第17話 私の名を外してください
厩で、私の名が声に出して練習されていた。
厩の匂いが濃く、藁の埃が斜めの光の中に浮いている。1頭の馬に鞍が載り、家人がその文句を繰り返していた。半分まで進むと詰まり、また最初から始める。
「イタリア王妃アーデルハイトを保護している。城を預かるアットーは、東フランク王に、その、忠節を――忠節を、いや」
家人の口上に、私は割って入った。
「私の名を外してください」
付き添いの兵と階段を下りてきた私に、家人は口を開けたまま止まった。アットーは振り返らない。鞍帯を締める手も止めない。
「おまえは門札を外した。私は、おまえの名を口上から外せと命じられる筋合いか」
「ありません」
答えると、鞍帯の音が止まった。アットーが、今度は私を見た。
「それでも頼みます。私が王弟を通じて忠節を誓った、とは言わせないで」
「この城がおまえを匿った功を、誰かに先取りされてからでは遅い」
「功を伝えるのは止めません。私の返事まで載せないでください」
アットーは鼻で息を吐いた。
「返事をしない女を守った、と伝えて何が買える」
「少なくとも、嘘を売らずに済みます」
言った端から、どの口が、と自分でも思う。アットーの片眉が同じことを言った。
「昨夜、嘘で門を開けた口が言うか」
「だからです。もう一つ増やしたくありません」
家人が助け舟を出そうとした。
「あの、口上にお名前がございませんと、聞く方はどなたのお話か分かりませんで、その」
「守った物なら、城と麦と人です」アッタが飼葉袋に腕を入れながら言った。「そこは間違えようがありません」
家人は口を閉じた。アッタは袋の底を掌で確かめている。
「片道ぶんしかありません。向こうで断られたら、人も馬も戻れません」
「王弟が、王妃を守った城の者を追い返すものか」
「王弟は、まだ私たちを見てもいません」マルティンが答えた。「王妃が忠節を認めたと伝えるなら、私は見届けたとは言えません」
アットーは三人を順に睨んだ。
「牢から一緒に来た者は、揃って面倒だな」
「一人ずつなら、もっと扱いやすかったでしょう」
アッタの声に、アットーは笑わなかった。だが家人へ、鞍を外せと命じた。
「日暮れまでだ。それまでに次の知らせがなければ、私の名だけで出す」
鞍が土に下りた。飼葉袋が厩へ戻る。半日、私の返事は私の口に残った。アットーは門の方へ歩いていく。家人が口上を持って追いかけ、足を止めた。
*
日暮れより先に、一人の男が坂を上ってきた。
馬は口から泡を吹き、外套には乾いた泥が幾層もついている。門前で武器を預けると、パヴィアのオットー王から、と言った。
アットーは門を閉じたまま、覗き窓越しに尋ねる。
「印は」
「ありません。口で伝えるよう命じられました」
「誰に」
「アーデルハイト王妃ご本人に」
男を入れれば、王使を迎えた城になる。追い返せば、王の言葉を拒んだ城と語られる。昨日までの私なら、答えを整えてアットーに渡しただろう。今日は黙って彼を見た。
「私の門だ」アットーが念を押す。
「ええ」
「武器を置かせ、門内の番所まで。日が落ちれば一食ぶん増える」
「あなたが決めてください」
小さな戸が開き、男は二人の兵に挟まれて入った。私を見つけると膝をつく。借り衣に一瞬戸惑い、すぐ目を伏せた。膝の下で土間の藁が鳴った。番所の壁には、この城が誰から何を買ったかの札が並んでいる。その札を見ながら、男の言葉を待った。
「ベレンガー王は、パヴィアを退きました。オットー王が都におられます」
喜びは来なかった。
夫と歩いた宮の回廊が浮かぶ。秋の朝、窓に霧がつき、乳母に抱かれたエンマが向こうから来た。あの都から敵が去り、今は見知らぬ王が座っている。
「戦いは」
「入城の後に出ました。市内の大きな戦いは見ていません。外は知りません」
「ベレンガーは捕らえられたのですか」
「退いた先も知りません」
男はそこで息を整えた。ここからが本題だ、と背中が言っていた。
「王は、あなたに平和を申し出ておられます。それから、婚姻を」
番所にいた者たちが一斉に私を見た。また花嫁の顔を求められている。
「私が行けば、婚姻を受けたことになりますか」
「王は、最高の礼をもってお迎えになります」
「答えになっていません」
男は口を閉じた。この男にも、そこは答えられない。
「オットー王は、エンマの居場所を知っていますか」
