第26話 誰も座らない王子席
名簿は、38の名で止まった。
厨房の年寄りが2人がかりで思い出しても、残りは顔しか出てこない。アッタが数えた40人に、2つ足りない。足りない2つが、いちばん遠くにいる気がした。
板を置いた場所は、婚礼用の広間の隅だった。ほかに卓を出せる部屋がない。段の上には、儀礼を整える者が並べた椅子がある。オットーの席の隣が私の席で、その脇に一段低い椅子が1脚。
「あれは」
「王子リウドルフ殿下のお席でございます」と役の者が答えた。「婚姻なされば、王妃さまは母君ですから」
会ったこともない相手の椅子が、私の椅子より一段低い。私は20年ほどしか生きていない。あの人は、ほとんど同じ年月を生きている。
「今日は誰も座らないなら、卓の代わりに使っても」
役の者の顔から色が抜けたので、やめた。代わりに、空の椅子の背へ外套を掛けた。誰も座らない席の隣で、娘を捜す名を書かせている。
懸賞の触れは、3日前に市へ出した。金の贈物の半分を割り当てた。娘を見た者と、娘の行き先を知る者に。残りの半分は、暇を出された女たちへの褒賞に取ってある。まだ1枚も払っていない。
その日の午後から、人が来た。3日で11人。全員が、姫さまを見たと言った。
*
「王妃さま、これはもう、間違いなく姫さまでございました。金の靴を履いておられて――」
「金の靴」
「いえ、金の縫い取りの、まあ、そう見えたということでして。私はほれ、目がいいもので、村でも何でも見つけるやつだと言われまして、去年など雌牛が3日も――」
男は問われる前に喋る。喋りながら私の顔を見て、話の向きを変えていく。手の帽子が、話すたび形を変えた。話の切れ目で唾を飲む音が、部屋の隅まで届いた。
「その子は、どうやって眠りましたか」
「眠り、でございますか」
「掛布を、どうしました」
「かぶって、おりました。ええ、それはもう、しっかりと」
しっかりと、かぶって。
エンマは、かぶらない。頬の下に敷く。掛布の下から出ている顔を、私は3年見てきた。この男は、寝ている子どもを見たこともない。
「もう結構です。門まで送らせます」
「お待ちください。金は」
「あなたが見たのは、私の娘ではありません」
「見たのは本当です。……いや、見たのは、聞いた話でして」
声の勢いが、そこで初めて落ちた。
「誰から」
「洗い場にいた女です。名は……ええと、亭主が桶を作っている」
板を引き寄せ、名を頭から読み上げた。5つ目で、男の目が動いた。
「その人です。そのお人から聞きました」
「なぜ本人が来ないの」
「もう話すな、と言われたそうで」
「誰に」
男は帽子を握り直した。饒舌が、急にどこかへ行った。
「男が来たと。2人。金は出さん、と言ったそうです。姫さまのことを訊いて回った者の名を教えろ、と」
板の上の38の名を見た。私が集めた名だ。同じ名を、別の手も集めている。書きかけの39行目に、筆の先から墨が落ちた。
「その女の家は」
「言えません。おれが言ったと知れたら」
男は本当に怯えていた。嘘をつく時よりも、いま初めて正直に見える。
「アッタ」
「はい」
「この人に、路銀を。金貨ではなく、麦で」
男は口を開けたまま、麦の袋を受け取って出ていった。門のところで一度振り返り、頭を下げた。
「見たのは嘘でしたのに」とアッタが言う。
「聞いたのは本当です。次に何か聞いた時、あの人はまた来る」
「麦なら、来ます」
「アッタ。マルティン様の男に見張らせた館は」
「手袋の男は、あの日のうちに裏の戸から出ました。翌朝には、司教の館は空でございました」
「一人で?」
「二人でございます。荷は持たずに」
二人。いま聞いたばかりの数と、同じだ。それだけで、板の上の38が急に薄く見えた。
*
中庭で、北から戻った馬が膝を折った。
鞍の上で持ちこたえていた力が、着いた途端に切れた。騎手は降りようとして滑り、厩の者に抱えられる。婚礼の支度を見ていたオットーが、反対側から階段を下りてきた。
「リウドルフ殿に会えましたか」
騎手は息を整えようとして、咳き込んだ。
「お会い、できませんでした。館の門まで参りました。父王の使いだと告げて、口上は内へ運ばれましたが、私は通されず……返事も、ありません」
