第22話 エンマの寝台があった場所
他人の弟の方を、先に見つけた。
旧い宮の厨房の裏。灰と馬糞と、濡れた薪の匂いがする。積んだ寝藁の端から、裸足の踵が2つ出ていた。
アッタが止まった。荷を抱えたまま、動かない。
「あの癖です」
声が掠れていた。踵の皮は縦に裂け、乾いた血が黒く残っている。アッタは膝をつき、その足を寝藁の中へそっと押し戻した。何度もしてきた手つきだった。
少年が目を覚ました。姉を見て、起き上がらない。肘をついたまま、後ずさる。
「……本当に姉ちゃんか」
「はい」
「逃げたって言われた」
「はい」
「打たれた」
少年は自分の耳の後ろを指した。かさぶたが1本、耳から首へ走っている。
「おれが姉ちゃんの居場所を隠してるって。おれ、知らないのに」
アッタは言い返さなかった。膝でにじり寄り、少年の額に自分の額を当てる。少年の手が姉の袖をつかむまで、しばらくかかった。つかむと、もう離さなかった。
「名前を教えて」
アッタが顔を上げた。牢で同じことを訊いた。あの時は、口にすれば向こうにも聞こえます、と言われた。
「ミロと申します」
「ミロ。覚えました」
ミロは私を見ると、姉の背中へ隠れた。
アッタは弟の頭を胸に抱えたまま、後ろのマルティンへ頭を下げた。
「エンマさまも、お願いいたします」
「約束はできません」マルティンは少年の裸足から目を離さない。「明日の朝から、人を出します」
*
昔の寝室には、新しい王の花嫁の寝台が作られていた。
敷居が越せない。南向きの細い窓、壁の染み、冬に風の鳴った隙間。どれも覚えている。寝台の覆いだけが新しく、オットーの色を織った布が掛かっていた。
「王妃さまのお部屋を、急ぎ整えました」
案内役の声が遠い。エンマの寝台があった場所には長椅子が置かれ、家具の脚が床の傷を隠している。娘はそこに木椀を落とし、ロターリオの靴まで乳を飛ばした。夫は怒るふりをして追いかけ、エンマはこの壁にぶつかりそうになった。
笑い声だけが戻ってくる。2人は、いない。
「その布を外して」
誰も動かなかった。案内役は後ろの王側の役人を見る。
「王がお選びになった物です」
「では、王に返してください」
自分で寝台へ歩いた。赤い布に指を掛ける。金の贈物を落とした朝のように、引けばいい。指が震えた。剥がせば本当に何も残らなくなる気がして、手を下ろす。
訊くことがある。声が使えるうちに。
「ここにあった寝台は。小さい方の寝台は、どこへ」
「旧いお家財は、蔵かと……手前どもが運んだのではございません」
「誰が運んだの」
案内役が後ろを見た。年かさの下役が、目を伏せたまま答える。
「洗い場の女たちです。暇を出される前に、運びを命じられました」
暇を出される前に。娘の布を洗い、寝台を運び、それから散った女たちが、いまこの宮の外にいる。兵には話さなくても、同じ竈の灰を知る相手になら話すかもしれない。
「アッタ。マルティンの男に伝えて。捜すなら、暇を出された女たちから先に、と」
アッタは短くうなずいた。頼んだ声は、自分でも分かるほど平らだった。
「皆、出て」
案内役が何か言いかける。アッタが先に戸を大きく開き、王側の者たちを目で追い出した。最後の一人が下がると、自分も外へ出ようとする。
「あなたはいて」
「はい」
アッタは戸を閉めた。慰めず、寝台にも近づかない。
私は長椅子を押した。重い木が石を擦り、床の傷が半分現れる。もう半分は卓の脚の下だった。椀の跡なのか、別の家具の傷なのか、見ても分からない。
「ここだったの」
「何がです」
「エンマの寝台」
声にした途端、息が入らなくなった。
ロターリオが死んだ後、娘は何晩も私の寝台に潜り込んだ。足は冷たく、眠っても袖を離さない。私は泣く場所を失い、小さな指が緩むのを朝まで待った。煩わしいと思った夜があった。明日は乳母に返そうと考えた。その明日は、来なかった。
膝が床についた。泣き声を飲もうとして、喉から子どものような音が漏れた。
アッタが隣にしゃがむ。抱きしめず、肩だけを触れさせた。2人の間には、床の古い傷しかない。
*
戸が叩かれたのは、日が傾いてからだった。
「私だ」とオットーが言う。
返事をしなかった。アッタが戸を開ける。オットーは、ずれた長椅子と、寝台に掛かったままの自分の色を見た。
「気に入らなかったそうだな」
