第23話 救われた王妃と呼ぶな
「北の王オットーは、囚われた王妃を救い――」
「待ってください」
広間の声が止まった。呼び上げ役は羊皮紙を持ったまま、私を見ないようにしている。
私はオットーの右に立っていた。昨日、自分で選んだ場所だ。北から来た者、パヴィアの古い顔、どちらにつくか決めかねている者。その全員の目が、呼び上げ役から私へ移る。
救われた王妃と呼ばれれば、救った男の持ち物になる。今日それを通せば、明日「奪い返される女」と呼ばれても抗えない。
役の男だけがオットーを見た。
「王妃が話している」オットーが言う。「私を見るな」
逃げ道が塞がれた。息を吸う。
「私が牢を出た時、オットー王の兵はそこにいませんでした。侍女アッタと司祭マルティンと、3人で穴を抜けました」
壁際でアッタが顔を上げる。マルティンは、急に自分の名を広間へ出され、居場所を失った顔をした。
「では、王は何を救われたのです」
北側の列から声が飛んだ。笑いはない。山を越え、慣れない土地まで槍を持ってきた男たちの顔が並ぶ。一人は片手を布で巻き、別の男の長靴は何度も縫ってあった。
「われわれは、逃げた寡婦を拾いに来たのか」
背が冷えた。その男の袖を、隣の兵が引く。引かれた方ではなく、引いた方が前へ出た。口が先に動いて、言葉が追いつかない。
「いや、あの、おれは……拾いに来たので構わんのです。飯は出たので。ただ、うちの村では、王妃さまを助けに行ったと言ってあるので。母親が、そう言って回っているので」
言い終えると、自分の声に困った顔で下がった。北側から低い声が上がる。同意なのか、恥ずかしがっているのか、聞き分けられない。
村では、助けに行ったと言ってある。その一言が、いちばん痛かった。
「言い方を変えます」と呼び上げ役が慌てる。「オットー王は、王妃を敵の追跡から守り、正当な地位に――」
「増やさなくて結構です」
呼び上げ役ではなく、北側の列へ向いた。
「名は、どこにありますか。山を越えた者の」
役の男が戸惑う。「兵の帳面でしたら、軍のもとに」
「持ってきてください。今日中に」
「何をする気だ」オットーが低く言った。
「写します。山を越えた者の名を、1人ずつ」
「軍の帳面は私のものだ」
「写しは私のものにします」
オットーの眉が動いた。ここで断られれば、私は広間で二度失敗する。
「私の名で書かせてください。イタリア王妃アーデルハイトが、この者たちに山を越えられた、と。村へ持ち帰れる紙にします。助けに行った、で構いません。それが家にある方がいい」
北側が静かになった。さっき下がった男が、口を開けたまま隣を見ている。
「王妃の名で、兵の帳面を作るのか」王弟ハインリヒが前へ出た。「兄上、それは軍の――」
「書かせろ」とオットーが言った。「ただし、写しは軍の書記に取らせる」
「最初の1枚は、私が自分で書きます」
呼び上げ役が復唱を始めた。今度は誰の名も消えなかった。歓声の入る隙間もない。それでいい。
呼び上げが終わると、オットーは人々の前で私に向いた。
「私は遅れたらしい」
広間が静まる。北の列で、誰かが槍の石突きを床から離した。
「それでも、この女を妻に望むのをやめる気はない」
目を見開いた。ここで言うとは聞いていない。
「王妃の答えは」と、さっきの男が今度は慎重に尋ねた。
何十もの顔が待っている。オットーも待っていた。金の贈物より露骨な試しだ。ここで頷けば、呼び上げを直した意味が消える。
「まだです」
誰かが息を呑んだ。呼び上げ役は、手を止めている。
「聞いた通りだ」オットーが広間へ言った。「私の求婚は、まだ成功していない」
北の男たちもパヴィアの者も、今度は声を隠さなかった。頬が熱くなる。
次の者を呼ぶ声の途中で、広間の奥の扉が開いた。
入ってきた男は、羊皮紙を胸に抱えていた。中央まで来ると、それに触れる前に、手袋を指の先から一本ずつ外す。膝の裏が固くなった。牢の格子越しに、この手つきを見た。
