第33話 名を言わない旅人
「王の文書は中へ。その男は外で待たせろ」
秋雨の門で、乾いた盆と泥だらけの男が分けられた。雨粒は、盆を庇う外套だけを叩いている。盆には羊皮紙の写し。男の片方の靴は底が剥がれ、紐で足首に縛りつけてある。盆の紙は濡れず、男は門の外で濡れていた。順序が逆だ。
「逆にしてください」
門役が聞き違えた顔をした。盆を抱く腕に力が入る。
「紙を雨に出せと」
「男を中へ。紙は濡れない所で待てます」
夫は、9月に南から写しが届くと言った。写しと一緒に人が来るとは、言わなかった。
男は礼を言わなかった。門役に水を渡されても、まず匂いを嗅ぐ。
「毒は入っていません」
言うと、男は水から顔を上げた。濡れた髪が額に張りついている。
「王妃さまが先に飲みますか」
疑われて、腹は立った。立ったが、この人の足には都までの泥が何層も乾いている。ここまでの道で、知らない水を何度差し出されてきたか。
器を受け取り、一口飲んで返した。男は残りを一息で飲み干した。よほど渇いていた。
盆の写しには、9月9日、パヴィアで発せられた文書の最初の行があった。雨を避けた文字は、どこも滲んでいない。
ベレンガー王。アダルベルト王。
アウクスブルクで膝を折った父子が、南へ戻ると、また二人の王として名を置いている。屈服は、称号を一文字も削らなかった。
「あなたは、これを見て来たのですか」
訊くと、男は盆を睨んだ。自分より先に通される物を睨む目だった。
「字は読めません」
「では、何を見たのです」
「……馬です」
答えが、遠い所から来た。
「馬」
「馬を出せと言われました。18頭いました。18頭、みんな。それから、家の者を減らせと」
「誰が言ったのです」
「馬に乗った人らです」
「名は」
男は剥がれた靴を引いた。雨だれが、外套の裾から石へ落ちる。
「言ったと思います。でも、私は牝馬の脚を見ていた。前の日に蹄鉄を打ち直したばかりで」
男は器を置き、両手を膝に載せた。
「私が見たのは、厩が空になったこと。弟が門の内側に残ったこと。それだけです。主人が連れていかれたのは、あとで聞いた」
「ベレンガーの――」
「知りません」
私が言い切る前に、男は切った。
「王妃さまが欲しい敵の話なら、私は持っていません」
腹が立った。正しいから、なおさらだった。
「弟さんの名は」
「言いません」
即答だった。話の順番はどこも乱れているのに、ここだけは乱れない。
「助けるには、名が――」
「助けられるのですか」
答えが喉につかえた。
「……分からないのですね」
男は剥がれた靴を引いた。それから、盆の方を長く見た。
「言いません。王妃さまは弟を助けられない。けれど、弟の名を持っていくことはできる」
男は盆へ一度だけ目をやり、剥がれた靴の紐を結び直した。
「あれは濡らさないのに、私は濡らすのですね」
門役が顔を背けた。私にも返す言葉はなかった。
*
日が落ちると、門役は男を立たせた。冷えた膝がすぐには伸びない。
「日が落ちたあと、身元の知れない者を内には置けません」
横木が持ち上げられる。門外の旅人小屋まで戻すという。雨は強くなっていた。
「私の客です」
男まで顔をしかめた。助かった、という顔をしていない。
「朝には出ます」
「帰れば捕まるかもしれません」
「帰らなければ、弟が、私も捕まったと思う」
「帰しません」
言ってから、自分の声を聞いた。塔の門を閉めた男も、同じ調子で話した。
「一晩だけ」
今度は男が決めた。私は横木を下ろさせた。
王妃家政の客間に入れると、家政役が泥の靴を見た。高い身分の客に整えた敷物を巻き、古い藁を運ばせる。
「敷物はそのままに」
止めると、男が首を振った。敷物より先に、自分の懐を心配している。
「濡らした分を、私が払うことになる」
彼は敷居で靴を脱いだ。紐の下の皮膚が赤く裂けている。底のある靴は、片方だけ。娘が寝台の下に隠したのも、片方だった。あの子の足がいまどれだけ大きくなっているのかを、私は知らない。
