第16話 王妃の椅子は、もうない
「王妃の椅子は、もうない」
アットーは立ったまま言った。右隣には、短い脚が擦った白い筋だけが残っている。
私も立っていた。若い書記は柱に縛られ、買付け人は開けられた荷の横で震えている。門役の拳には、まだ他人の血がついていた。
消えた椅子の場所で、傷めた膝が震えた。耐えれば昨夜の盗みを償える気がしたが、アットーは膝を見ても、座れとは言わなかった。
「札を盗んだのは私です。買付け人に渡すよう頼みました」
「頼んだ?」買付け人が初めて顔を上げた。
言い直す。「断りにくいと知っていて、渡しました」男の肩が少し下がった。赦しではない。自分一人の嘘にされずに済んだ顔だった。
「こいつは帰す」アットーが門役に告げた。「門札は戻せ。今後、夜は受渡口にも横木を入れろ」
「では、書記は」
「これから聞く」
「もう認めています。城の中から銭を出し、外の噂を買った」門役は若い書記の髪をつかんだ。「吊るせば、次は誰も門を売りません」
若い書記は声を上げなかった。ここで叫べば、皆が聞きたい罪人の声になる。あの黙り方を、私は牢で覚えた。
昨日、この男は釘の列を撫でながら言った。数が合わないと、まず私が呼ばれます。前の門役さまの頃は、それで一晩、柱に――。言いかけて、今の門役さまはそのような方ではありませんので、と自分で打ち消した。私はそれを聞いた上で、夜に札を1枚抜いた。
「裏切り者を処刑しないでください」
門役が笑った。「王妃さまは、ご自分が見逃されたいらしい」
「私に対する処分と混ぜないで」
「混ぜたのはあなたです。同じ男に、夜中に札を渡した」
返せなかった。銭も自分の罪だと言えば、救えるかもしれない。だが、彼が何を買ったかも知らない。王妃の名で罪まで引き取れば、この男は自分の事情を話せなくなる。私は口を閉じた。
アットーが若い書記の前にしゃがんだ。「銭で何を買った」
「北から来る軍の話です」
「誰の軍だ」
「北の王オットー」
広間が静まった。
「なぜ黙った」
「母と妹が坂の下にいます。王が王妃を迎えに来るなら、ベレンガー側が先にこの城を囲む。違うなら、北の軍が城を攻める。逃がす道を決めたかった」
「道は決まったのか」
「決まりません。どちらでも、粉挽きの道しか残りませんでした」
門役が手を放した。「母が外にいるのは、おまえ一人か」
「違います」
「私もだ。だから門を勝手に売らない」
「あなたは門を守れば、母も守れると思える。私は帳面を開いても、妹を入れられません」
狭間の向こうで、坂下の家々から朝の煙が上っていた。どの屋根かは、ここからは分からない。同じ村を守りたい二人が、互いを裏切り者と呼ぼうとしている。
門役の腕がまた上がった。アットーが手首をつかむ。
「次に殴れば、おまえを柱につなぐ」命令は低かった。門役は歯を食いしばり、拳を下ろした。
私は若い書記を見た。見た者のいない手紙に、昨夜の私は門札を払っている。
「オットー王を、見た人から聞いたのですか」
「王本人を見た者はいません。塩を運んだ男は、山へ入る一団が王の名を叫ぶのを聞いた。巡礼者は同じ宿で、その話を聞いただけです」
「では一つの話だな」アットーが言う。
「もう一つあります。司教領を通った聖職者は、別の道で王の家人を見たと言った。王の弟が使者を南へ送ったとも」
「本人は」
「見ていません」
確かな姿は一つもない。それでも遠い王の名が、初めてこの石壁の内側に入った。
助けに来たのかもしれない。甘い考えが、母の名を信じた夜と同じ速さで胸に入ってくる。今度は喉で止めた。
「この者を生かせば、もっと分かります」私は言った。
「また噂を買わせるのか」門役が睨む。
「銭は渡さない。門の外へも出さない。すでに話した者が次に荷を運んでくるなら、あなたの前で聞かせる」
