↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王妃の値段  作者: megu
PR
35/53

第34話 王母の杖

 伸ばした手の甲に、磨いた木が冷たく当たった。マティルデの杖が、私を止めている。


「その文書に、まだ触らないで」


10月15日、フローゼ。


 卓には、クール司教ハルトベルトが運んだ古い羊皮紙が重なっている。色も折り目も、名を置いた王も違う。


 立って読むには、卓が遠い。腹が先に縁へ当たる。椅子を引かせて、浅く座った。


「昔の王たちが、同じ土地を教会に認めています」


 言うと、マティルデは鼻を鳴らした。黴の匂いを嫌う顔だった。


「古い紙は、古いというだけで正しくなるのですか」


「母上」オットーが止める。

「お黙り。あなたはついこの間、新しい紙でベレンガーを王にしました」


 王の口が閉じた。ハルトベルトは目を伏せた。


 私は手を引いた。門では、泥の男より先に紙が通った。今度の紙が運ぶのは私の望みだ。それだけの理由で、疑いもせずに手を伸ばしていた。


「確かめてください」


 悔しさは飲んで、場所を譲った。杖の先が卓の前へ進む。



 マティルデは一通を明かりへ持ち上げ、透かした。折り目を開き、蝋の欠けた縁を親指で押す。削り跡が二重になっている所では、指を止めて長く見た。私が追っていたのは同じ所領名の繰り返しで、この人が探していたのは、後から足された行だった。