「娘君のことは、聞いておりません」
母の名で届いた手紙より、冷たい答えだった。だから信じられた。
「婚姻には答えません。平和が私と、私とともに来る者に及ぶか、王本人に尋ねます」
「では、王に何と」
「私が行きます」
言った瞬間、膝の震えが止まった。怖さは残っている。身体の方が先に、進む方角を決めていた。
番所を出たところで、マルティンが小声で訊いた。
「なぜ行くのです。ここで待てば、迎えが来ます」
「見えない王のままでは、返事のしようがありません。会えば、顔のある相手になります」
「顔を見て、悪い相手だったら」
「悪い相手だと分かった上で選びます」
マルティンは左手の添え木を押さえた。折れた2本の指が、雨の前に痛むと言っていた。
*
翌朝、門前に旅支度が並んだ。
「私は、まだ怒っています」
外套を巻きながら、アッタが言った。
「知っています」
「でも参ります。王の前で、エンマ様の次に私の弟を思い出してくださるか、見届けます」
「見つけるとは約束できない」
「約束したら、今は余計に信じません」
マルティンも帯を締め直した。
「私は、あなたが牢で婚姻を拒み、ここから自分で出たところまでを見届けます。その先まで神の名で飾りません」
アットーは、土に下ろした鞍を同じ馬に戻させた。それから木箱を運ばせ、紐を掛け、蝋へ自分の印を押した。
「マルティンの荷に結べ。パヴィアで開けろ」
「いま開けてください」
アットーの手が、蝋の上で止まった。
「私の印だぞ」
「私の荷になります。私の名で運ぶ物なら、中身も私が知っておきます」
「途中で母恋しさが戻ったら、どうする」
「読みます。何度でも」
アットーはしばらく私を見て、それから短刀の背で蝋を割った。割れた蝋は、内側だけが白い。紐が緩み、木の蓋が指の下でわずかに反った。
中には、母の名で届いた手紙。その下に、折った一枚があった。
「これは」
「数えた物だ」
「読み上げて」
アットーは自分では読まなかった。オルデリーコが呼ばれ、腫れの残る口で読み上げる。麦、何日ぶん。馬2頭。飼葉。薪。焼いたパン。侍女の足に巻いた布。最後に、門札1枚。
「私が食べた物ですね」
「おまえが食った物と、おまえのために減った物だ。誰かに訊かれた時、私は数を言える」
「返せる物を持って戻ります」
「持っていない物を約束するな」
一枚は木箱へ戻した。手紙の方は、自分の袖に入れる。
蓋が開いてすぐ、もう一度読んでいた。エンマは慈悲ある者の屋根の下にいる。泣いてはいるが、病んではいない。おまえが新しい婚姻を受けたと聞いた――。
「アットー。これを書かせた人は、私が婚姻を受けたと聞いています」
「受けてはおらんだろう」
「ええ。受けたと言えるのは、受けさせたい側だけです」
アットーは黙った。門役が横木に手を掛けたまま、こちらを見ている。
「その名は知りません。パヴィアには、婚姻の話を運んだ者がいます」
アットーは何も約束しなかった。オルデリーコは、読み上げた紙の端を揃えている。
門役が横木を上げた。オルデリーコが、出ていく馬と荷を声に出して数える。一度は彼を縛った門役が、低く言い直してやった。
私は泥の残る鞍に乗った。最初の一度は膝が曲がらず、アッタに尻を押される。
「王妃らしくないわね、私」
「門札の夜よりは、ましです」
笑えなかったが、息は少し軽くなった。
門を越える。アットーは敷居の内側に残り、私の手綱を取らなかった。
背後で横木が落ちた。肩が跳ねる。振り返らずに、馬首をパヴィアへ向けた。
道は霧を抜け、平らな畑の間へ落ちていく。振り返らないと決めた首が、勝手に固くなっていた。
坂を下りきったところで、王の使いが馬を並べた。
「都の門では、名を呼び上げます。何と申し上げましょう」
「イタリア王妃アーデルハイト。ロターリオの妻です」
「婚姻のお返事は」
「その名で門を入ります。半分は、それで答えたことになります」
「残りの半分は」
「王本人に言います」
男は馬腹を蹴った。私の名が、今度は私の言った形で、先に走っていく。
史実メモ:近い年代記は、オットーがアーデルハイトの解放、婚姻、イタリア王国の獲得を重ねて遠征したと語ります。息子リウドルフの先行を伝える二史料は成果を異なって描き、一方は年を明記しません。本隊の峠道も確定できません。




