第15話 母の名で届いた手紙
マレンゴ。コラーナ。オローナ。
――三つの土地を覚えている、私の小さな娘へ。
その一行だけは、母の声で読めた。
6歳の冬、順を間違えると、母は指輪で卓を叩いて最初から言わせた。優しい教え方ではない。それでも三つとも言えた時だけ、冷たい宝石の上から額に唇をつけた。あの褒美が欲しくて、私は土地の形も知らないまま名を覚えた。
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エンマは慈悲ある者の屋根の下にいる。泣いてはいるが、病んではいない。おまえが新しい婚姻を受けたと聞いた。これ以上、庇護する者に面倒を掛けず、帰りなさい。
帰れ、とある。どこへ、とは一言もない。確かめるより先に、母の館の寝台が見えた。エンマは私の顔を忘れて泣き、抱き上げれば少し遅れて首に腕を回す。そこまでを、一息に信じた。
受け取った証には、城の門札を1枚持たせよ。
「エンマは生きています」
口に出すと、胸の中に光が差した。文字がそう言っただけだ。分かっている。それでも、もう娘の頬に触れた気がした。
「いつ見たと書いてありますか」アッタが訊いた。
「病んでいないと」
「いつですか」
「書いてない!」
買付け人が身を縮め、マルティンは目を伏せた。アッタだけが私を見ている。
「読めない私にも、それくらいは訊けます」
私は手紙を折った。強く折りすぎて、羊皮紙が鳴った。
「弟のことなら、私は屋根の色まで訊きます」アッタは引かなかった。「病んでいないなら、誰が身体に触れて確かめたのかも訊きます」
「あなたの弟とエンマは違う」
言ってから、アッタの顔を見られなくなった。何が違う。身分か。年か。自分の痛みだけを大きいと思う癖か。アッタは答えず、差し出していた刃を布に戻した。
「母しか知らない呼び方です」
「三つの土地を知る人は?」マルティンの声は慎重だった。
寡婦財産の文書を作った書記。立ち会った者。王家の財を検めた敵。指を折れば、母の他に片手で足りない。
「母も、知っています」
それ以外は言いたくなかった。
アットーが手を差し出した。「預かる。返す物はない」
「母からなら?」
「母からでも、門札はやらん。よその親子が抱き合うために、私の門を裸にする気はない」
「1枚です」
「1枚で、どの城から返ったか分かる」
分かれば、母は迎えを寄越せる。エンマのいる屋根へ行ける。その先は考えないことにした。考えれば、賭けたい、と口が言う。
「本物なら、今夜を逃せば母へ返事を届けられないかもしれません」
「偽物なら、門札からこの城を突き止められる。だから私の札を使うのか」
私は口を閉じ、それから言った。
「返しません」
嘘は、驚くほど滑らかに出た。
アットーは手紙を私に残した。「買付け人は門脇で休ませ、夜明けに出す。門札は数え直せ」
*
午後、門楼で数を読む声がした。細長い木片を1枚ずつ壁の釘から外し、また掛け直している。焼印のある木片だ。声の主は若い男だった。手の甲にも袖にも黒い染みがある。
「出納を手伝っております」私に気づくと、男は木片を取り落としそうになった。「いえ、手伝っていた、と申しますか、今朝から数え直せと言われまして。私が間違えたのではなく、いえ、間違えていないと申し上げているわけでも」
「1枚足りないと、どうなるのですか」
「多い時は、通していない荷が通ったことになります。帳面で追えます」
男はそこで口を閉じ、それから声を落とした。
「少ない時は、誰かが持って出たことになります。こちらは、人を探します」
「今は、何枚あるの」
「38です」男は釘の列をもう一度端から撫でた。「昨日から1枚見つからなくて、粉挽きの荷の底に落ちていました。合ったんです。今日は合いました」
合った、と言った時の声からは、早口が抜けていた。
「数が合わないと、どうなるの」
「まず私が呼ばれます。前の門役さまの頃は、それで一晩、柱に――いえ、今の門役さまはそのような方では、ありませんので」
