第29話 亡き夫の灯を消すな
「その女は、ベレンガーの伯母でしょう」
赤公コンラートは、北行きの鞍を締める手を止めた。
2月6日、パヴィア。
厩の片側には北へ運ぶ荷、反対側には南へ残す武具が分けてある。コンラートの荷は、朝まで北側にあった。オットーから、選んだ兵とともにイタリアへ残れと告げられ、つい先ほど自分で移したのだ。王と新しい王妃が帰る一方で、自分はベレンガーの戻る道に置かれる。若い公は、面倒を丸ごと預けられた顔をしていた。
「サン・シストの修道院長ベルタです」私は答えた。
「ベルタ」
コンラートが眉を寄せた。締めかけの腹帯から、指が離れる。
「王妃の母君も、その名では」
「ええ。ブルグントのベルタ。ややこしいので、私は修道院長ベルタと呼びます」
「同じ名の女を守れと、私に頼んでいるのですか」
「同じ名の、別の女です」
「では、血筋を」
「ベレンガー一世の娘。いまのベレンガーには、母方の伯母にあたります」
コンラートの眉が、今度は上がった。厩の外の光が、その顔の片側だけを照らしている。
「私に名を並べてほしいと頼んでから、それを言うのですか」
返せなかった。敵王の伯母だと先に告げれば、話も聞かずに断られる。だから順を変えた。思惑を見抜かれた後の自分の顔までは、考えていなかった。
「先に言うべきでした」
「私が気づかなければ、黙っていた?」
コンラートは若い。だが、鈍くはない。赤い鞍覆いを放り、正面から向いてくる。
「北へ帰る王妃は、敵に慈悲を示したと褒められる。私はここに残り、その慈悲を守るため兵を止める。都合のよい役ですね」
「その通りです」
認めると、彼の怒りが一瞬、行き場を失った。若い怒りは、認められることに慣れていない。
「だから、私に従って名を出してほしくありません。嫌なら断ってください」
「断れば、王妃は一人で願う」
「ええ」
「私だけ、敵の伯母を見捨てた男になる」
また追い込んでいる。唇を噛んだ。
「では、頼みを取り下げます」
「それも腹が立つ」
コンラートは厩の柱を蹴った。馬が耳を伏せる。
その音で、馬房の奥から糧秣係が出てきた。木札を何枚も抱えている。
「南に残る馬が18頭。伺っていた頭数より多うございます」
「それで」とコンラート。
「麦が冬の終わりまで持ちません。11日ぶん足りません。川向こうの修道院の倉には、今年の麦が残っております。余っている、と皆が申します」
「誰がそう言った」
「皆が」
「皆の名を書け」
「書けと仰せられますと、その、皆と申しますのは」
男は木札を持ち替え、持ち替えた分だけ言葉を増やした。要点はもう出ている。兵に冬を越させるいちばん近い麦が、あの修道院の倉にある。
「その倉は、開けさせません」と私が言った。
「では、馬が」
「馬の話は私が引き受けます。麦の話は、この方が引き受けます」
コンラートが横目で私を見た。腕は組まない。片手が、まだ鞍の縁に置かれている。
「勝手に分けましたね」
「二人で分けました」
糧秣係は口を開け、何も出てこないまま下がった。木札は、抱えたままだった。
「王妃は、あの女を好きなのですか」
「会ったことは、ほとんどありません」
「なら、なぜ」
「敵と血がつながる女から先に奪えば、次も女から奪います。私は、それをされた」
理由は、それだけではない。母と同じ名を、敵の欄に置きたくない。自分が守られなかった時、誰かが血筋のほかを見てくれたらと思っていた。そこまでは言わない。この公とは、まだそこまで親しくない。
「それに、修道院の土地を兵へ分ければ、明日から食べる者が困ります。18頭より、ずっと多くの口が」
コンラートはしばらく馬房を見た。奥の馬が、藁を踏み替える音がする。
「私はベレンガーが嫌いです。伯母まで好きになる気はない」
「好きでなくてよいのです」
「私が残る間、兵に奪わせない。その代わり、王妃の慈悲とは呼ばせないでください。私の判断でもある」
「はい」
厩を出ると、ブルグントへ出した使いが待っていた。冬を越えて戻ったという。
「母君は、そのようなお手紙を書いておられません」
「館の者は」
「誰の手か存じませんでした」
書かせた手には、まだ名がない。
二人で王前へ出た。オットーは、私より先にコンラートに尋ねた。
「妻に頼まれたからか」
「最初は騙されかけました」
