣いていた。


 女たちが湯の桶を運び出す。水は赤い。それについては、誰も何も言わない。


「抱かせて」


 腕を開くと、身体の方が先に形を思い出した。頭を支える場所も、胸に寄せる角度も知っている。エンマを抱いた腕だ。娘の重さはもう曖昧なのに、腕だけが忘れていなかった。


 涙がこめかみに流れた。子は泣きながら顔を動かし、胸元に口を寄せる。アッタが空いた手を曲げた。私が握っていた指は、赤く腫れている。


「痛かったでしょう」

「王妃さまほどでは」


 アッタは腫れた指を袖の中へ入れた。


「比べなくてよいのです」

「では、痛かったです」


 笑うと、腹も腰もまた痛んだ。痛くても、止められなかった。



 オットーが入ってきた時、子は胸で眠っていた。扉の外には、知らせを待つ靴音が重なっている。


「乳母を2人つけた。1人は南の言葉が分かる。夜は交替で入れる。荷は3日動かさない」

「3日で足りますか」

「足りなければ5日にする」


 寝台から2歩の所で止まったまま、手配を並べた。子の顔は、まだ見ていない。


「見ないのですか」

「見ている」

「見ていません」


 オットーは黙った。それから、2歩ぶんを詰めた。


「小さすぎる」


 敵の城を見る時より慎重な声だった。


「さきほどまで私の中にいたのです。大きければ、もっと困りました」


 笑いかけて、寝台の血のついた布を見て黙る。私は布を隠さなかった。この子を、きれいな出来事にされては困る。


「触らないのですか」

「壊れそうだ」

「城門を押す手では、そうでしょうね」


 睨まれた。やがて指が1本伸び、子の頬に触れる寸前で止まる。私はその指を取って、布の隙間へ入れさせた。


「胸の上です。上がるのが分かりますか」

「分かる」

「10まで数えてください」


 オットーの唇が動いた。声は出ていない。数え終えても、指を抜かない。


「10です」

「もう10」


 2度目を数えるあいだ、この人は王国のことを何も言わなかった。数え終えた時、子の指が父の指にかかる。3本の指では、大人の1本も囲めない。


「つかんだ」

「何でもつかみます。あなたを選んだわけではありません」

「厳しい母だ」


 声はうれしさを隠せていない。つかまれた指を、自分から外そうとしない。


「ハインリヒ」


 オットーが名を呼ぶ。私も、子の額に口を寄せた。


「ハインリヒ」


 叔父と同じ名を、リウドルフがどう聞くか。一瞬考えて、やめた。その恐れまで産床に入れれば、この子は名を呼ばれた時から兄の敵になる。


「私たちの間に生まれた、最初の息子です」

「そうだ」

「私はエンマの母です。あなたはリウドルフとリウトガルトの父です」

「それも、そうだ」

「今日は短く答えますね」

「長く答えると、あなたはまた喧嘩を始める」


 子を二人の間に抱き直した。三人の呼吸が重なる短い間、誰も王国を口にしなかった。



 数日後、祝福を伝えに来た取次役が、息子を次の王と呼びかけた。


「王と王妃の間に男子がお生まれになりました。王の後に立つ、新しい――」


「やめて」


 声が強すぎた。腕の中のハインリヒが肩を震わせ、泣き出す。子をあやしながら、取次役を見た。男の笑みは、まだ消えていない。


「王がこの御子に王国を約したと、聞いております」

「王から」

「いえ」


 王から聞いていない言葉を、王の祝福として運んできた。


「では、誰に教わった口上です」

「私は、書かれた通りに読みました。読み違えてはおりません」


 取次役は、両手を腹の前で組み直した。


「読み違えの話はしていません。誰に教わったかを訊いています」

「……皆が、そのように」


 皆。便利な言葉だ。誰でもあって、誰でもない。


「では、あなたにそう言えと命じたのは誰です」


 取次役の笑みが、ようやく消えた。


「……祝いの帳をあずかる書記が、皆に、読み上げるようにと」


「呼んで」


 書記は蝋板を抱えて来た。祝いの席次が並んでいる。


「王から聞いたのですか」

「いえ」

「では、この子が誰の後に立つのか、あなたはどこで知ったのです」


 書記は答えなかった。蝋板の縁を握る指が白くなる。


「祝いは書きなさい。席は書かないで。席を決める方は、まだ口を開いていません」


 書記は板を胸に伏せて下がった。取次役も、口上の続きを言わなかった。産室が、祝いの分だけ静かになる。


「王妃さま。お顔の色が」

「あとで」

「あとでは、私が王に叱られます」


 アッタは湯を運び、私の手から子を取らずに布を替えた。取り上げれば、私が立つと知っている。


 腕の中で、子が泣きやまない。布の隙間へ指を入れた。1。2。3。数えているあいだ、この部屋に席はない。


 オットーを呼ばせた。待つ間も、子は細い声で泣き続けた。扉が開いた。彼は泣く子を見てから、私を見た。子が先だったことを、私は覚えておく。


「あなたが、この子に王国を約したのですか」

「命じていない」

「約したのですか」


 オットーは答えなかった。否定より長い沈黙だった。子の泣き声が、沈黙の中で大きくなる。


「私が産んだのは、この子です。リウドルフの終わりまで産んだ覚えはありません」

「私が以前、息子を後に立てたことも、この子が生まれたことも消えない」


 オットーは子を見ていない。私の顔も見ていない。卓の木目を見ている。


「だから、本人に話して」

「私の時に話す」

「あなたの時を待たず、皆の口が話しています」


 卓の縁で、オットーの指が一度鳴った。


「私は私の分だけ届けます」


 子をアッタに預け、寝台から足を下ろした。床に立った途端、膝が震える。生ぬるいものが、また腿を伝った。


「横になってください」


 アッタの声を振り切れなかった。立って出すはずだった命令を、寝台に戻って言う。


「リウドルフに。ハインリヒが生まれたこと。私が、リウドルフの席を求めていないこと。それだけを、私の名で」


 オットーは止めなかった。代わりに、私の震える膝から目を逸らした。


「馬は王厩から出す」

「使う名は私です」

「分かっている」



 王妃の使いが馬に乗るところを、窓から見た。立つことは許されず、アッタが先に椅子ごと窓辺へ運ばせていた。使いは一度こちらを見上げ、胸に手を当てる。馬が門へ向かう。


 繋ぎ場には、空の綱が1本揺れていた。先に出た馬の汗が、杭に残っている。


「あの馬は」


「先に出ました」厩役が答えた。「新しい男子が生まれれば、古い息子は終わる、と」


 厩役は指の腹で杭の汗をこすった。乾いていない。出たのは、そう遠い刻ではない。それでも、こちらへは目を向けない。


「誰が乗って行ったのです」

「……存じません」

「厩の帳面を持ってきて。今日、門を出た馬を、全部」


 厩役は動かなかった。


「王の厩の帳面です。王妃さまの物ではありません」


 腕の中で、ハインリヒが乳を探して口を動かした。窓の下では、私の使いの馬がもう門を抜けている。先の馬は、半日ぶん先にいる。


「では、王に頼みます」


史実メモ:同時代のフロドアールは、王に「現在の妻」から男児が生まれ、以前リウドルフへ委ねられた王国を王がその子へ約すと「伝えられていた」と記します。妻と子の固有名はこの文にありません。妻をアーデルハイト、男児をハインリヒとするのは文脈・出生順との照合で、産室と宮廷の反応は再構成です。原語は `ferebatur` で、確定した移譲・廃嫡命令ではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。