第34話 王母の杖
伸ばした手の甲に、磨いた木が冷たく当たった。マティルデの杖が、私を止めている。
「その文書に、まだ触らないで」
10月15日、フローゼ。
卓には、クール司教ハルトベルトが運んだ古い羊皮紙が重なっている。色も折り目も、名を置いた王も違う。
立って読むには、卓が遠い。腹が先に縁へ当たる。椅子を引かせて、浅く座った。
「昔の王たちが、同じ土地を教会に認めています」
言うと、マティルデは鼻を鳴らした。黴の匂いを嫌う顔だった。
「古い紙は、古いというだけで正しくなるのですか」
「母上」オットーが止める。
「お黙り。あなたはついこの間、新しい紙でベレンガーを王にしました」
王の口が閉じた。ハルトベルトは目を伏せた。
私は手を引いた。門では、泥の男より先に紙が通った。今度の紙が運ぶのは私の望みだ。それだけの理由で、疑いもせずに手を伸ばしていた。
「確かめてください」
悔しさは飲んで、場所を譲った。杖の先が卓の前へ進む。
*
マティルデは一通を明かりへ持ち上げ、透かした。折り目を開き、蝋の欠けた縁を親指で押す。削り跡が二重になっている所では、指を止めて長く見た。私が追っていたのは同じ所領名の繰り返しで、この人が探していたのは、後から足された行だった。
「この束を、どこから出しましたか」
「聖具室の櫃です。二通は、火のあとに拾いました」
「焦げのある方が古いのですね」
「はい」
ハルトベルトは一通ずつ来歴を語った。どこで守られ、誰の代からクール教会にあり、どの所領名が繰り返されるか。
王側の役人は、羊皮紙ではなく自分の靴先を見た。
「奪った者が分かりません。命令を持って行っても、受け取る者がいないと言われれば戻るしか」
「では、戻ってきた使いは、誰に戸を閉められたのか覚えて帰れますね」
役人が黙った。罰する相手は不明でも、返す相手は目の前にいる。ハルトベルトは遠い道を抱えたまま、束から手を離さない。
「先の王たちが認めた土地を、今の王にも奪われたままにしないでいただきたい」
私は椅子から立った。六か月の腹が卓につかえ、羊皮紙が一枚ずれた。
「使いを出してください。司教側から一人、王側から一人。片方だけ帰れば、どこで別れたか分かります」
「冬前に一往復できる保証はない」オットーが言った。
「なら、冬を越す食糧も持たせて」
「誰の家政から出す」
答える前に、磨いた杖が床を鳴らした。
「まだです」
その老女が、別の所で切った。広間の視線が集まる。
「まだ何が」
「私が読み終えていません」
振り向いた私は、たぶん、勝ちかけた物を取り上げられた顔をしていた。
「私の願いに、お名前を貸していただくだけでも」
「貸しません」
一息で断たれた。王側の者が、あからさまに肩を下ろす。
「なぜ、あなたが安心するのです」
マティルデの声で、その肩がまた上がった。オットーが口元を手で隠す。
「名は布ではありません。貸して、用が済めば返してもらう物ではない」
老女は最後の文書を裏返し、継ぎ目まで指でなぞった。急ぐ者を困らせる遅さだった。
「夫が死ねば、その夫の約束は古いと言われます。息子が王になれば、母の記憶は口出しと呼ばれる。私は、その言い方が嫌いです」
マティルデはハルトベルトを見た。司教も目を逸らさない。
「同じ土地が、違う王の文書に繰り返されています。私は私のために、これを今の王に継がせます」
「では、貸さないでください」私は言った。「あなたの願いとして、あなたが出してください。私は横に立ちます」
「今日の骨は、あなたが折りました」
「今日は、土地が動けばそれでかまいません」
マティルデは私を長く見た。それから、杖の先を床から離した。
「では、並んでいただけますか」
「私が先です」
「母上」
オットーが呆れた声を出す。王より息子の顔だった。
「母と妻の順なら、母が先でしょう」