「私だけの部屋ではありませんでした」
オットーは窓まで歩き、隙間から入る風に手を当てた。王になってからこの宮へ入った男には、ただの古い部屋だ。
「ここで婚姻後も暮らせるようにと思った」
「ロターリオと眠った部屋で、あなたの妻になれと?」
「では、どこならよい」
「分かりません」
強く答えすぎた。オットーの目が険しくなる。
「黄金は要らない。この部屋も要らない。だが王妃として扱え。私は何を持ってくれば、おまえは怒らずに済むんだ」
「今それを私に聞くなら、何を持ってきても怒ります」
「また便利な答えか」
「死んだ人と、いなくなった娘を、昨日会った王の都合に合わせて片づけられないだけです」
「都合だけで選んだ部屋ではない」オットーの声が荒くなる。「明日、あなたがこの戸から出れば、旧い宮にいた者は王妃が戻ったと知る。別の客室に隠せば、私があなたを飾りに連れてきたと言うだろう」
「なら、最初にそう言えばよかった」
オットーは一瞬、答えに詰まった。
「部屋を返せば喜ぶと思った」
「金の次は、思い出で私を喜ばせるのですか」
投げた言葉は、彼より先に私へ刺さった。この男は、この部屋から何が失われたか知らない。知りようのない相手に、分かっていない罪まで着せている。
オットーは言い返そうとして、寝台の覆いに手を伸ばした。
「外すぞ」
「待って」
なぜ止めたのか、自分でも分からない。掛けたままなら腹が立ち、外されれば彼を拒んだ空の部屋になる。理屈は、今日はずっと出ない。
「あなたは、エドギタ様の部屋をどうしました」
オットーの手が布から離れた。
「閉めた。誰も入れなかった」
「ずっと?」
「娘が、夜になると戸の前で眠るようになるまでだ」
彼を見た。
「リウトガルト殿が?」
「母のいない部屋より、閉じた戸の方が近いと言った。ある朝、冷えた床で熱を出していた」
「それで」
「開けた。中の物を勝手に動かした者に怒り、何も動かさない者にも怒った」
オットーは苦い顔をした。
「王でも、死者の部屋の扱いは下手だ」
床の傷に目を落とす。閉じれば子が戸口で眠り、開けば別の人の足が入る。
「今夜は、ここで眠ります」
「無理をするな」
「眠れなければ起きています」
彼が戸へ向かう。その背中に言った。
「明日、公の広間へ出ます。あなたの隣に立つ」
オットーが振り返る。
「ここを譲る代わりではありません。暇を出された女たちは、市に出ます。市には、私が生きて戻ったという話が要る。あの人たちの耳に、自分で入れます」
「それで娘が見つかるのか」
「見た人が、来やすくなります」
「理由まで美しくしなくてよい。隣に来るなら、それでよい」
戸が閉じた後、アッタが寝台の新しい覆いを半分だけ折った。古い布は、その下からも出てこなかった。
夜、灯は消させなかった。壁際の寝床から、アッタの寝息が届く。昔の寝台に一人で横たわり、誰もいない長椅子の方へ手を伸ばした。
ロターリオは眠ると覆いを自分の方へ巻き込み、寒いと責めれば、翌朝には覚えていない顔で謝った。エンマは2人の間に入るくせに横向きになり、小さな踵で父の腹を蹴った。王は呻き、娘は眠ったまま笑った。
死者を美しくしすぎると、こういう腹立たしさから先に消えていく。覆いを奪われた夜も、蹴られて目を覚ました夫の顔も、渡さない。
「帰ってきたよ」
エンマに届かない声で、初めてそう言った。
寝息が止まっていた。
「王妃さま。明日のお支度は、朝課の前から始めます」
「そんなに早く?」
「いちばん時間のかかる結い方にいたします。洗い場にいた者なら、結い目で王妃さまを見分けます。毎朝、後ろから見ておりましたので」
アッタは起き上がり、灯の芯を継いだ。
「ミロにも、市を歩かせます。子どもの足なら、誰も見咎めません」
「だめ」
「王妃さま」
「あの子は、あなたの居場所を隠したと言われて打たれた。今度は私の名で打たれる」
アッタは灯を置いた。火の音しかしない。
「では、私が参ります」
「明日は、私の髪を結うのでしょう」
「結ってから参ります」
史実メモ:ロターリオ、エンマ、エドギタ、リウトガルトの家族関係は確認できますが、パヴィア宮廷の部屋や調度、娘の寝台跡、亡き王妃の部屋を閉じた逸話は残りません。旧厨房裏での侍女と弟の再会も含め、本話の場面と会話は本作の創作です。