「誰が門を閉じた」
「名は、聞けませんでした」
答えるたび、騎手の肩が縮む。馬の腹は汗で濡れ、乾く前にまた泥を重ねている。
「まず座らせて。水を」
オットーはまだ問いを残している顔だったが、騎手が自分の脚で立てないのを見て、口を閉じた。
壁際に腰を下ろした男に、アッタが水を渡す。二口で、声が戻った。
「反対の言葉は、ありませんでした」
「なら、婚礼を止める答えではない」
オットーの声に、すがりたい響きがあった。反対していない。追い返したとも限らない。たまたま別の場所にいたのかもしれない。都合のよい読みが並ぶのを、途中で止めた。
「祝意も、ありません」
口にすると、逃げ道が閉じた。自分で閉じたのだから、文句は言えない。
「婚礼で、王子も喜んでいるように名を呼び上げないでください」
「王家が割れて見えるぞ」
「会えていない使いに祝福を持たせれば、あとで本人が何を言っても嘘つきにされます」
オットーは長く黙り、それから騎手に向いた。
「返事を持ち帰れなかったことを、おまえの罪にはしない」
男の目に安堵が浮かんだ。厩の者たちが、ようやく馬具を外し始める。
私たちは階段を上がった。オットーは段の上の空席まで歩き、背に手を置いた。私の外套が掛かったままの、あの椅子だ。
「最後に、何を話したのです」
「息子は、自分の道をハインリヒに塞がれたと言った。私は、命じた道を外れたのはお前だと返した」
「それだけ?」
「それだけだ。生きて戻ってよかったとは、言わなかった」
「いまからでも」
「再婚の知らせと一緒では、言い訳に聞こえる」
「それでも、言わないよりは」
続きが喉で止まる。私も、エンマへ届く場所で「帰ってきた」と言えていない。その言葉を、父親には勧めている。
「もう一度、使いを出す」オットーが言った。「祝えとは言わない。父が婚姻する、戻る時期は知らせる。それだけだ」
*
書記を呼び戻した。
「触れを、出し直します」
「金を上げるのか」オットーが振り向く。
「下げます」
彼の眉が寄った。
「上げれば、金の靴の男が10人来ます。下げれば、来るのは金のためではない人です。……ただ、それでは足りません」
38の名を指でたどった。この名を集めた者の名を、いま向こうが集めている。私が触れを出したから、あの女たちは二度目に狙われている。
「触れの出し方を変えます。娘を見た者は名乗り出るな、と書きます」
「捜すのをやめるのか」
「名乗り出ないで、掛布のことを話せる人に、こう言わせます。――王妃は、あの子が二度折ることを知っている、と」
オットーが黙った。書記の筆も止まっている。中庭では、鞍を戻す音がまだ続いていた。
「二度折る」
「あの子の寝支度です。いま、あの子を寝かせている家の者しか知りません。あの一言が市に流れれば、本当に知っている人だけが、私が本物の母だと分かります。金では釣れなかった人が、それで足を動かすかもしれない」
「敵にも流れる」
「流れます。あの家は、あの子の寝方を知りません。知っていたら、私に教えて値を吊り上げています」
言いながら、指が冷たくなった。娘の癖を、都じゅうに配ろうとしている。母しか知らないものを、母が売る。板の縁を親指で押さえた。木の目が、指の腹に食い込む。
「それでも出すのか」
「出します」
書記が筆を構えた。
「王妃アーデルハイトの名で、と入れてよろしいので」
「王妃は要りません」
書記が顔を上げる。
「では、どなたの名で」
「エンマの母、と書いて。名は、その後に」
筆が板を擦る音がした。段の上では、誰も座らない椅子の背に、まだ私の外套が掛かっている。
「これを、明日の市で読ませます」
「明日は婚礼の支度だ」
「支度は人がします。読ませるのは、私の名です」
史実メモ:951年に娘エンマがどこにいたかも、母が人を出して捜したかどうかも、史料は伝えません。近い史料が記すのは、リウドルフが早くに父の後継者とされたことまでで、婚姻を祝う現存書簡もありません。本話の懸賞の触れ、暇を出された女たちの名簿、名乗り出るなという逆向きの触れ、空席と会えずに戻る使者は創作です。




