第32話 鎖のない手
「追いつきました。ですが、討ってはおりません」
赤公コンラートの使いは、泥のついた膝を床に落としたまま続けた。唇の端まで白く乾いている。
「公はベレンガーに、王の前へ出るよう勧めました。捕虜としてではありません。ともに北へ向かっております」
喉まで上がった声が、途中で向きを変えた。討った、と言われるのを待っていた。私は。
「鎖は」
「……ありません」
使いが一度まばたく。鎖の音を待った女が、その目に映っている。
「コンラートは何を約した」
オットーが廊下へ出てきた。リウドルフも父に道を譲らない。
「王の前までお連れすること。それより先は、私は聞いておりません」
「よくやった」
即答だった。分かる。歩いて来る敵は、攻める城より安い。分かっていて、腹の底が冷えた。
「従うなら迎える」
「従うとは、どこまでです」
私が訊くと、オットーはようやく私を見た。
「会ってから決める」
「私を閉じ込めた男です」
「知っている」
「殺してほしいと言ったら」
廊下から音が消えた。使いが泥の指を握り込む。
「聞かない」
短い。夫の声より、王の声が近い。右の手首を、左手が覆っていた。縄の痕はとうに消えている。皮膚の下にだけ、まだある。
「では、私も同じ部屋に入れてください」
「王妃の席は、あの部屋にない」
「席は要りません。壁際に立っています」
「なぜだ」
「あなたがイタリアに手を掛けられるのは、私と婚礼を挙げたからです。私の名で立っている国を、私のいない部屋で誰かに持たせるなら、持たせる物はあなたの物になりません」
オットーが息を吸った。
「入れ。条件を2つ言う。口を挟むな。訊かれた時だけ答えろ」
「2つとも、同じことに聞こえます」
「なら覚えやすい」
*
数週後、ベレンガーは鎖のない手で北の都に入った。春の光が指輪に当たる。諸公が迎え、コンラートが隣を進む。先頭で名が呼ばれた。
「イタリア王ベレンガー」
外廊の欄干をつかんだ。爪の先が白くなる。その日、王への扉は開かなかった。
1日目。迎えの馬具についた泥が乾いた。2日目。コンラートが食事をほとんど残した。3日目の朝も、私は外廊に立っていた。
「今日も、あの戸の前にいらっしゃいますか」
アッタが外套を肩へ掛けながら訊く。顔は中庭ではなく、主人を向いている。
「ええ。待たされる顔を見たいの」
嘘はやめておいた。扉の前で立たされている男を思うと、腹の底に重いものが満ちる。上等な感情でないことは知っている。上等な目に、遭わせてもらっていない。
「3日目です。明日も外套をご用意しましょうか」
「足りるはずがないでしょう」
アッタは何も言わず、外套の留め具をきつく締めた。その沈黙が、いちばんありがたい。
接見の戸口に、コンラートとリウドルフがいた。朝から同じ場所を動いていない。
「私が来いと言った」コンラートの頬は、旅の間より痩せていた。「私の言葉まで、門の外に置かれている」
「叔父上が父に吹き込んだのです」リウドルフが言う。「私の時と同じだ」
「三人で別の喧嘩を始めるな」コンラートが鼻を鳴らした。「私の面目が死ぬのを、先に見届けろ」
*
午後、戸が開いた。コンラートが先に入り、リウドルフが続いた。私は最後だった。壁際に立つと、石の冷たさが背に来る。
ベレンガーは部屋の中央で膝を折った。折り方まで整っている。長すぎず、短すぎず。
後ろに三人が控えている。一人だけが、手袋を外さなかった。私が名をつけた男だ。
「王よ。イタリアの秩序は、いま預かる者のないまま置かれております。それを申し上げに参りました」
「乱したのは誰だ」
「乱れは、統べる者の定まらぬ間に生じるものでございます」
誰も乱していない。勝手に乱れた。そういう文の作り方をする人だ。
ベレンガーが顔を上げた。目がこちらへ来て、壁際で止まる。
「王妃陛下も、ご同席でいらっしゃいましたか」
初めて、この男の口から、私が取り戻した名を聞いた。欲しかったはずの呼び名が、その声では汚れて聞こえる。
「ご壮健で」
「あなたも。王のままなのですね」
口を挟むなと言われたのを思い出したのは、言い終えた後だった。オットーはこちらを見ない。
「お住まいのことでしたら、粗相のないよう申しつけてございました」
お住まい。鍵が三度回る部屋のことだ。
「42段ありました。数えましたから」
「……それは、恐れ入ります」
彼の目が先に外れた。指輪の手が外套の襟に上がり、直す必要のない位置で止まる。
私は数えた。1。
オットーが立った。
「イタリアは、あなたと息子に持たせる。8月、アウクスブルクで正式に受ける」
「お待ちください」
自分の声だった。壁際から2歩出ている。
「口を挟むなと言った」
「言われました」
止められる前に言った。