「イヴレーア家より、オットー王へ」
男は名乗らない。牢の前でも、この人は名を最後まで出さなかった。
「読め」とオットーが言った。
男は唇を一度湿らせてから、読み始めた。
「ロターリオ王の未亡人アーデルハイト殿は、我が家の保護の下にあった。にもかかわらず、鍵を損ない、夜陰に紛れて出奔した。持ち出された財の返還と、共同王アダルベルトとの婚姻の履行を求める」
広間がざわついた。パヴィアの古い顔が、隣の者と目を合わせている。
「出奔」
自分の口から出た声が、思ったより大きかった。今日、私は自分で言った。自分で牢を出た、と。
この書状は何日も前に書かれている。だが今日から先、私の一行は「鍵を壊して出た者たち」になる。私の手で、証人を1つの広間ぶん揃えてやった。
「まだ続きがございます」と男が言った。
「読んで」
「返還がなされぬ場合、婚約の相手方たる共同王アダルベルトが、自ら迎えに参る」
オットーが手を出した。男はそれを渡す。オットーは目を通し、卓へ置いた。
「返事は」
「日のあるうちに発ちます」
同じ言い方だ。あの牢でも、この人は期限だけを置いて、名を置かなかった。
「あなたの名を」
男は答えない。
「答えろ」とオットーが言った。
「名は、書状に要りません」
「では、手袋の男と覚えます」私は言った。「そちらでも、そう呼ばせてください」
男の手が、外したままの手袋の上で止まった。指が革を一度なぞって、戻る。
私は書記を呼んだ。筆と板を持たせ、卓の端に立たせる。
「財の返還を求める、とありましたね。こちらの分も持ち帰っていただきます」
書記が筆を構える。私は、湖の岸で渡した物を、そのまま言った。
「金の指輪、1つ。赤石の留め具、1つ。金糸の帯、1つ。ほかに、館の鍵。王庫の帳面。娘の寝台」
最後を言うとき、声が落ちた。落ちたのが自分でも聞こえた。
「娘は財ではない」オットーが言った。
「あの家の帳面では財です。だから、あの家の言葉で書きます」
書記の筆が止まり、また動いた。
「読み上げて」
書記が読み上げる。最後まで聞いてから、手袋の男に向いた。
「返してもらう日の勘定です。あなたの主人に、帳面を合わせるよう伝えて」
男は羊皮紙を巻き、一礼して出ていった。手袋は、廊下へ出るまで嵌め直さなかった。
*
広間が空くと、オットーは呼び上げ役の立っていた場所まで降りた。
「一つ訊きます。最初の呼び上げを、止めようと思えば止められましたね」
「一息、遅れた」
「なぜ」
「気分がよかった」
英雄と呼ばれた王が、子どものように認めている。
「私も、王妃と呼ばれて気分がよかったです」
「なら、似た者同士だ」
「一緒にしないでください」
オットーは笑い、すぐやめた。
「写しは、明日までに用意させる。だが高くつくぞ。名を書いた者が死ねば、あなたが数えることになる」
「数えます」
「そう言うと思った」
彼は出口へ向かい、戸の前で振り返った。
「明日、もう一度求婚する」
「今日のは数えないのですか」
「皆に笑われた求婚を、最初の一度にしたくない」
戸が閉じてから、アッタが壁際を離れて近づいた。
「王妃さま。あの使いは、都を出ておりません」
「どこへ」
「南の司教の館へ入りました。日のあるうちに発つと申しておりましたのに」
日は、まだ高い。
「マルティンの男を、その門へやって。誰が入って、誰が出るか」
「今夜のうちに」
アッタが下がると、卓に残された書状をもう一度開いた。
――自ら迎えに参る。
その一行だけ、字が大きかった。
史実メモ:近い史料はアーデルハイトが少数の者と自力で幽閉を脱し、別の王朝詩はオットー軍と王弟ハインリヒの保護・迎えを語ります。公開呼び上げ、功績をめぐる異議、山を越えた者の名簿、公開求婚、出奔を咎める使者の書状は本作の創作です。ベレンガー側の婚姻圧力は伝わりますが、相手を息子アダルベルトとする証言は一致しません。




