第25話 娘は掛布を二度折る
「その人は、どこにいます」
オットーの手を、離していた。いつ離したのか、覚えていない。側門役が答えるより先に、足が廊下へ出る。
「門の内側です。日が高くなる前に帰りたいと」
「帰さないで」
言ってから、速すぎた、と気づいた。側門役の顔が固くなる。当然だ。目撃者を閉じ込める王妃のもとへ、次の目撃者は来ない。
「会うまでです」
付け足しても、最初の命令は消えない。言葉は、出した順に人へ残る。
階段を下りる。結いかけの髪が肩でほどけ、アッタが櫛を持ったまま追ってくる。オットーの足音も後ろにある。振り返らなかった。
側門の小部屋に、灰色の衣の女が立っていた。荒れた両手。節に、洗い物を絞る者の赤いひびがある。旧い宮で、幼い姫の布を洗っていた女。ロターリオの死のあと、暇を出された。理由は丁寧だったろう。あの家の伝統だから。
女は私を見ると、膝をついた。壁際まで下がろうとして、後ろに壁しかないことに気づき、そのまま固まる。
「立って。娘を見たのですか」
「はい」
「いつ。どこで。誰と」
女の唇が震えた。3つ訊いて、1つも答えが返らない。
「日にちは、うまく……」
言い直そうとして、また止まる。指が自分の衣の裾を掴んでは離した。
「王妃さまが都へお戻りになる前です。私はもう、その家を離れました。姫さまも、同じ所にはいないと思います」
「どの家です」
「申せません」
言葉より先に、足が出ていた。
「私の娘です」
「知っています」
「なら言って」
女は首を振った。あの子のそばに残っている者が疑われる。自分がここへ来たと知られれば、その人まで追い出される、と。
「もう移されたのでしょう」
「そう聞きました。行き先は知りません」
「では、隠す意味がない」
「戻る道があります」
女は胸元を握った。もう一度、娘の近くへ戻る気なのだ。褒美でも保護でもなく、戻る道。
「なぜ、ここへ来たのです」
「王妃さまが生きて戻ったと聞いたからです。市で、髪の結い目を見ました」
息が一つ抜けた。昨日の朝、私はその結い目のために早く起こされた。
「姫さまは、母君が自分を置いて逃げたと教えられるかもしれない。せめて王妃さまだけは、あの子がどこかで眠れたことを、知っていてください」
伝え終えたら、自分の暮らしに戻る。それだけの女だった。
「門を閉めて」
側門役が私を見る。次に、階段を下りてきたオットーを見る。
「閉めろ」とオットーが言った。
横木の落ちる音。女の顔から血の気が引いた。
「お約束が違います」
「私とは約束していないでしょう」
自分の声が、聞いたことのない低さで出た。エンマを見た人を、帰す。ふたつが、頭の中で並ばない。
「だから、姫さまが生きていたとだけ――」
「いまも生きているのですか」
「分かりません」
その答えが、許せなかった。気づけば、女の腕をつかんでいた。
「何を着ていた。怪我は。泣いていたの。私を呼びましたか」
「痛いです」
女の声は小さかった。アッタが、私の手を見る。
「王妃さま。指が食い込んでいます」
離そうとした。指が動かない。この腕の先に、娘がいる。放せば、また何もない母に戻る。そう思うと、手は言うことをきかなかった。
「答えて」
女は泣きそうな顔のまま、まっすぐ私を見返した。
「掛布の端を、探していました」
指の力が、少し抜ける。
「どうしたの」
「小さな手で二度折って、左の頬の下に入れました。一度ではなく、必ず二度。眠って外れると、目を覚まして、また折りました」
喉から、笑いが漏れた。泣くより先に、笑いが出た。
二度。そんな折り方を、私は知らない。私のそばにいた頃、あの子は掛布を折らなかった。ロターリオが死んだ後の夜、乳母の腕でも眠らず、私の袖口を左の頬の下へたぐり寄せた。朝まで腕を抜けず、肩を痺れさせたまま、小さな息を数えた。
左の頬。この女は、そこを間違えなかった。知らない癖の中に、私の知っている場所が一つある。それだけで、私の娘だと分かってしまう。