「ずいぶん整った答えだな」アットーが立ち上がった。「母の手紙を読む前なら、私も感心したかもしれん」
頬が熱くなった。「感心は要りません。死者からは、次の道を聞けません」
「こいつのためか。オットーのためか」
「両方です」
若い書記がこちらを見た。私は、その目を見返せない。アットーはしばらく黙り、柱の縄に手を置いた。「出納から外す。門札にも銭にも一人で触れさせない。門役の前で、知っている者も話も全部出せ」
「裏切っていれば?」門役が問う。
「その時は私が決める。おまえは下がれ」
縄が解かれた。若い書記は膝から崩れ、柱の根元に座り込む。門役は支えなかったが、水の椀を足元に置いた。
腫れた口から水が衣に落ちた。門役は舌打ちし、靴先で椀を近くに押した。「こぼした分は自分で拭け」
次に、アットーは私へ向いた。「おまえは門楼に一人で近づくな。部屋を出る時は、私の者を付ける。手紙は預かる」
「焼かないで」
「母の物かもしれないからか?」
「違うと言い切れないからです」
アットーは返事をせず、それを木箱に入れた。鍵を自分の帯に戻す。私には、椅子も手紙も残らなかった。
アッタが部屋まで付き添った。階段を半分上ったところで立ち止まる。
「私にも、水だと嘘をつきました」
「ええ」
「手紙を信じたのですか」
「信じたかった」
「私を眠らせておきたかったのも?」
「……ええ」
アッタは首を振った。「信じたかったのなら、昨夜そう言ってくださればよかった。水の話は、もう聞きたくありません」
先に階段を上っていく。足を庇っているのに、待たなかった。
部屋で包帯に手を伸ばすと、アッタは自分で巻き直した。結びは一度失敗し、二度目も緩かった。それでも手は借りない。昨夜なら触れられた傷に、今日は届かなかった。
午後、下の門で鞍金具が鳴った。若い書記から話を聞き終えたアットーが、一頭に旅支度を載せさせている。
「どこへ出すのです」付き添いの兵越しに訊いた。
「王弟の使者が来たという方角へ。オットー王に、この城が誰を守っているか知らせる」
誰を守っているか。その口上には、私の名が載る。昨夜の盗みは、それを許した印ではない。私は階段の手すりを握った。
*
日が傾いてから、厨の裏で若い書記に会った。石臼の陰に座り、腫れた口を布で押さえている。門役は3歩離れた場所にいて、こちらを見ていた。
「王は、少なくない兵とアルプスへ入ったそうです」男は言った。「行き先はパヴィアだと」
「それも、見た者はいないのね」
「はい。ですが、もう一つ、確かなことがあります」
男は布を口から外した。「銭をくれた者は、粉挽きの道から下りてきました。あの道は、この城へ用のある者しか通りません」
「それが、何か」
「母君の包みを預けた者も、同じ道から来たと、買付け人が申しておりました。分かれ道と言ったのは、粉挽きの道と街道が合わさる場所のことです」
石臼の陰は暗く、男の顔はよく見えない。腫れた口が動くのだけが見えた。
「粉挽きの道は、下でどこへ出るの」
「尾根の下を通ります」
尾根。旗の立った尾根だ。母の名で来た包みは、あの布の下をくぐって坂を上ってきたことになる。
「名前を教えて」
男は門役の方を見た。門役は何も言わなかった。
「オルデリーコと申します」
「オルデリーコ。覚えました」
私は付き添いの兵に向き直った。「アットーのところへ連れていってください。あの手紙を、もう一度読みます。旗の下から来た紙として」
史実メモ:城内の出納書記、門役の処刑要求、柱へ縛る仕置き、アットーが即決を認めない判断は本作の創作です。近い王朝詩が描くのは、オットーが少なくない一団と高いアルプスに囲まれた地へ入ったことまでで、峠・人数・救援要請は確定できません。




