第30話 私の名で願う
「王妃の馬を、先頭に出さないで」
コモを発った朝、私は自分の隊列を止めた。
夜の雪が昨日の轍を消し、門外の斜面を白く覆っている。案内役は長い杖を雪に刺し、戻した先についた土を指で潰した。この山で信じる順は決まっている。杖、馬、人。旗は入っていない。
「軽い馬と食糧を先に通します」男は王旗を見上げた。「あの旗は、道が続くと分かってから」
儀礼を預かる男が顔をしかめる。
「王妃のお姿が荷馬の後ろでは、列が崩れて見えます」
「見え方より、馬が落ちない方を選びます」
昨夜のうちに、置いていく荷は決めた。婚礼の衣を入れた箱を降ろし、代わりに麦の袋を積ませた。衣なら、春に取りに来させればいい。
手綱を引き、自分の馬を1頭ぶん下げた。さらに前を空けようとして、凍えた指が革から滑る。
アッタが何も言わずに手綱を受け取った。悔しさが頬へ上る。渡す手は止めない。
コモを発つ前、私はアッタに暇を出した。帰るなら馬と銭を持たせると告げた。アッタは一礼し、用意した帰り馬を見てから、私の旅箱を開いた。薄い衣を二枚抜き、毛織りの覆いと乾いた履物を詰めた。
「王妃さまは雪をご存じありませんから、お供いたします」
帰り馬は厩に戻った。いま、同じ手が私の手綱を握っている。
「私の位は、雪の下を知りません」
オットーが馬上から、私と斜面を見比べた。
「王旗も下げろ。今日の先頭は杖だ」
案内役が北へ向き直った。軽い馬が浅い穴を作り、次の馬が同じ場所を踏む。深く沈む所には折った枝が立ち、その印を王旗がひとつずつ越えた。
昼前、荷馬の後脚が雪を踏み抜いた。身体が谷側へ傾く。王側の兵が手綱へ飛びつこうとして、案内役が怒鳴った。
「馬に寄るな。荷を切れ」
積んだ麦のひとつが斜面を滑り、白い谷へ消えた。荷が軽くなって初めて、馬は腹を雪から抜いた。失った袋を惜しむ声が上がる。
「拾いに行けますか」
「人まで落としたいなら」
案内役は、王妃にも言葉を柔らかくしない。諦めて、残る食糧を1人あたり少なくするよう頼んだ。自分の分も減ると聞くと、儀礼役は黙った。
斜面がきつくなると、息を吸うたび胸の奥が冷えた。休止の合図は知らない言葉で飛ぶ。
一度、案内役の声をまねて馬に呼びかけると、近くの男たちが笑った。
「いま何と言いました?」
「荷を左へ寄せろ、と」通訳役が目を伏せる。「馬に言う言葉ではありません」
「この馬は私より賢いですね。左へ寄りました」
笑いが列の後ろに伝わった。南で王妃と呼ばれた名は、雪の上では馬1頭も動かさない。
*
2月の末、チューリヒに着いた時には、笑う余力も残っていなかった。
雨と雪の境目を1日進み、外套の裾から水が落ちている。宿割り役が胸を張って報告した。
「王妃さまのため、最も乾いた部屋を取りました」
戸を開けると、火が燃えていた。壁際には乾いた寝具。卓には黒いパンと、湯気の立つ汁。誰の部屋だったのか。問いは頭をかすめ、火の色に溶けた。尋ねなかった。尋ねれば、答えを聞いてしまう。
「ここにします」
アッタが戸の外を一度見た。何も言わず、濡れた荷を運び込む。
塩の強い汁を2杯飲み、パンも食べた。濡れた外套を火の近くに掛け、横になると、髪が乾く前に眠った。
夜中に目を覚ますと、廊下で女たちの声がしていた。知らない言葉だ。宿割り役が静かにさせ、また眠りが来た。
*
翌朝、火は消えていた。
アッタが燃え残りを指で崩している。
「薪がありません」
「持ってこさせて」
「ここの人たちの分も、もう使いました」
起き上がった。戸の外に、頭を布で覆った女が3人立っている。昨夜、廊下にいた声だ。
「この部屋は?」
通訳役が答えにくそうにする。
「聖フェリクスと聖レグラの修道院側が使っていた区画です。王妃家政の札を掛け、一夜お借りしました」
「どこで眠ったのです」
女たちは答えず、一人が奥の物置を指した。石の床に、濡れた寝具が積んである。
いちばん上の一枚は、二度折って重ねてあった。折り目の下へ手を入れたくなって、やめた。あの折り方をする子は、いくらでもいる。
卓の皿には、パン屑しか残っていない。
「昨夜、教えてくれれば」私は宿割り役に言った。
「お疲れでした。朝にはお返しするつもりで」
「私も、尋ねませんでした」
言い訳を取り上げると、昨夜の自分だけが残った。問いを火の色に溶かして、汁を飲み、乾いた寝台で眠った。その間、この部屋の女たちは濡れた物置にいた。
「荷を出してください」