いま、その袖のない場所で、エンマは自分の手で二度折っている。
「本当に、二度なのですね」
アッタの声が震えていた。女はうなずく。
「二度です。上の子が笑いました。姫さまは、笑った子の分まで折ってやりました」
知らない子どもが、そこにいる。娘は誰かの隣で眠っていた。その一言に、腹の底が焼けるような気がして、すぐに恥ずかしくなった。
「腕を」
放した。女の袖に、指の跡が残る。謝る言葉が出ないまま、そこへ手を伸ばしかけ、女が身を引いた。当然だった。
「少なくとも、あなたが見た時には、生きていた」
声にすると、胸の内側に小さな場所ができた。抱きしめる娘はいない。娘が眠った一夜を、そこに置けた。
「何か、望むものは」
「門を開けてください」
ほかには何もいらない、と。私はまだ、この女の望みを一つも叶えていない。
オットーが女に尋ねた。
「戻れば、子の近くへ行けるのか」
「分かりません。でも、道を知る者には会えます」
「追う者がいれば」
「道は閉じます」
「兵を、北の門へ集めてください」
オットーが眉を寄せる。私は中庭を指した。
「鞍を外して、全部。この人は北の門から出ます。出る前に、自分の目で数えられるように」
「隠した方が、怖がらせないだろう」
「見えない兵が、いちばん怖いのです」
オットーは短く息を吐き、側門役へ顎を動かした。
「そうしろ」
中庭で、馬から鞍が下ろされていく。革の擦れる音と、腹帯の金具が土に落ちる音が続く。厩の者が一頭ずつ引き出し、鞍だけを壁際へ積み上げた。
横木が上がる。女は敷居で足を止めた。唇が動いている。それから、私を見た。
「姫さまは、王妃さまを呼びませんでした」
息が止まる。
「でも、泣いてもいません。自分で掛布を折って、眠りました」
女は北へ去った。鞍のない馬たちは、日が落ちるまで北の門に立っていた。
「あの人が戻らなければ」
「その時は、別の道を探す」とオットーが答える。
「なぜ、門を閉めたのです。止めることもできたでしょう」
「私も、答えが欲しかった」
私も、と言われて、責める言葉が消えた。女の腕には私の指の跡が、耳には彼の「閉めろ」が残っている。右手を握り込む。婚礼の日が来ても、この跡まで消えるわけではない。
*
夜、寝台の覆いを引き上げた。端を一度折り、もう一度折る。左の頬の下に入れると、大人の顔には厚すぎた。
アッタは灯の向こうで横になっている。
「眠れますか」
「いいえ」
それでも覆いを戻さなかった。娘が一人で眠れた夜と同じ形を、頬の下に置く。
目を閉じる前、昼につかんだ女の腕と同じ場所を、自分の指で押した。強くすれば痛い。あの跡は、明日も残るかもしれない。
エンマは、母を呼ばなかった。
覆いの角を握った。指がしびれるまで握って、それから起き上がった。
「アッタ。灯を明るくして。字の書ける者を、誰か起こして」
「今夜でございますか」
「今夜」
アッタは芯を継ぎ、それから枕元へ板と筆を運んできた。人を起こすより早い、という顔をしている。
「何を、でございますか」
「旧い宮で暇を出された女の、名を全部」
「洗い場だけで、40人はおりました」
「顔は覚えている?」
「顔なら。名は、厨房の年寄りに訊けば出ます」
筆を渡された。指がまだ震えている。
「あの人は、訊いていないことを一つ話しました。掛布のことは、私の問いに入っていません。訊かれれば答える人が、まだ都にいるはずです」
アッタは板の位置を直し、少し黙ってから言った。
「王妃さま。一つ、申し上げてよろしいですか」
「なに」
「あの方は、北の門を出るとき、門役に市の日をお訊きになりました」
「市の日を」
「布を買う者は、市の日を数えます。姫さまの掛布を洗った手です」
筆の先を、板に置いた。次の市までに、40の名を書く。
史実メモ:951年の娘エンマの所在は分かりません。本話の旧宮で働いた女性、直接目撃、掛布を二度折って左頬の下へ入れる寝支度、目撃時まで生きていたという母の推認、閉門、腕をつかむ行動、追跡停止は創作です。




