第19話 親切でアルプスは越えない
「知らない」
オットーは、もう一度そう言った。聞き違いではなかった。
爪が掌に食い込む。考えろ。カノッサに届いた婚姻の誘いには、私が誰の娘で、誰の寡婦で、どの土地に名を残す女かが揃っていた。調べたのだ。調べられることは、全部。その男が、3歳の娘の寝場所だけを知らない。
「探してもいなかったのですか」
「あなたが生きていると知る前から、娘まで捜せたと思うか」
その言い方で、喉が一段上がった。奥歯を噛んで、声を戻す。
「婚姻を申し入れるだけのことは知っていたでしょう」
声が高くなった。喉が、私の指図を聞かない。背後でアッタが身じろぎし、扉の外の兵がこちらを見る。オットーは兵に手を振り、開いた扉から遠ざけた。
「あなたがブルグント王の娘で、イタリア王の寡婦だということは知っていた。北へ帰る巡礼が、よくあなたの話をした。パンと寝床の話だ。あなたの土地も、ベレンガーが欲しがる理由もな。だが、エンマが最後に誰と眠り、どの門を出たかは知らない」
「では、あなたが欲しいのは私ではない。私についている名です」
「名も欲しい」
言い訳を待っていた胸に、硬いものが正面から当たった。オットーは目を逸らさなかった。
「あなたが自分で牢を出る女だということも、いま欲しくなった。都を得た王が美しい寡婦に心を動かされた、それだけの話を望むなら、別の男を選べ」
「ずいぶん親切な求婚ですね」
「親切でアルプスは越えない」
笑うところなのかもしれない。笑えば負ける気がして、私は男の顔を睨んだ。
「エンマは3歳です」
オットーの表情から、わずかな軽さが消えた。
「最後にいた宮は」
「ここです。ロターリオが死んだ後も、しばらくは」
オットーは卓へ寄り、蝋板を引き寄せた。
「乳母の名は」
答えた。女の生まれた土地、夫がいたか、どの言葉を話したか。口にするたび、娘について知らないことが増えていく。いつ引き離されたのか。誰が連れ出したのか。いまも同じ乳母がそばにいるのか。
「娘だと見分けられるものは」
「髪は私より淡く、目は父親に似ています」
「同じ色の子は大勢いる」
分かっている。母なら、眠る直前に鼻の頭をこする癖でも、笑いすぎて出るしゃっくりでも、ひと目で見分ける。見たことのない者に渡せる印となると、急に手の中が空になった。去年、転んで作った膝の傷さえ、もう消えているかもしれない。
オットーは一度も「きっと無事だ」と言わなかった。言わない男の言葉なら、いまは信じられる。
袖から、母の名の手紙を出した。
「これがカノッサへ届きました。母の字かどうかは分かりません。ただ、書かせた者は、私が新しい婚姻を受けたと聞いています」
オットーは受け取り、窓の光へ向けた。読める男だ。
「受けてはいないな」
「ええ。受けたと言えるのは、受けさせたい側だけです」
オットーは紙を裏返し、光へ透かした。
「母君の名を借りて、あなたを山の向こうへ帰そうとした」
「そう読むしかない紙です。娘を握っている手と、母の名を借りた手は、近いところにあるかもしれません」
オットーはそれを返さず、指の間で二度折った。
「預かる。母君の館へ人を出す。本物なら、母君が驚く。それで済む」
それから、彼は本題を置いた。
「旧い家政にいた者を、門ごとに当たらせる。兵は大勢動かさない」
「なぜです」
「娘を持つ者が、こちらの狙いを知る」
「もう知っています。私を動かす名を、あの者たちは知っている」
オットーは動かない。動かないまま、次の言葉を選んでいる。
「なら、なおさら驚かせるな」
「3歳の子がどこかにいるのです。静かに待てと言うのですか」
私は敷居へ向かった。自分で兵を呼ぶ。都じゅうの戸を開けさせる。それしか見えなくなっていた。
オットーが前へ出た。腕はつかまず、大きな身体で行く手を塞ぐ。
「退いて」
「兵を何人出す」
「見つかるまで」
「どの家に入れる」
「すべてです」
「それで最初に逃げるのは、誰だ」
答えたくなかった。背後で、アッタが小さく言った。
「姫さまは、大勢の靴音がすると眠れませんでした」
振り返る。アッタは諭す顔をせず、泥の乾いた自分の靴を見ていた。