運び手が動く。けれど、食べたパンも薪も戻らない。
女たちに向き直った。
「何を返せますか」
通訳を通すと、一人が早口で答えた。
「今夜の部屋だけではない、と申しています」
女が折り畳んだ訴えを出した。伯や裁判官、その権限を帯びる者が、修道院領の者に不当な出頭を求め、徴収を重ね、保証人まで要求する。ゆうべの札は、初めて掛かった札ではないのだ。
「これを読めば、昨夜のパンが戻るのですか」
女は首を横に振った。
私は自分の家政の荷から、代わりのパンと薪を出させた。足りるかどうかは、女たち自身に量ってもらう。受け取っても、誰も礼を言わない。
王妃家政のパンは、昨夜食べた物より白く大きかった。女の一人がそれを量り、2つを返してきた。通訳役によれば、奪われた量より多いという。
「多い分は、迷惑料です」
女は首を横に振った。必要な分を自分たちの籠に移し、残りは押し戻す。返されたパンを持ったまま、礼も謝罪も強要できなかった。
*
オットーが来た時、王妃家政は石造りの物置に移っていた。人と箱が詰まり、戸を閉めると彼の肩が荷に当たる。
「妻を物置に寝かせたと、宿割り役が青い顔で来た」
「昨夜、修道院の方々をここに寝かせたのは私です」
「あなたが命じたのか」
「尋ねず、部屋を使いました。同じです」
訴えを渡した。
「昨夜の分は、私の家政から返します。でも、私が出た後も、別の札が掛かります」
オットーは通訳された訴えに目を通す。
「広く守れば、伯や裁判官が持つ権限や、王の取り分にまで触れる」
「何も取るなとは願いません。すでに持つ土地を確認し、不当な呼び出しや徴収、妨害を止めてください」
「北へ来た初日に、すべて分かったのか」
「いいえ。分かったのは、私の札で人を濡れた部屋に追いやれることだけです」
オットーは物置の箱に腰を下ろした。蓋が軋む。
「誰の願いとして出す」
「選ばせてくださるのですか」
「三つある。弟の名、私の名、あなたの名だ」
「ブルーノ殿の名なら、北を知らない新王妃の思いつきには見えませんね」
「私の名なら、間違っても隠れられる」
箱の蓋が、また軋んだ。
「私の名で願います」
「昨夜の償いか」
「償いにはなりません。パンはもう食べました。それでも、同じ戸に次の札が掛かるのを減らしたい」
「あなたの名で守らせれば、守りが足りなかった時も、あなたの名が呼ばれる」
「はい」
「北の土地を、まだ1日しか見ていない」
「はい」
「それでもか」
返された白いパンを、卓に置いた。
「知ったふりをして、広く与えたいのではありません。あの方たちがすでに持つものを、王の役人が勝手に削らないよう願います。間違いがあれば、私の名に戻してください」
オットーの目が、今朝返されたパンに留まった。
「調べて、守らせる。あなたの願いとして残す」
3月1日、チューリヒで、私一人の願いを受けた処置が作られた。聖フェリクスと聖レグラの修道院が持つ土地を確認し、伯や裁判官らによる不当な強制、徴収、妨害から守る内容だった。
女たちは、処置を聞いても礼を言いに来なかった。
出立の前に、パンを量った女へ名を訊いた。女は通訳役を見て、それから首を横に振った。私も、それ以上は訊かなかった。
処置に残るのは、私の名だけだ。
物置で遅い食事が始まると、オットーの肘が箱に当たり、皆の杯が揺れた。
「狭いな」
「昨夜は、ここで3人眠りました」
オットーは文句をやめ、膝を縮めた。
*
北帰の列は、雪が泥に変わる道を進んだ。宿ごとに言葉が変わり、私の名が本人より先に届くこともある。
春のある日、北方の宮廷で、ひとつの扉を待った。
扉役が内へ名を告げようとすると、戸が半分だけ開く。押さえていたのは、オットーより私に近い年頃の青年だった。
父に似た目が、旅泥の残る裾まで見て、顔に戻る。
「王妃アーデルハイト」
「王子リウドルフ」
母とも息子とも呼ばない。リウドルフは扉を全開にせず、私も手を掛けなかった。
半分の隙間を残したまま、私たちは初めて、同じ春に立った。
史実メモ:952年3月1日チューリヒの原本D146は、アーデルハイトだけを請願者として記し、王がその提言へ好意的に同意して、聖フェリクスと聖レグラの修道院所領を公的裁判官・伯らによる不当な強制・徴収・妨害等から保護しました。近い年代記はオットーが妻と帰還したと伝えますが、通過峠は不明です。本人の自筆・逐語発言、案件の届き方、山道と旅の会話は本作の場面化です。