アッタが湯と布を置き、触れずに離れた。距離の測り方が、この侍女はいつも正しい。男は煮豆を半分だけ食べた。残りは布に包む。明日の道の分だ。
「王妃さま。今夜、あの戸口に誰を立たせますか」
「誰も要らないでしょう」
アッタは湯の桶を抱えたまま、戸口から動かない。返事を待つ顔だ。
「あの方のためです。朝に何かなくなっていたら、疑われるのはあの方です」
考えていなかった。私が守ったつもりの一晩は、朝になれば、あの人が盗んだかどうかの話になる。
「家政から1人。名の分かる者を」
「もう立たせてあります」
戸口の見張りが決まると、アッタが乾いた小包を出した。マルティンからだった。旧宮で聞き取りを済ませた女たちの名が7つ。末尾に、川沿いの礼拝堂を預かったので、北へは戻らず、そこを南の聞き取りの拠点にする、とある。紙の隅には油染みが1つついていた。
「食べているようです」
「1食ぶんは」
南は任せる、と返した。封をすると、アッタは空いていた椅子を壁へ寄せた。
*
「一人目が、もう来たのか」
オットーは客間の向かいで、濡れた外套を見ていた。床に落ちる雫を靴先で避ける。
「始末はあなたがつけろと言ったのは、あなたです」
「宴で腹を立てた女に言った」
「腹を立てたまま言ったことも、言ったことです」
オットーは笑わなかった。宴の喧嘩が、王廷の部屋を1つ使っている。
「名も主人も明かさない男を、王廷に入れた。ベレンガーを陥れるために送られた者なら」
「私も、そう使おうとしました」
眉が上がった。私が並べるはずの弁明を、別の形で待っていたように見えた。
「ベレンガーの命令だと言わせたかった。この人は、知らないと答えました。私より止まれた人です」
客間の向こうで、器の触れる音がした。眠っていない。
「明日、帰すのか」
「本人は帰ると言っています」
「あなたは」
迷った。留めれば、弟を危うくするかもしれない。帰せば、次の門で消えるかもしれない。どちらも私には決めきれない。
「新しい靴を渡します。王の印を着けない者を1人、最初の市まで同行させてください」
「その先は」
「守れません」
客間の器の音が、止まっていた。
「よい」オットーは言った。「供は印を外し、最初の市で離れる」
客間の戸が開いた。男は古い靴を両手に持って立っている。
「離れる時は、私が決めます」
「そうしろ」
王と旅人は、それだけで話を終えた。男は戸を閉める前に、私を見た。
「朝には出ます。横木を上げてください」
保護された客の声ではなく、帰る者の声だった。
*
翌朝、彼は新しい靴を履いた。古い靴も捨てず、紐で束ねて肩に掛ける。
「なぜ持っていくのです」
男は肩の靴を見て、しばらく黙った。
「……いや。要るかと」
「要るのですか」
「要ります」
言ってから、男は自分で首を振った。
「違う。弟が、これを知っています。これなら、遠くからでも」
それだけ言うと、男は雨上がりの門を出た。新しい靴が、濡れた轍に最初の跡を残す。跡は外へ続き、やがて雨水に呑まれて見えなくなった。
入れ替わるように、王母マティルデが現れた。
「濡れた男を、家の中で寝かせたそうですね」
「はい」
「その者の名は」
「聞いていません」
杖の先が、石の目地に入って止まった。老女は先を続けない。
「名も知らない者に、あなたの名を使わせたのですか」
「使わせていません」
言い直した。
「……門で、私の客だと言いました」
マティルデは濡れた轍を杖で指した。その先から、羊皮紙を抱えた男が上ってくる。
「こちらはクール司教ハルトベルト。名前も、用件も、証文もあります。昔の王たちに開けてもらいに来ました」
史実メモ:952年9月9日、服属後のベレンガー父子がパヴィアで王号を用いて文書を発給したことは確認できます。近い年代記は帰国後の圧迫を伝えますが、本話の写し、名を伏せる厩働き、弟、王妃が先に飲む水、一夜の宿、新旧の靴、夫婦会議は創作です。個別被害を実在人物の命令とは断定しません。