顔を伏せたくなった。オットーの片眉が上がる。
「それで?」
「敵の女から奪う兵を残せば、次は味方の女からも奪います。修道院長ベルタが生きる間、その統治を保つよう、私も願います」
オットーは二人を見比べた。私の顔で止まる時間の方が、わずかに長い。
「二人の願いとして残す。ベルタは生きている限り、修道院を治めよ」
午後、コンラートは赤い鞍覆いを北行きの荷から外し、南に残す武具の上に置いた。
「返事を北へ送ってください」と私が言う。
「そちらも、命令だけ南へ送らないでください」
別れの言葉は、それだけだった。
*
9日後、コモ。
旅装を解く前に、王弟ブルーノが灯の芯を整えていた。兄オットーとは似ていない細い指で、黒くなった先を切る。
「南に残し忘れた灯があります」
パヴィアを出てから、冬の道は泥と薄氷を繰り返した。何度も南を振り返り、コンラートに言わなかった命令を頭の中で作っては消した。コモに着く頃には、北へ帰る喜びより、置いてきた都の方が重くなっていた。
ブルーノの説明は短かった。ミラノの市場にある5つの地所と1つの施設を、サンタンブロージョに与える。その収益で、ある墓所礼拝堂の灯と日々の祈りを支える。
「誰のために祈らせる」とオットーが問う。
「兄上と、王妃の魂のために」
「ロターリオも」
自分の声が、灯の火を揺らした気がした。
礼拝堂は、前の王ロターリオが葬られた場所にある。死の真相は分からなくても、墓はある。そこに眠る男は、エンマの父だった。
オットーの顔から表情が消えた。灯の芯が、細い音を立てて短くなる。
「私の王権で、前の王の墓を照らせと?」
「はい」
「婚礼から、いくらも経っていない」
「だから今、言います。黙って北へ行けば、あなたの妻になるために捨てたように見える」
「まだ愛しているのか」
王の問いではなかった。夫の声だった。
「死んだからといって、よい思い出ばかりにはできません。でも、覆いを奪われて腹を立てた夜も、エンマに蹴られて二人で笑った朝もあります」
「私も覆いを取った」
「あなたは生きているから、取り返せます」
オットーは苦い顔のまま、少し笑った。
「死者はずるいな。もう何も間違えない」
「ロターリオは、生きている時によく間違えました」
言った途端、目が熱くなった。亡夫を懐かしんで、新しい夫と笑う日が来るとは思っていなかった。
ブルーノは灯から目を上げずに待っている。
「三人の名を入れろ」とオットーが言った。「私とアーデルハイトと、ロターリオ。灯を消すな」
「私も願います」ブルーノが答えた。「兄上が明日、惜しくなっても灯が残るように」
「余計だ」
2月15日、コモで、その灯と日々の祈りを支える処置が認められた。読み上げのあいだ、オットーは一度も私を見なかった。
人々が下がった後、私はブルーノを呼び止めた。
「もう一つ、お願いがあります。年に一度でかまいません。あの灯が消えていないと、北へ知らせてください」
「消えるはずがありません。文書に書きました」
「文書は消えません。灯は消えます」
ブルーノは芯切りの鋏を置いた。置いた場所を、指先で少し直す。
「毎年、出させます。ほかには」
「あの礼拝堂へ、前の王の墓を訪ねてきた者がいたら、名を」
言ってから、余計だと分かった。取り消せばよかった。取り消さなかった。
「どなたを待っておられるのですか」
「知りません」
ブルーノは私の顔をしばらく見て、それ以上は訊かなかった。訊かない人だと、この夜に覚えた。
オットーは旅灯を自分で持ち上げた。礼を言いかけると、首を振られる。許した夫として褒められたくないのだろう。代わりに空いた手が差し出され、二人で宿の廊下を歩いた。
夜、荷に結んだ旅灯が風に鳴った。案内役が来て、峠に新しい雪が降ったと告げる。
「明日、発てますか」
「荷を減らされるなら」
何を置いていくかは、朝までに決めなければならない。
史実メモ:952年2月6日パヴィアの原本D141は、アーデルハイトとコンラートの共同請願でサン・シスト修道院をベルタの存命中の統治下へ確認します。15日コモの11世紀写本D145は、彼女とブルーノの共同請願で市場資産をサンタンブロージョへ移し、オットー、アーデルハイト、ロターリオの魂と、墓所の日々の灯火・聖務を支えます。場面と会話は創作です。