マティルデは王の右に立った。私はハルトベルトの側から回り、老女の隣に立つ。肩は触れなかった。
*
「先の王が認めたものを、息子の代で消さないでください」マティルデが言った。杖を両手の間に立てている。
「奪った者の名を待つあいだ、奪われた側だけを待たせないでください」私が続けた。隣から老女の息遣いが聞こえる。
「二人で言葉を分けてきたのか」
「いいえ。この嫁は放っておいても喋ります」
私は笑った。笑うと腹が張って、息を整えるのに少しかかった。マティルデは笑っていない。
オットーはしばらく二人を見て、ハルトベルトに向き直った。降参より、計算の済んだ顔だった。
「先王たちの文書を更新する。挙げられたアルザスの所領について、クール教会の権利を我が代でも認め、戻す」
「使いは二人。替え馬と冬越しの食糧は、母と妻の家政から半分ずつ出します」
「半分ずつではありません」マティルデが言った。「母が先です」
「銭の順までですか」
「当然でしょう」
オットーはこめかみを押さえ、王側の役人へ出立の支度を命じた。
司教は頭を下げた。手が離れた時、指の跡が白く残っていた。
書記の声が新しい文言を読み上げた。
「尊ぶべき我らの母と、愛する妻の介入と進言により――」
母。妻。私の名は呼ばれなかった。自分でそう頼んだ。頼んだ通りになると、喉の奥が乾く。
「今度は先に聞いた」オットーが低く言った。声を二人に落としている。
「ええ。答えが違う日も、そうしてください」
「今日くらい勝たせろ」
疲れた笑いの混じる声だった。満ちた杯の夜から初めて、私も夫と同じことに笑えた。
ハルトベルトは文書を抱え直した。来た時より重いはずの腕は、もう震えていない。
「土地そのものは、今日戻ってはきません」
「分かっています」
「それでも、戻せと言った王の言葉を持って帰れます」
司教の足取りは、来た時より速かった。
人がはけると、マティルデは卓の文書をそろえ始めた。手伝おうとすると、杖でまた止められる。
「あなたは、あの一行に自分の名が欲しかったのですね」
嘘をつく理由がなかった。
「はい」
「私もです」
老女はそれを抱えて先に行った。杖の音が、廊下の角で消える。
散会のまぎわ、書記が別の一枚を読んだ。王が、王妃の母ベルタへ、エルシュタインの修道院を与える。
偽の手紙のあとで、本物の母から届いた最初の音沙汰が、これだった。娘への言葉は、ない。娘の再婚は、母の手元で修道院一つになった。
マティルデは、名を貸さない。私の母は、名を受け取る。どちらが正しいかは、考えないことにした。考えると、いつかエンマの手元に、私が何になって届くのかまで見えてしまう。
*
廊下は冷えている。腹の子が右の脇腹を内から押した。この子は、まだ名前を持っていない。
その廊下に、リウドルフが待っていた。壁に背を預けている。肩の位置が、扉が開いた時から動いていない。
「祖母上と並んだそうですね」リウドルフの声は冷えていた。
「昔の土地を返しただけです」
「廊下では、次に王子をお産みになる相談だと」
「生まれるのは冬です。男か女かも、まだ誰も知りません」
腹に手を置きそうになり、止めた。その動きすら、この人には答えに見える。
「噂の中では、もう男です」
リウドルフは笑わなかった。父に似た目が、若く傷ついている。
「その子には私の椅子まで用意されている。私の椅子を使って」
彼は私の横を通り、父王の区画へ向かった。半歩ぶん道を譲ったのは、私の方だった。
3歩行って、振り向かずに言う。
「冬には、私はここにいません」
「どこへ行くのです」
「決まれば、父上がお知らせになるでしょう」
史実メモ:952年10月15日フローゼ発給の原本D157は、クール教会のアルザス所領への権利を「尊ぶべき母と愛する妻」の介入で更新します。二人の同席や会話は記しません。母ベルタへのエルシュタイン修道院付与は953年の記録で、本話の席へ引き寄せたのは本作です。