男は自分の言葉に驚いた顔をして、袖で釘を拭き始めた。私は木片の列を見た。焼印はどれも同じで、端の1枚は角が欠けている。
*
夜。アッタは寝台で眠っていた。傷む足を、初めて布の外へ伸ばしている。包帯が緩んでいた。昼なら巻き直せと言っただろう。今起こせば、門へ行く理由を問われる。布の端に触れかけた手を、私は引いた。
内側の閂を上げる。
扉が開いた。牢ではできなかったことだ。誰にも止められずに廊下へ出ると、自由は暗く、ひどく都合がよかった。
曲がり角の夜番には、祈りに行くと言った。一人でなければ言えない祈りだと押し切ると、男は王妃の私事から目を伏せた。
門札は昼に見た場所に掛かっていた。角の欠けた1枚を外す。隣同士の札が乾いた音を立てた。
母上へ。返事は持たせない。持たせるのは、問いだ。
暗い受渡口まで行くと、板壁の向こうで、明朝発つ買付け人が藁の上に起きていた。
「これを、手紙を渡した者に」
「どなたです」
問われて、声を低くした意味がなくなった。男は門上で私の声を聞いている。
「王妃さまですか」
「母に届けばよいのです」私は木片を握ったまま続けた。「渡す前に、一つだけ訊いてください。――『名の順を間違えた娘を、母は何で卓を叩いて直したか』。すぐ答えた者にだけ、渡して。詰まったら、渡さずに捨てなさい」
「答えは、何なのです」
「あなたは知らないままでいい。それで、その札はただの木になります」
男はすぐ手を閉じなかった。疑われると分かっているだろうに、王妃に見つめられ、最後には指を曲げた。頼みという形をした、断りにくい命令だった。
「見なかったことにしてください」
板の隙間から伸びた手に、門札を押し込んだ。男の指が震え、木片が一度落ちる。拾う音が、廊下に大きく響いた。
部屋へ戻ると、アッタは眠ったままだった。安堵し、その安堵を恥じる前に寝台に入る。
「どこへ行ったのですか」
暗闇から声がした。アッタは目を閉じたままだった。
「水を飲みに」
「水差しは、ここにあります」
私は返事をしなかった。アッタもそれ以上は訊かず、背を向けた。二人の間に、牢にはなかった広さができた。
エンマが生きている。
あの言葉を胸に置き直すたび、嘘かもしれないという声は小さくなった。問いは持たせた。母なら一言で答える。賭けた者の眠りは、浅かった。
*
夜明け前、門楼で怒鳴り声がした。
広間へ下りると、買付け人の荷が床に開けられていた。角の欠けた門札が、その中央にある。
柱には、昨日の若い書記が縛られていた。唇が切れ、片頬が腫れている。門役が彼の小銭袋を逆さにし、買付け人に渡ったのと同じ銭だと怒鳴った。
聞けば、札が1枚足りず、出発前の荷を開けると、買付け人の袋から出た。男は以前にも内側から小銭を受け取ったと認め、出納に触れる若い書記の名が最初に上がった。
「噂を買いました」若い書記は認めた。「城外の母と妹を逃がすべきか知りたくて。門札は知りません」
「こいつは内側から銭を渡した」門役が言う。「昨夜も内側から札が出た。ほかに誰がいる」
買付け人は黙っていた。私の方を見ない。
アットーが右隣の椅子に目をやった。昨日、私を王妃として座らせた椅子だ。
「その札を渡したのは、私です」
広間の全員が、今度は私を見た。
アッタも見た。昨夜の水の嘘が、その目の中で門札の形になった。
「書記を放してください」
アットーは何も答えず、短い脚の椅子をつかんだ。石床を引きずり、右隣から遠ざける。
「札はおまえが盗んだ。銭はこいつが隠した。二つとも、これから聞く」アットーは門役に向いた。「私が決める前に、もう殴るな」
若い書記の縄は解かれなかった。私の椅子も戻らない。
椅子の脚が鳴る音は、牢の鍵より長く続いた。
史実メモ:母ベルタや兄コンラートの名を使った偽書状、運搬役、城内の協力者を示す史料はありません。本作では出所不明の偽情報として描き、実在の親族が降伏を勧めた事実とはしていません。