「この人は、前の王の妃を石の部屋へ入れて、鍵を三度かけました。その人に王を持たせれば、あなたの下の王は、王妃を閉じ込めても王でいられます」
「イタリア全部に兵は置けない。従う者を1人置く方が、死ぬ兵も焼ける畑も少ない」
「その1人が従わなければ」
「次は討つ」
簡単に言う。その「次」まで、南にいる者は待たされる。
「では、渡す前に、1つだけ答えさせてください」
ベレンガーへ向き直った。膝の裏が震えている。震えが声まで上がらないよう、息を短く刻んだ。
「私の娘は、どこにいますか」
書記の羽根が止まった。ベレンガーは間を置かずに答えた。
「お子様のご養育は、私の手を離れております」
「離れる前は、あなたの手にありました」
「必要な保護が行き届くよう、手配がなされたと承知しております」
「誰の家です。名を言ってください」
「その手配は、私の名で行われたものではございません」
整った文が順に並ぶ。どこにも嘘がない。どこにも娘がいない。
「そこまでだ」
オットーが部屋へ向けて言った。
「書け」
羽根が走る。読み上げる声が、石の壁に平たく返った。
「王と王妃の恩寵により――」
王妃。私はこの部屋にいた。壁際から出て、たったいま声を上げた。それでも、この文には私の恩寵が入る。
「その一行を消してください」
「消さない」
「私は反対しました。この部屋の全員が聞いています」
「聞いた者はここで終わりだ。この先を読む者は、書いた物しか読まない」
ベレンガーが立ち上がった。膝の埃を払う手つきに迷いがない。すれ違う時も足を止めなかった。声だけが残る。
「よい王をお持ちです」
供の三人が続いた。いちばん若い一人だけが、敷居で半歩遅れた。初めて、まっすぐ私を見る。額と眉の間が、父親と同じ作りをしていた。
アダルベルト。婚姻状の花婿だ。三月のあいだ、紙の上から私の胃を縮ませた名前が、ただの若い男の顔をして立っている。
「……お目にかかれて」
口上の最初のひとかけらだけで、続きは出なかった。父は振り返らない。若い男はその背を見てから、声を落とした。
「ご息女は、去年の冬まではヴェローナにいたと聞きました」
「誰から」
ベレンガーが息子の名を呼んだ。アダルベルトは答えず、父の背を追った。
紙の中のアダルベルトは、三月のあいだ私を脅した。目の前にいたのは、父を追っていく、ただの若い男だった。
*
8月、アウクスブルクから戻った者たちを、満ちた杯が迎えた。夏の汗と酒の匂いが広間にこもる。
ベレンガーは息子アダルベルトの手を包み、父子でオットーに服属した。二人にはイタリア統治が戻され、ヴェローナとアクイレイアの辺境は王弟ハインリヒに渡ったという。
「戦わず、二人の王を従わせた我らの王に」
杯が一斉に上がる。金の縁が灯を跳ね返した。
私は上げなかった。人の肩を分けて、オットーの前まで歩く。酒が縁からこぼれ、指を濡らした。
「何が不足だ」
「あの部屋で私が受け取った物を申し上げます。1つです」
「1つ」
「あの人が、先に目を逸らした。それだけです」
「安いな」
「ええ。安い。渡した方は、国を1つ渡しました」
「あなたは、他人の妻や娘で、あの男の忠節を試すのですね」
「あなたは、他人の兵で自分の恨みを晴らす気か」
否定の言葉なら出る。出せば、3日間の私が嘘になる。
「そうです。鎖をつけて連れてきてほしかった。閉じた戸を見て、楽しかった」
広間のざわめきが遠のいた。近くの杯が、音もなく卓へ下りていく。
「それでも、私の恩寵などと書かせた覚えはありません」
オットーは杯を置いた。底が卓を打つ音は、祝杯より重い。
「なら、あなたは何をする」
満ちた杯を見た。飲めば、この勝利を祝ったことになる。投げれば、怒った女が1人残る。どちらも、あの男には届かない。
「あの人の下へ戻された者が、ここまで来たら。私は自分の戸を開けます」
一滴も飲まず、杯を卓へ置いた。濡れた指に、酒の匂いだけが残る。
「あなたが閉めても」
言い終えてから、夫の顔を見た。オットーは長く黙った。それから、私の置いた杯を取り、自分で飲み干した。
「開けろ」
思っていた返事と違った。
「開けた戸から入った者の始末は、あなたがつけろ。留めるのも帰すのも、あなたの名でだ」
「つけます」
「9月に、南から文書の写しが届く。あの男が自分の名をどう書いているか、それで分かる」
「見せてください」
「あなたの戸だ。自分で開けろ」
史実メモ:近い史料では、赤公コンラートの仲介でベレンガーが王のもとへ赴き、三日待たされた後に「王と王妃の恩寵」へ受け入れられ、952年8月にアウクスブルクで息子アダルベルトとともに服属して、ヴェローナ・アクイレイア辺境を除くイタリア統治を返されました。王妃の同席、アダルベルトの同席と一言、娘の行方を問う場面、祝勝の広間は創作です。