牢の回廊を走った兵の靴音。あの音が近づくたび、私は数を数えて呼吸を守った。エンマに、その数え方はまだ教えていない。娘を捜す兵の音が、娘をもっと遠くへ追う。
足が、敷居の手前で止まった。
止まった目の前に、今朝の門が戻ってきた。書記の台。上から順に並んだ行。
「門で、書かせてください」
オットーが眉を寄せる。私は扉から離れ、彼の卓まで戻った。
「今朝、あなたの書記の手元を見ました。男の名と、荷と、馬の数。子どもは数だけです」
「門を締めろというのか」
オットーの顎が、わずかに引かれた。私は続けた。
「開けたままです。出る子と入る子の年頃と、連れている者の名を、そこへ足させてください」
「列が伸びる。都の者は、新しい王が門を締めたと言う」
オットーは卓の端に指を置いた。断る前の手つきだ。私は卓の板へ、指で3本の線を引いた。
「門役の手は使いません。1日に3行増えるだけです。伸びるのは紙の方です」
「何が分かる」
「今日は何も。娘を連れて動く者は、いつか門を通ります。通った日を、後から読みたいのです」
オットーは黙った。指の墨の跡を親指でこする。私は、彼の口が開くのを待った。
「門ごとに書記を1人増やす。写しは日ごとに私のところへ」
「私のところへも」
オットーの目が、初めて少し細くなった。私は言い足さずに待った。
「同じ日にか」
「同じ日に」
「よかろう」
掌の爪の跡が、まだ消えていなかった。
「捜す者を、あなたの側で固めないでください」
「では、あなたの者を一人つけろ」
アッタを見た。傷めた足でここまで来た女を、すぐ別の危険にさらそうとした自分に気づく。
「私ではありませんよ」アッタが先に言った。「走れる者にしてください」
オットーの口元が動き、動かないうちに戻った。マルティンが、旧宮の台所へ薪を運んでいた男に心当たりがあると申し出る。左手を見ると、彼は添え木のとれた2本の指をわざと開いてみせ、途中で顔をしかめた。
「穴を掘るよりは役に立ちます」
王側からは、パヴィアの裏道を知る者をつける。二人が戻るまでは兵を動かさない。そこまで決まった。捜索の中に、私の目と耳が一組。小さい。けれど、私のものだ。
「エンマが戻るまで、婚姻には答えません」
言い渡した。娘を、条件の最初に。
ところがオットーは、すぐには反論しなかった。
「それをベレンガーが聞けば、娘を返すと思うか」
胸の奥が冷えた。
「返さないだろうな。あなたが答えないかぎり」
唇が開いたまま、声が出ない。
エンマを条件の最初に置く。条件は、敵にも読める。娘を握る者が、婚姻の時を決められる。私はいま、娘の値を自分で吊り上げて、その値札を敵の手に渡しかけた。
「卑怯です」
「私がか」
「それを今、言うことが」
喉から出た声が、自分のものに聞こえない。言い直しはしなかった。
「では、誰が言えばよい」
憎らしいほど静かな声だった。娘を連れてこられない無力も、私の間違いを言い当てたことも、まとめて憎みたかった。
「あなたは、娘を見つけられなくても私に婚姻を求めるのですね」
「求める。見つければ褒美になるとも言わない」
「なら、私に何を差し出せるのです」
オットーは窓の外を指した。別の王の名で動き始めた都。槍を持つ兵。彼に会う順を待つ人々。
「軍。冬を越す場所。あなたを王妃と呼ばせる力。私の敵と、あなたの敵が同じであるあいだの平和」
指の先が冷えていた。私は、もう一つ訊いた。
「愛は」
「まだ、あなたも差し出していない」
言い返す言葉が見つからず、腹だけが立った。
オットーは閉じていない扉の脇に退いた。右の親指が、指の古傷を一度こする。この男にも、もう呼び戻せない妻がいる。
「捜索は始める。婚姻とは別にだ。だが一つだけ、いま考えておけ」
私が黙っていると、彼は傷から指を離して尋ねた。
「娘を連れ戻せない私でも、あなたは選べるか」
史実メモ:エンマがアーデルハイトと前王ロターリオの娘だったことは確認できますが、951年の居場所は分かりません。オットー本人が所在を知らないこと、母が総ざらいの捜索を求めること、少人数で始める判断、門の記録に子どもの年頃と連れの名を書かせる取り決め、婚姻条件をめぐる会話は本作の創作です。




