第14話 王妃はもう降伏した
朝まで待つと言ったのは私だ。その約束を破るのに、夜明けの半分もかからなかった。
横木が上がる音を聞いた時には、もう寝台を出ていた。靴を探す時間が惜しい。裸足のまま回廊へ出る。
「王妃さま」侍女アッタが追いつき、外套を背に投げた。留める暇はない。肩からずり落ちる布を押さえ、私は門楼の階段を上った。
尾根に旗はない。坂の下には、3袋を積み直した買付け人と、塩を積んだ2頭、その売り手。旗が退いたから道へ出られる者たちだ。
「顔を出すな」アットーが上から下りてきた。「言葉を持たせるなら、昨日の男一人で足りる」
「一人の口で始まった噂ではありません」
「なら、おまえ一人の口で止まりもしない」
正しい。正しいので腹が立った。私は狭間に立った。冷たい石が裸足に食い込み、膝が震える。坂下の顔が、一つずつこちらを向いた。
「聞いてください」
最初の声は風に負けた。息を吸い直す。
「私は、ロターリオ王の妃アーデルハイトです。ベレンガー王家との婚姻には、同意していません」
塩売りの一人が、目の上に手をかざした。「本当に王妃なら、お顔を」
「やめろ」アットーの手が腕へ伸びる。その前に、私は一歩、狭間の明るい側へ出た。
借り衣。乱れた髪。泥で変色した爪。王妃だと信じさせる物は、この身体のどこにもない。それでも買付け人が帽子を取り、膝をついた。塩売りたちも遅れて頭を下げる。
「城に閉じ込められているのですか」
「いいえ。私は自分で、この門に保護を求めました」
「では、いつ出るのです」
答えを持っていなかった。行く先も、エンマの居場所も知らない。自由になったはずの口が、次の一語を出せない。
このまま黙れば、あの者たちはそれぞれの答えを作って持ち帰る。
「話を運ぶなら、荷をひとつ足してください」声は、今度は風に負けなかった。「私が同意したと言う者に、訊きなさい。――その同意書を、見た者はいるのか。証人の名を、一人でも挙げられるのか」
買付け人が顔を上げた。塩売りが隣と目を見合わせる。そこまで見る前に、アットーが私を狭間から引いた。「閉めろ」
横木が落ち、買付け人も塩売りも門外に残った。私の声だけが、先に坂を下りていった。
*
「昨夜は朝まで待つと言ったな」広間へ戻ると、アットーは私の椅子を蹴った。短い脚が浮き、床で鳴る。
「朝になりました」
「日の出より早ければ嘘にならん、と?」
言い返せなかった。
「横木は4人で上げる」アットーは指を折らずに続けた。「今朝は3人しかいなかった。厨の火番を起こして4人目にした。番が狂えば、門札の数も狂う」
「門札」
「荷駄1台に1枚、木片を外へ持たせる。帰れば戻す。1枚多ければ、通していない荷が通ったことになる」アットーは私を見た。「昼までに数え直させた。まだ1枚合わん。合うまで、出納の者は寝られん」
私は口を開いたが、続きがあった。
「塩は山を下りた。この城へは来ん。冬の肉に塩がなければ、春まで置けん」
「代金なら、後で」
「代金の話をしているか。あの売り手は、次の冬もここへ来る男だった」
拳が卓に落ちた。椀が跳ね、薄い粥がこぼれる。「おまえに声を返した。私の兵の朝まで好きにしてよいとは言っていない」
牢で奪われた声を取り返したかった。そのために、他人の門を自分の喉のように使った。
「すみません」
「謝る相手が違う」
私は門兵たちの方を向いた。昨日、母の家が坂の3軒目か4軒目か答えられなかった男もいる。火番の代わりに横木へ入ったのは、その男だった。
「今朝、村へ下りる番だったのは」
男は口を開けて、閉じた。隣の兵が代わりに答えた。「この者です」
「代わりの日は」
「決めるのは私だ」アットーが言った。「今日ではない」