「この束を、どこから出しましたか」

「聖具室の櫃です。二通は、火のあとに拾いました」

「焦げのある方が古いのですね」

「はい」


 ハルトベルトは一通ずつ来歴を語った。どこで守られ、誰の代からクール教会にあり、どの所領名が繰り返されるか。


 王側の役人は、羊皮紙ではなく自分の靴先を見た。


「奪った者が分かりません。命令を持って行っても、受け取る者がいないと言われれば戻るしか」


「では、戻ってきた使いは、誰に戸を閉められたのか覚えて帰れますね」


 役人が黙った。罰する相手は不明でも、返す相手は目の前にいる。ハルトベルトは遠い道を抱えたまま、束から手を離さない。


「先の王たちが認めた土地を、今の王にも奪われたままにしないでいただきたい」


 私は椅子から立った。六か月の腹が卓につかえ、羊皮紙が一枚ずれた。


「使いを出してください。司教側から一人、王側から一人。片方だけ帰れば、どこで別れたか分かります」


「冬前に一往復できる保証はない」オットーが言った。

「なら、冬を越す食糧も持たせて」

「誰の家政から出す」


 答える前に、磨いた杖が床を鳴らした。


「まだです」


 その老女が、別の所で切った。広間の視線が集まる。


「まだ何が」

「私が読み終えていません」


 振り向いた私は、たぶん、勝ちかけた物を取り上げられた顔をしていた。


「私の願いに、お名前を貸していただくだけでも」

「貸しません」


 一息で断たれた。王側の者が、あからさまに肩を下ろす。


「なぜ、あなたが安心するのです」


 マティルデの声で、その肩がまた上がった。オットーが口元を手で隠す。


「名は布ではありません。貸して、用が済めば返してもらう物ではない」


 老女は最後の文書を裏返し、継ぎ目まで指でなぞった。急ぐ者を困らせる遅さだった。


「夫が死ねば、その夫の約束は古いと言われます。息子が王になれば、母の記憶は口出しと呼ばれる。私は、その言い方が嫌いです」


 マティルデはハルトベルトを見た。司教も目を逸らさない。


「同じ土地が、違う王の文書に繰り返されています。私は私のために、これを今の王に継がせます」


「では、貸さないでください」私は言った。「あなたの願いとして、あなたが出してください。私は横に立ちます」


「今日の骨は、あなたが折りました」

「今日は、土地が動けばそれでかまいません」


 マティルデは私を長く見た。それから、杖の先を床から離した。


「では、並んでいただけますか」

「私が先です」


「母上」


 オットーが呆れた声を出す。王より息子の顔だった。


「母と妻の順なら、母が先でしょう」


 マティルデは王の右に立った。私はハルトベルトの側から回り、老女の隣に立つ。肩は触れなかった。



「先の王が認めたものを、息子の代で消さないでください」マティルデが言った。杖を両手の間に立てている。


「奪った者の名を待つあいだ、奪われた側だけを待たせないでください」私が続けた。隣から老女の息遣いが聞こえる。


「二人で言葉を分けてきたのか」

「いいえ。この嫁は放っておいても喋ります」


 私は笑った。笑うと腹が張って、息を整えるのに少しかかった。マティルデは笑っていない。


 オットーはしばらく二人を見て、ハルトベルトに向き直った。降参より、計算の済んだ顔だった。


「先王たちの文書を更新する。挙げられたアルザスの所領について、クール教会の権利を我が代でも認め、戻す」


「使いは二人。替え馬と冬越しの食糧は、母と妻の家政から半分ずつ出します」


「半分ずつではありません」マティルデが言った。「母が先です」


「銭の順までですか」

「当然でしょう」


 オットーはこめかみを押さえ、王側の役人へ出立の支度を命じた。


 司教は頭を下げた。手が離れた時、指の跡が白く残っていた。


 書記の声が新しい文言を読み上げた。


「尊ぶべき我らの母と、愛する妻の介入と進言により――」


 母。妻。私の名は呼ばれなかった。自分でそう頼んだ。頼んだ通りになると、喉の奥が乾く。


「今度は先に聞いた」オットーが低く言った。声を二人に落としている。


「ええ。答えが違う日も、そうしてください」

「今日くらい勝たせろ」


 疲れた笑いの混じる声だった。満ちた杯の夜から初めて、私も夫と同じことに笑えた。


 ハルトベルトは文書を抱え直した。来た時より重いはずの腕は、もう震えていない。


「土地そのものは、今日戻ってはきません」

「分かっています」

「それでも、戻せと言った王の言葉を持って帰れます」


 司教の足取りは、来た時より速かった。


 人がはけると、マティルデは卓の文書をそろえ始めた。手伝おうとすると、杖でまた止められる。


「あなたは、あの一行に自分の名が欲しかったのですね」


 嘘をつく理由がなかった。


「はい」

「私もです」


 老女はそれを抱えて先に行った。杖の音が、廊下の角で消える。


 散会のまぎわ、書記が別の一枚を読んだ。王が、王妃の母ベルタへ、エルシュタインの修道院を与える。


 偽の手紙のあとで、本物の母から届いた最初の音沙汰が、これだった。娘への言葉は、ない。娘の再婚は、母の手元で修道院一つになった。


 マティルデは、名を貸さない。私の母は、名を受け取る。どちらが正しいかは、考えないことにした。考えると、いつかエンマの手元に、私が何になって届くのかまで見えてしまう。



 廊下は冷えている。腹の子が右の脇腹を内から押した。この子は、まだ名前を持っていない。


 その廊下に、リウドルフが待っていた。壁に背を預けている。肩の位置が、扉が開いた時から動いていない。


「祖母上と並んだそうですね」リウドルフの声は冷えていた。


「昔の土地を返しただけです」

「廊下では、次に王子をお産みになる相談だと」


「生まれるのは冬です。男か女かも、まだ誰も知りません」


 腹に手を置きそうになり、止めた。その動きすら、この人には答えに見える。


「噂の中では、もう男です」


 リウドルフは笑わなかった。父に似た目が、若く傷ついている。


「その子には私の椅子まで用意されている。私の椅子を使って」


 彼は私の横を通り、父王の区画へ向かった。半歩ぶん道を譲ったのは、私の方だった。


 3歩行って、振り向かずに言う。


「冬には、私はここにいません」

「どこへ行くのです」

「決まれば、父上がお知らせになるでしょう」


史実メモ:952年10月15日フローゼ発給の原本D157は、クール教会のアルザス所領への権利を「尊ぶべき母と愛する妻」の介入で更新します。二人の同席や会話は記しません。母ベルタへのエルシュタイン修道院付与は953年の記録で、本話の席へ引き寄せたのは本作です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。