男は頭を下げられる前に顔を背けた。何を言っても、止めた商いも門兵の手間も戻らない。私は黙り、床にこぼれた粥を布で拭いた。アッタが膝をつこうとするのを、手で止める。自分の椀から出た粥ではない。それでも、自分が揺らした朝だった。
「次に門へ走るなら、せめて靴を履いてください」アッタが言った。
「止めないの?」
「止めても走ります。追う私の足がまた裂けます」
怒っているのか呆れているのか、声からは測れなかった。私は裸足を衣の下に隠さず、うなずいた。
*
2日目、中庭で子供たちが門楼の真似をしていた。薪の山を城壁にし、厨房の少年が上に立つ。下の幼い子が「もうお嫁に行った」と叫ぶと、少年は胸を張って「行っていない」と言い返した。
別の子がすぐ口を挟む。「城の人に言わされたんだよ」
皆が笑った。私に気づくと、薪の陰へ散る。残った幼い子だけが事情も知らず、「どっちが本当?」と訊いた。
答えられずにいると、アットーが横を通った。「叱らんぞ。子供の口まで門の中に閉じ込める気はない」
足も止めずに行った。
夜、門上で言った2文を思い返した。婚姻を否定しても、「城の者に言わされた」と一言加えられれば逆の話になる。まだ確かめようがあるのは、同意書を見た者と証人の名を問う言葉だけだった。
4日後、買付け人が戻った。荷は1袋増えていた。
「井戸では、王妃の声を聞いた者の話になりました」男は袋を下ろしながら言った。「婚姻を拒んだと信じる者もいます」
「ほかは?」
「城の者に言わされたのだ、と。あるいは婚礼の相手を替えたいだけだ、と」男は袋の紐を結び直した。「一番よく聞いたのは、王妃はもう降伏した、という言い方です」
「降伏」
「はい。負けて、承知した、と。もう終わった話だから騒ぐな、という時に、皆それを使います」
否定は噂を殺さなかった。新しい口を付けただけだ。その口の一つは、間違いなく私自身だった。
「それと、同意書の話が出ています」男が続けた。「見た者を探して、井戸で訊き回った者がいます。書記の名を挙げた者も、立会人を名乗る者も、まだ一人もいないと」
「1袋は、それで?」
「売り手が言いました。見た者のいない婚礼の邪魔なら、いくらしても罰は当たるまい、と」
アッタが袋の腹を叩いた。乾いた粒の音がする。「1袋ぶんは、信じなかった方がいるようです」
今夜のパンになる音だった。私は袋に触れ、「運んでくれてありがとう」と男に言った。
男は帽子を被り直さなかった。
「もう一つ、運びました」
外套の内側から、細い包みを出す。封蝋はなく、色褪せた糸が二重に巻かれていた。
「分かれ道で預かりました。母君ベルタ王妃からだと」
手が先に伸びた。アットーが止めるより早く、包みを取っていた。
「返事は?」
「要らないそうです。受け取った場所が分かる印を、何か一つ」
母なら、娘がどこにいるか知りたいはずだ。見つけた者に証を求めもするだろう。疑う手順が頭の棚に並ぶより先に、額に冷たい指輪の感触が戻った。熱を出した夜、母が髪を梳いてくれた時の手だ。
もう一度、あの手に触れたかった。19歳の王妃としてではなく、叱られれば帰る場所のあった6歳の娘として。
指が震え、糸をうまく解けない。アッタが刃を差し出したが、首を振った。切れば、母につながる何かまで断つ気がした。歯で結びを緩め、自分の爪でほどく。
開いた羊皮紙の最初に、三つの地名があった。
マレンゴ。コラーナ。オローナ。
6歳の冬、母が教えた順だった。
史実メモ:アーデルハイトの籠城中、ベレンガー側が白旗を掲げて婚姻受諾を迫ったという記録は確認できません。本作も正式な城下使節を置かず、婚姻受諾の偽布告と降伏をめぐる噂を創作しています。




